2.雷鳴(大幅改稿済)
お食事中に読まない方がいい表現が含まれています。ご注意ください。
2024年5月13日、大幅改稿しました。
ランジェランジュは『土の道』から出ると、急いで駅長室に入った。エルダナが祝賀会で彼女に託した伝言を伝えるのを今朝になるまですっかり忘れていたからだ。
彼女が用事を忘れるに至った理由はアンスールの王城で仲良くなって、そのまま侍女としてついてきたレッティばあやが体調を崩した為だ。
レッティは早くに亡くした孫娘の後ろ姿がランジェランジュに似ていると言い、彼女を可愛がってくれた。
毎朝ランジェランジュの髪を梳り、その豊かな黒髪を編むのはレッティの長年の生き甲斐だった。
また、ランジェランジュの方も祖母の顔を知らずに育ったものだから、祖母とはこんな感じかと感情移入していた。
ランジェランジュの方が遥かに長生きしているし、レッティはレッティで孫娘似のランジェランジュの男遍歴には少しばかり呆れていたのだが、そこはこの際目を瞑ろう。
だが、レッティの急なくしゃみ、咳、発熱のセットで王妹の部屋は朝からてんやわんやになり、ランジェランジュと侍女たちは窓辺の伝書鳩に気付かなかった。
「お待ちください! 王妹殿下! どうしていらしたのです!? 来てはいけないと、鳩で文を差し上げましたのに!」
駅長と軍人を兼ねるフラマー大佐はランジェランジュに奥を隠す様に扉を閉じる。
「どうしてって…兄貴からの伝言ね、えっと『鉄道を暫く止めなさい』ってのを伝えるのを忘れちゃってて。────……何か、あったか?」
フラマーの剣幕にただごとではないと悟ったランジェランジュの口調が、兄王に似た男言葉に変わる。
「疫病です! アンスールから教育係としてお招きした技術者が皆、高熱を出したのです。ルクラァン側の見習い運転手や技術者にも被害が出ております!」
疫病!!!
ランジェランジュの背がぞわりと粟立つ。
「各駅にすぐに乗車禁止令を! そして、列車の中を床から天井まで隈なく消毒しろ! 消毒する者は防護服を着用の上、自らに結界を張れる者を選任する事!」
「はっ!」
ランジェランジュとて、伊達に成人してすぐに兄を疫病で亡くしかけた訳ではない。
あの時、シャロアンス・シアリーが毒草でもあり薬草でもあるカティの花を持って来なければ、兄は儚くなり自分が女王に立たされていた筈だ。
一応、王女であろうが兄のスペアとして時編む姫に目通りは済んでいた。まさか彼女が王家の始祖の最初の娘だとは思いもしなかったが。
今は兄も不在、時編む姫も居ない。ならば自分がやるしかない。
少なくとも鉄道だけでも……!!
「病人にはカティの薬湯が要るな……。シャロアンス・シアリーを呼ぶ。お前は緘口令を敷け!」
「駄目です、半精霊の中にも罹患者がおります。万一その者が通った事によって精霊の道が疫病に汚染されていたらどうなさいます!? ルクラァン随一の医師を失います! それに彼は王太子殿下と親しく、王太子の利益になります!」
「汚染に負けるような命ならば、それまでの命だろう。ハルモニアと親しかろうが、随一の頭脳の医師だろうが病人の命には替えられない!! 最前線に出ずに何が王族だ。何が医師だ! ハルモニアの益になろうとも構わぬ! 私は城へ戻りシアリーを連れてくる!」
彼女が胸の前で印を組むと、レンガの床は沼の様に柔らかくなり、ランジェランジュは落とし穴に落ちる様に一気に床に沈み込みフラマーの前から消えた。
これはスリルを好むランジェランジュの『土の道』の入り方だ。
そんな訳でランジェランジュはルクラァン王宮医務室の天井の石を出口にして降ってきた。
レッティばあやを診ていたシャロアンスがギョッとするのも無理は無い。
かくかくしかじか、でシャロアンスと話を共有した彼女は一昨日の晩にしとねを共にしたアンスールの第五王子ディエゴが急に心配になり、胸が締め付けられる想いを味わった。
だが感情はおくびにも出さず、準備の整ったシャロアンスを連れて再び『土の道』に、今度は薬が破損しないようにゆっくりと消えた。
薬を運ばずにシャロアンスだけが連れだったならスリルのお裾分けをしていただろう。そこは彼女がエルダナの双子の妹たる所以だ。
◆◆◆
しかしシャロアンスがいくら手を尽くそうとも、疫病は収まらなかった。
それどころか、鉄道を停めるのが遅れた所為で疫病はルクラァン東部へも拡がった。
鉄道の速さが逆に仇となったのだ。
クリスチユはハルモニアが危惧していた通りに熱を出した。
アンスール帰りの精霊から、すぐに噂は広まり、ランジェランジュが敷いた緘口令も大して意味をなさず、逆にアンスールから帰ってきたランジェランジュが病を運んだのではないか、彼女が築いた鉄道が病を運んだ、と人々は彼女に徐々に怒りの矛先を向け始めた。
レッティばあやは、一命こそ取り留めたが、そもそも老婆のレッティが弱った身体で侍女に戻るのはかなりの努力が必要だろうし、また疫病に罹かる可能性もあった。
シャロアンスはハルモニアとラゼリードを説得し、2人にそれぞれのカティの国庫を開けさせる事に成功した。
カテュリアのカティはルクラァンで精霊達によって毒抜きをされ、薬になり広く民衆に配られた。
ルクラァンの国庫の薬の一部はアンスールへ輸出された。
それでも疫病は収まらなかった。
ランジェランジュの周りで疫病に罹ったのはレッティばあやだけではない。
人間の侍女達・臣下達が倒れて行くのである。
ここに来てようやく人間と半精霊だけが罹患するとハルモニアとランジェランジュ達は気付いた。
だが、もう薬は少なくなりつつあった。
情報が混線していた初動に、ただ風邪を引いただけの精霊も疫病の恐ろしさに震え、効果の高いカティの薬湯を求めたからだ。
そして今なおルクラァン・アンスール両国民は薬湯に手を伸ばしながら、ある者は快癒し、ある者は……いや、多くの者は死んでいく。
高熱を出したクリスチユは、ヨルデンが看護をしていた。が、ヨルデンも齢五十。彼がいくら体力自慢とはいえど、とうとう病に罹患した。
しかし、ヨルデンは案外ケロッとしていて、額に濡らした手巾を乗せたまま運ばれてきた食事を自力で摂り、ひたすら隔離された妻や子供の安否を確認していた。
「ああ、妻に会いたいです。娘のユーベールもロッティも元気でしょうか? 息子達は心配してないんですけどね」
ヨルデンは相変わらず少しアレな物言いでブツブツ呟いている。そんな隣の寝台の住人をクリスチユは本を読みながら時折チラリと視線を向けていた。
彼は熱も下がってきた事もあり、ヨルデンの様子を逆にメモを取った。
ある日、クリスチユはラゼリードとハルモニアとシャロアンスを枕元に呼んだ。
ラゼリードはクリスチユが遂に死出の旅支度を始めたのかと震えていたが、寝台から半身を起こして話す彼を見てホッと胸を撫で下ろした。
「私の予想なんだけどね。この疫病はある書物で読んだものに非常に似ている」
嗄れた喉で囁く様に喋る彼は、やはり危なげない。
「なぁに、その書物って!?」
ラゼリードは前のめりになった。
国庫のカティを半数近く無駄打ちしてしまった事で、彼女は国の大臣達から吊し上げに遭いかねない立場だったのだ。
「まぁ、ゆっくり私の話を聞いて、ラゼリード。この疫病は個体差がある。ヨルデンのように軽く済む者から私の様に高熱を出し、徐々に軽くなる者。レッティさんみたいに生死の境を彷徨う者。亡くなる者。色々居るが主な症状だけは一貫して『咳に嚔、高熱。嚔や咳の飛沫から伝染る』こと。この記述は【翠の書】372頁、第5行から第7行にある。【翠の書】はフィローリが書いたものだ。そしてこの病はルクラァンでかつて流行したものの変異種……」
「なんだって!?」
シャロアンスが叫ぶ。ハルモニアが後を引き取った。
「父が罹ったものか? ならば何故、精霊は罹らなくなった?」
「集団免疫を獲得したのだよ」
「あー、なるほど」
シャロアンスだけが合点が行ったようだ。
他の2人と反対側の寝台のヨルデンはキョトンとしている。
「【翠の書】を探して欲しい。あれの372頁第8行目からその頁一杯に【ある薬の力を増す何かがカティから作れそうだ。しかし僕一人では無理だ。何かが足りない】とフィローリの走り書きと何かの試算があった。流石の私でもよくわからない計算式は覚えきれなかった」
その場に居た誰もが『いやいや、充分に人間図書館だろう』と胸の内でツッコミを入れた。
◆◆◆
───少し時間を早送りしよう。
一方、ランジェランジュは夜になると、こっそり伝書鳩を飛ばしていた。
ディエゴとの文通をしていたのだ。
民衆に憎まれた彼女の心の拠り所はもうディエゴにしか無かった。
最初は甘い言葉を交わしていた。
ディエゴ、アンタは大丈夫? アンスールは疫病が蔓延していると聞いたわ。
『私は平気だよ。それよりも君は大丈夫かい?』
アタシはそんなに弱くないわ。嘘。少しキツイ。女王になれと言われた次にはお前は悪魔だと人びとは罵るの。
『あんなに華奢な君がそんな大任を負うなんて無理があるよ。無理をしないで私の腕の中へ帰ってきておくれ。あの日抱いた君の肢体が忘れられない』
アタシもよ、ディエゴ。今すぐアンタと抱き合いたい。アンタは今までで一番アタシを狂わせた男よ。
『そりゃあ光栄だ。君も私を狂わせた女性だよ。今はただひたすらに会いたい』
アンタの無事を祈ってるわ。アナタのランジェより。
『”私の”ランジェと呼んでいいのなら、私の事も”貴女の”ディエゴとお呼びください』
アタシのディエゴ、あいしてるわ。本当よ。
──こんな風に文を交わし合い、ひと月半が経過した。
ある雷鳴の響く夜にディエゴの文を見て、ランジェランジュは泣いた。急いで書いた走り書きの文字は綴りが乱れていた。
『私も疫病に罹ったようだ、わたしのことは忘れてくれ。かわいいかわいいランジェランジュ。さようなら』
鳩が、崩れ落ち項垂れ泣き叫ぶランジェランジュの肩に留まって彼女を労るように身を擦り寄せる。
稲妻が走り、小雨が彼女の細い肢体を打ち付けた。
しかし、突然泣き過ぎで嘔吐したランジェランジュに鳩は驚いて近くの止まり木に飛んで逃げた。
身体を折り、吐くだけ吐いたランジェランジュは雨に濡れながら、ふと────気付いたのだ。
ディエゴと一夜を共にした後から月のものが来ていない、と。
勿論その前に寝た男とは子は出来ていない。
「まさか、アタシのお腹にディエゴの子どもが……?」
涙を浮かべたまま呆然とするランジェランジュに、背後から声が掛けられる。
「ランジェ叔母様」
メレニアだった。外套を被り、夜中には不似合いなワインの瓶が覗くバスケットを腕に下げている。まるで、昔から伝わる民話の赤い頭巾の少女のように。
「メ、メル! 来ちゃダメよ! アタシ、死神みたいなもんなんだから! 疫病になったら大変だから、お部屋に戻りなさい!」
慌てて口許を拭って立ち上がるランジェランジュだったが、メレニアは一向に気にせずに叔母に近寄る。
「メルは今、守られていますの」
「メル? ………何言ってるの」
訝しげなランジェランジュとは対照的に、メレニアは胸元の青く輝く玉の首飾りに語り掛けた。
「これからのお話を致しましょう。時編む姫様」
ぽぅ、と音を立ててメレニアの胸元の玉飾りに時編む姫の姿が映った。
銀色の髪、銀色の瞳。その唇は笑っている。
「あ、あぁ………」
ランジェランジュは近寄るなと自分で言ったのも忘れて泣きながらメレニアに縋り付き、彼女の胸元に小さく映る時編む姫に向かって激しく嗚咽しながら謝罪した。
「レディ、ごめんなさい!! アタシ、純血種じゃない子どもがお腹に居るかも知れない!! どうしよう!!」
涙でボロボロの顔で縋る彼女に、時編む姫は少し悲しそうに眉を下げた。
『ランジェ。いけない子ね、と昔のわたしなら言っていたでしょうね。でも状況が変わった』
「状況……?」
『わたしの婚約者が言うには、その子は後に大変な運命を辿り……そしてハルモニアに自由を与える。カテュリアのラゼリードの元へ向かう自由をね。これは予言であり、計画よ』
「計画、なの?」
『ええ、【調和の林檎計画】。これには貴女が今宿している、その半精霊の子が必要になる』
ランジェランジュはまた大粒の涙を流した。
「やっぱり半精霊なんじゃない……! いいの? 半精霊でもいいの!? アタシ、議会から散々『純血種の子どもはまだですかね』なんて言われ続けて来たんだよ!? アタシ、この子を産んでいいの!?」
『レディ、少し代わってください。ランジェは混乱しているようだ。私からも言った方が少しは効くでしょう』
「兄貴!?」
ランジェランジュは目を見開いた。
スッと、時編む姫が姿を消すとそこには祝賀会で会ったきりの双子の兄・エルダナが映っていた。
「兄貴……時編む姫はああ言うけど……」
ランジェランジュは最早、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
『半精霊で構わない。寧ろその方がいいんだ。お前はその子を産み、大切に育てよ。兄からの願いであり。勅令だ』
エルダナは笑って言った。
ランジェランジュはこの夜、初めて笑った。
「仰せの通りに。陛下」
『ああ、それから』
「?」
『私の執務机の二段目の引き出しに入っているパズルを解きなさい。その中に今の状況を打開出来るものを閉まってある部屋の鍵が入っている。ハルモニアは疫病を終わらせる為の策を打ち出してくるが、疫病にはあの部屋の薬にハルモニアが持って来るものを掛け合わせなければ特効薬にならない。………と、レディの婚約者が言っていた』
エルダナは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる。泣き止んだランジェランジュはゴシゴシと目を擦りながら問うた。
「分かった。でもさっきから気になってたんだけど、レディはいつ婚約したの?」
メレニアの首飾りからエルダナが掻き消えると同時に、時編む姫が臙脂色の髪と瞳を持つ男性と共に首飾りに再び映った。
『3万年前よ。相手は”最初の七人”の内が一人始祖・延時。ランジェランジュ、彼にご挨拶なさい』
「え? 始祖!? 生き返ったの!? 初めまして、エルダナの双子の妹ランジェランジュ・ラ・ルクラァンです!」
延時は初めまして、と述べるとすぐに姿を消した。
「どーしよ! 兄貴! レディ! 延時様消えちゃったよ!?」
すると、メレニアの胸元の飾り玉からバスケットがすぽん、と出てきたではないか。
ランジェランジュは慌ててそれをキャッチした。
『吃驚させてごめん。僕が作ったケーキだけど、きっと妊婦の今の君の口に合うと思ってね。遠慮なく食べて』
「あ、ありがとうございます………」
確かに今、無性に甘いものが食べたい気分だったので、ランジェランジュは有難く受け取った。メレニアが潮時と見て、腕に抱えていたワイン入りのバスケットを胸の前に差し出す。
「お話は済みました? では、今日の差し入れを入れましても宜しいですの?」
『ええ、済んだわ。メル、お願い』
時編む姫の声がした。
メレニアは胸にバスケットを押し当てた。するとバスケットは胸元の飾り玉の首飾りに吸い込まれて消えた。
『あら、エルダナの秘蔵の酒ね。1827年のノアンシの傑作ワイン』
『メルー!!? なんてことを!』
兄の悲鳴を聞きながら、ランジェランジュはバスケットを抱え、笑って立ち上がった。
────もう、雨は止んでいた。
時間軸はランジェランジュがディエゴの2通目の文を受け取った頃に、クリスチユが【翠の書】の話をしています。
その後、3話からハルモニア達のターンになります。
ややこしくなり申し訳ございません。
どうしてもディエゴとランジェランジュの恋文のやり取りは一気に書きたくて……。
作者の我儘をお許しくださいできたらいいねもください。