⑤
夜明けの光が、草原を黄金色に染めていた。
白馬の蹄が湿った土を踏みしめる。
王都を離れて半日。
少女は何度も後ろを振り返った。
もう王城は見えない。
帰る場所は、ない。
胸に抱えた古びた手帳だけが、自分とこの世界を繋ぐ唯一の手掛かりだった。
その少し後ろを、2頭の栗毛馬がゆっくりと続いている。
手綱を握る一人は女剣士だった。
丸みのある頬と健康的な体格。
大きな瞳が印象的で、どこか親しみやすい笑顔を浮かべている。
美人ではないが、ふっくらとした優しい雰囲気を持つ女性だった。
腰には一本の長剣をさしていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
女は柔らかく笑う。
「私はリーナ」
「王命で、あなたの護衛を務めます」
少女は軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
リーナは笑った。
「……でも、本当は護衛より得意な事があるんですけどね」
照れ臭そうに頭を掻く。
「食べることの方が得意です」
少女は思わず小さく笑った。
その笑顔を見て、リーナも安心したように笑う。
その様子を見ていた初老の男が鼻を鳴らした。
「まったく、お主は食べる事しか考えておらんな」
「だが、その体型のおかげで女でも奴隷になる事を免れたのだから……分からんものだな」
リーナは苦笑する。
「ガレス殿……それを言わないでください」
少女は男を見る。
「あなたは……?」
「かつてハルキ殿と剣を交えた仲です」
少女は息を呑む。
「敵……だったんですか?」
ガレスは首を振った。
「親友でした」
その一言で心が落ち着いた。
アマギはミライがカリメア帝国へ旅立つ際に条件を付けていた。
二人の信頼できる護衛を連れていく事を。
アマギ王が彼らを同行させた理由が少女にも良く分かった。
ハルキを知る者。
誰よりも信頼できる者。
———
三人は昼過ぎ、海岸沿いの断崖へ辿り着いた。
その先には港町が広がっている。
しかし。
「……思った以上ですね」
少女は息を潜めた。
港には帝国旗が無数にはためいていた。
鎧姿の兵士。
見張り台。
海上を巡回する軍船。
逃亡者を防ぐため、港全体が要塞のようになっている。
ガレスが静かに言う。
「王都より警戒が厳しい」
海を見渡すリーナの表情も引き締まる。
「正面突破は無理ですね」
少女は小さく呟いた。
「さて……どうしましょう」
ガレスは港ではなく、そのさらに西を見つめた。
海岸線の向こう。
交易船が何隻も停泊している。
「目的地を変えましょう」
「え?」
「ここからカリメアへ直接向かう事は不可能でしょう」
「ならば」
彼は地面へ地図を広げた。
「まずはダカーナ連邦へ渡りましょう」
少女が地図を見る。
パンジャ王国。
ダカーナ連邦。
そのさらに北西。
巨大な国土を持つカリメア帝国。
「ダカーナはカリメアと友好国」
「交易も盛んです」
リーナが説明を続ける。
「だから逆に、人の出入りは多い」
「商人も旅人も奴隷商も毎日行き来しています」
「そこへ紛れ込むんですね」
ガレスが言った。
「ええ、陸路なら検問は多いですが、人も多く通ります」
少女は静かに頷いた。
「……分かりました」
「ダカーナ連邦へ行きましょう」
自分が何者なのか。
なぜこの身体へ宿ったのか。
まだ何一つ分からない。
それでも進まなければならない。
理由だけは、魂が知っていた。
その時だった。
胸元へ抱いた手帳が、小さく温かくなる。
少女は驚いて取り出した。
古びた革表紙。
ミライが残した日記。
ページが風もないのに、ひとりでに開く。
そこに記されていたのは、たった一行だった。
………
東へ。光を追いなさい。そこで、あなたは運命と再会する。
………
少女は息を呑んだ。
「どうしました?」
リーナが覗き込む。
しかし、その文字はもう消えていた。
少女だけが見た幻のように。
彼女はゆっくりと東の空を見上げる。
雲一つない青空の向こう。
誰も知らない世界で、新たな命が静かに目覚めようとしていた。




