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女神の借金カードを押し付けられた元商社マン、異世界村を黒字化する  作者: 月神世一


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第一章 借金女神とポポロ村黒字化計画

女神、池で溺れる。そして不良債権カードを押し付ける

 力武義正りきたけ よしまさは、最初に空を見た。

 青かった。

 東京のビルの隙間から見上げる、切り取られた青ではない。排気ガスと電線と広告看板に縁取られた、見慣れた空でもない。

 どこまでも高く、どこまでも広く、雲が白い獣のようにゆっくり流れている。

 風が草を撫でた。木々の葉が、ざわ、と鳴った。土の匂いがした。

 義正は仰向けに倒れていた身体を起こし、まず自分の手を見た。

 五指は動く。爪も割れていない。手首も折れていない。

 呼吸はある。心臓も動いている。

 服装は、休日にコンビニへ行く程度のラフな格好だった。黒のジャケット、無地のシャツ、動きやすいストレッチパンツ、履き慣れた靴。ネクタイもスーツもない。

 そして、腰に確かな重みがあった。

 義正は左手を伸ばした。

 そこにある。白い鞘。愛刀、白雪。

 最上大業物。虎徹の一族が打ったとも言われる、冬の朝のように静かな刀。

 義正は親指で鍔を押し、ほんの一寸だけ刃を覗かせた。

 ――白い。

 雪のように冴えた刃文が、見知らぬ森の光を吸い込んでいる。

「……白雪は、あるな」

 それだけ確認して、鯉口を切る音も立てずに納刀した。

 胸ポケットのセブンスター。ズボンのポケットにはブックマッチと、コーヒーキャンディが数個。スマホはあるが、画面には当然のように圏外の表示。地図アプリも電子決済も、都会のインフラはすべて沈黙している。

 義正は立ち上がり、周囲を見渡した。

 広葉樹の森。見たこともない赤い実。鳥の鳴き声。遠くで響く獣の唸り。

 日本ではない。東京都でも、商社の会議室でも、鉄鋼部門の資料室でもない。

 義正は眉間を揉んだ。

「ここはどこだ? まさか流行りの異世界転生か?」

 口に出すと馬鹿馬鹿しいが、商社マンは目の前の「事実」を否定しない。

 義正は足元の湿った土を見た。踏み荒らされた形跡はない。獣道に近い。

「まずは水だな」

 人間は、刀があっても水がなければ死ぬ。命のB/S(貸借対照表)において、水は最も流動性の高い必須資産だ。

 義正は頭の中で現状のインベントリ(棚卸し)を行う。

 現在地、不明。

 同行者、なし。

 水・食料、なし。

 敵性存在・文明レベル、不明。

 自らの死亡(または転移)原因、不明。

 義正は軽く舌打ちした。

「初期在庫が渋すぎる」

 静かな森をしばらく歩くと、水の音が聞こえた。細い流れではない。

 木々の間を抜けると、陽光を弾く小さな池があった。水は澄んでおり、周囲には白い花が咲いている。

 義正が歩み寄ろうとした、その時だった。

「アバババ! アバババ! 助けてぇぇぇぇ!」

 池の真ん中で、何かが派手に溺れていた。

 義正は一瞬、足を止めた。

 水面でばしゃばしゃと暴れているのは、桃色のジャージを着た女だった。

 背中には初心者マークのような刺繍。片方脱げた健康サンダルが、ぷかぷかと水面を漂っている。

「何やってんだ、あいつ」

 考えている暇はなかった。義正は白雪を腰に固定し直し、池に踏み込んだ。

 水は思ったより冷たい。底は泥だが、足を取られるほどではない。

「おい! 暴れるな! こっちを見ろ!」

「アババババ! 沈みますぅ! 女神なのに沈みますぅ!」

「女神?」

 義正は眉を寄せたが、質問は後回しにした。パニックに陥った人間に理屈は通じない。

 義正は池を進み、手を伸ばした。

「捕まれ!」

「ふぇぇぇぇ!」

 桃色ジャージの女は、すがるような顔で義正の手を掴むと、次の瞬間、全体重を預けてきた。

「おい、首に絡むな! 沈むだろ!」

「だってぇ! 足がつかないんですぅ!」

「膝下だぞ!」

「心が沈んでるんですぅ!」

「知らん!」

 義正は片腕で女の襟首を掴み、岸へ向かおうとした。

 その拍子に、ジャケットの胸ポケットがふっと軽くなった。

 義正は反射的に手を伸ばしたが、遅かった。

 黒い革財布が、ぽちゃん、と情けない音を立てて水面へ落ち、そのまま透明な底へと沈んでいった。

「……おい」

 女は義正の肩にしがみついたまま、鼻水と池の水を同時に垂らしていた。

「た、助かりましたぁ……!」

「俺の財布は助かってない」

 女を岸の草むらへ放り投げる。

 女はげほげほと咳き込み、背中の初心者マークが濡れてしなびていた。

 義正は池を睨んだ。財布は見えない。泥に埋まったのか。

 今日の損益は、始まって数分で特大の特別損失(赤字)だった。

「えへへ……ぶぅえっくしょん!」

 女がくしゃみをし、鼻水が垂れた。

 義正は半眼で観察した。見た目だけなら、かなり愛嬌のある顔立ちだ。大きな瞳に柔らかそうな頬。

 だが、格好がすべてを台無しにしている。ピンクのジャージに、胸元の名札。

 そこには丸っこい字でこう書かれていた。

 ――『見習い女神 リリス』

「女神、ねぇ」

「はいっ。えっとえっと、私は見習い女神のリリスです。貴方の担当の女神になりましたのでぇ……」

 リリスは懐から、水を吸って文字が半分滲んだ『カンペ』を取り出した。

「あっ、カンペが……えっと、ここは笑顔で神々しく……」

「神々しさは池に沈んだぞ」

「ふぇぇ」

「あぁ、俺の財布が」

「あ、財布の位置なら出せます! 水深一メートル、泥の下です!」

「取れねぇじゃねぇか」

 リリスは半泣きでカンペを広げ、妙に芝居がかった声を出した。

「えっとえっと……貴方の落としたクレジットカードは、金色のカードですか? 銀色のカードですか?」

 風が吹き、森の葉がざわめいた。

 義正は、静かに、しかし絶対的な圧を込めて言った。

「それに普通のカードだ。免許証も現金も入ってる。全部返せ」

「ふぇぇ!? えっとえっと……しょ、正直者の貴方には、このプラチナカードを渡しましょう!」

 リリスがどこからともなく取り出したのは、無駄に神々しい白金色のカードだった。

 表面には翼の紋章と、『LUCIANA PLATINUM ANGEL CARD』の文字。

 義正は受け取らなかった。

「すごいカードです! ぷらちなです! 日本のネット通販の商品が出せます!」

「財布を返せ」

「限度額はなんと100万円です!」

「財布を返せ」

「しかも、神界転送機能つきです!」

「財布を拾え」

「私、また溺れますぅ」

「女神だろ」

「見習いですぅ」

 義正は数秒だけ怒鳴らない努力をし、カードを奪い取るように受け取った。

 裏面に刻まれた細かい文字を読む。

 『神聖金融公社』『家族カード』『支払遅延時の自動回収条項』。

 商社マンの直感が、警報を鳴らしていた。

「明細を出せるか。利用残高だ」

「えっと、スマホで見られます」

 リリスがジャージから取り出したのは、ハードケース付きの『エンジェルすまーとふぉん』だった。

 震える指で操作し、義正に画面を見せる。

 限度額:1,000,000円

 利用残高:900,000円

 利用可能額:100,000円

 義正は無言で利用明細に目を通した。

 『朝倉月人ライブ遠征費』『ソシャゲ課金』『福岡ラーメン巡礼』『高級エステ』『ガオガオン同人誌印刷費』『リリスのお取り寄せ団子』。

 義正の眉間に、深い皺が刻まれた。

「……残り、10万だと?」

「はいっ。まだ10万円も使えます!」

「“も”じゃねぇ。“しか”だ」

 さらに利用規約を読む。

 ――『滞納時、財産差し押さえ。衣類回収後、対象者をスーツケースに強制収納。シーラン国・マグローザ漁船にて労務研修ドナドナの義務を負う』

「……マグローザ漁船?」

「えっと、そこは読まなくても……」

「払えなかったら、身ぐるみを剥がされて、スーツケースに詰められて、マグローザ漁船でタコ部屋労働させられると書いてあるな」

「細かい文字まで読めるんですねぇ……」

「商社マン舐めんな。契約書の小さい文字ほど、人を合法的に殺すんだよ」

 義正はカードを摘まんだ。

「これはチートじゃねぇ。ただの不良債権だ。本会員は誰だ」

「ルチアナ先輩です」

「本人に返せ」

「ルチアナ先輩が、義正さんに渡してこいって……」

「俺の名前まで知ってるのか」

「カンペに書いてあります」

 滲んだカンペには、『力武義正。25歳。商社マン。刀あり。たぶん何とかする』と書かれていた。

「“たぶん何とかする”で借金を投げるな。その先輩をここに呼べ」

「今、たぶんコタツで缶ビール飲んでます」

「女神の勤務態度じゃねぇ」


リリスは涙を拭いながら、何かを思い出したように顔を上げた。


「あっ……!」


そして、唐突に――

リリスは突然、斜めに両腕を構えた。妙なポーズだった。


「で、では、サラダバー!!」

 

「待てぇ!ゴラァッ!!」

 リリスがシュワッチの体勢で跳躍しようとした瞬間――義正の身体が沈んだ。

 低い。速い。

 踏み込みは水を切る魚のように滑らかに、リリスの死角を突く。

 天極流。美しさなど捨てた、実戦制圧の理合。

 義正の腕が、逃げようとしたリリスの腰の重心を正確に刈り取った。

 どさっ。

 リリスは綺麗に草の上に転がった。

「ふぇ!?」

 義正はそのまま片膝をつき、退路を塞ぐ。

「逃げるな!債務者はまず説明責任を果たせ!」

「ふぇぇぇ! 女神に低空タックルしましたぁ!」

「折ってねぇ。受け身も取らせた!」

「女神に受け身を要求しないでくださいぃ!」

 リリスは仰向けのまま、ぼろぼろと泣き出した。

「だってぇ! ルチアナ先輩から押し付けられてぇ! 支払えなかったら私までマグローザ漁船でぇ! カンペには池で溺れて正直者イベントやれってぇ!」

「自白としては満点だな」

「褒められました?」

「褒めてねぇ」

 草の上で丸くなる、濡れたジャージのポンコツ女神。

 義正は黙って見下ろした。

 どう考えても面倒事だ。残り枠10万の借金カード。滞納すれば遠洋漁業。

 商社時代なら、一秒で「撤退(損切り)」する案件だ。

 だが。

 鼻水を垂らして泣く奴を、見過ごせるほど、自分は冷徹な機械ロボットではない。

 義正は短く息を吐いた。

「立て」

「ふぇ?」

「いつまで寝てる。濡れてると冷える」

 義正は手を差し出した。リリスは涙目でその手を見た。

「捨てないですか?」

「今のところはな」

「ご飯くれますか?」

「働いたらな」

「わあああい! 義正さん大好きぃ♡」

「軽いな、お前の大好き。その本当を、まず返済計画に向けろ」

 義正は胸ポケットからセブンスターを取り出し、無事だったブックマッチで火をつけた。

 シュッ。紙の火が風に揺れ、重い煙が肺に落ちる。

 少しだけ、頭が冷えた。

「確認だ。ここはどこだ。一番近い街を出せ」

 リリスがスマホの地図アプリを開く。


「この辺り、魔獣の出現頻度は低いです! たぶん安全です! えっと、、ここから一番近いのは……ポポロ村です。緩衝地帯の農村で、ルナキンもタローソンもあって、ご飯が美味しいって書いてあります!」

「異世界の農村にファミレスとコンビニがあるのか。……たぶん、よくあっちゃ駄目なことだぞ」

 義正は煙草をくわえたまま、空を見た。

 財布は沈んだ。身分証も現金も、東京の日常も水底に消えた。

 代わりに残ったのは、刀一本と、使用済み九十万の女神カードと、見習い女神。

 普通なら破綻案件だ。

 だが、破綻寸前の案件ほど、立て直した時の利幅は大きい。

 義正はポケットからコーヒーキャンディを一つ取り出し、口に放り込んだ。

 まだ噛まない。本気になるには、まだ早い。

「行くぞ。まずは水と飯だ。カードは使うなよ。残り10万しかない」

「じゃあ、奢りですか?」

「働け。借金持ちに神も人もあるか」

「ふぇぇ……」

 義正は腰の白雪に、静かに手を添えた。

鉄は嘘をつかない。

契約も同じだ。

だが、どちらも扱う人間次第で、人を救いも殺しもする。

「どうやら、仕事だ」

 返事はない。だが、鞘の中の刃が、冷たく同意した気がした。

 鼻をすするリリスに自分のハンカチを投げ渡し、義正は歩き出す。

 甘く苦いコーヒーの味が舌の上で転がった時、義正は煙と共に呟いた。

「……まずは、黒字化だな」

――その先で、自分が村一つの損益計算書を背負うことになるとは、まだ知らない。

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