第24話 もし、つがゆうと私が結ばれたなら、きっと私は幸せなんだと思う。どんなに、嬉しいことなんだろうって
それからホテルで食べたバイキングの晩ご飯も、大浴場のことも、僕はよく覚えていない。それどころじゃなかったから。
今日の夜、これから訪れる時間のことを考えてしまうともう思考回路がショートしてしまう。
お風呂から上がって、部屋に戻った夜の一一時。移動の疲れと満腹感と、お風呂に入ったことによりすっかり僕の眠気は出来上がっていた。
ただ、笑菜はそうでもなかったみたいで。
同じベッドに潜り込んで、部屋の電気を落として読書灯だけ残したところまでは良かった。良かったけど、
「まさかつがゆう、もう寝るつもりじゃないよね?」
僕の背から、笑菜の悪魔的ともとれる囁きが飛んできた。
「……いや、寝るつもりだったけど」
「えー、駄目だよー、せっかくの旅行なのに、寝ちゃうなんてもったいないってー。もう少しお話しようよー」
僕がつれない反応をしたからか、背中越しに肩をぶるんぶるん揺らす笑菜。
「か、勘弁してよ……割と本気で眠いし、それに、いつ変な気を起こすかわかったもんじゃ」
「……別に起こしてもいいよ? 変な気」
すると、笑菜は強引に僕の体を反対向きにさせては、鼻と鼻が触れそうな至近距離で小さく微笑んで見せる。
「……なっ」
互いにお風呂上がりだからか、うっすらと火照った肌と、ここでもいつの間にか繋がれている手と手が嫌でも僕に笑菜の性を意識させてしまう。
「ここで、そんなことをしたかったわけでもないんだけどね。あ、でも心の準備はできてるから。気にしなくていいからね?」
「……気にするっての」
でも、そんな意識は、持っちゃいけない。持つ資格も、僕にはない。
「つがゆうはさ。今、楽しい?」
恐らくそれは、笑菜が本当に話したいこと。割と真面目な話をするつもりなのかもしれない。なら、僕も少しは付き合わないといけないかもしれない。
「今この瞬間のことを言っているなら、楽しいを通り越して心臓が爆発しそうなんだけど」
「くふふ、ごめんごめん。この、高校生活って意味。言葉足らずだったね」
だとするなら、答えは決まりきっている。
「……楽しいよ。全然。こんな時間、久しぶりだったよ。それこそ、高校で一緒に漫研……」
そこまで言いかけて、僕は口を噤んだ。もう取り返すことのできない、過去の輝いていた日々を思い出しそうになってしまって。
「そっかあ、なら良かったよ」
僕の答えに、笑菜は満足そうに頷く。
「つがゆうの腕も鈍ってなくて良かった。つがゆうのおかげで、初芽ちゃんたちも、小春ちゃんたちも、上手くいったわけだし」
「……僕は、別に何も」
ただ、彼ら彼女らと、些細な話をしただけで。
「ううん。何もしてないなんてことないよ。謙遜はよくないぞー?」
幾許かの沈黙を挟んで、笑菜は続けた。
「……やっぱり、楽しい? お話、考えるの」
それは、半ば核心を突く問いだった。僕だって、曲がりなりにも創作畑に一時はいた人間。
「……楽しいよ。こんなに楽しいこと、他にないって、思えるくらいには」
「じゃあっ」
「でも。……僕には楽しすぎるよ。楽しすぎる。眩しすぎる。今は、笑菜のお願いだから、みんなのシナリオを考えたけど。……もう、僕は筆を折った人間だから」
だから、楽しいって思わないわけがないんだ。でも、だからこそ。楽しいからこそ。
僕が、遠ざけたかったものだった。
「……そんなこと、ないよ」
寂しそうに瞳を細め、言葉を震わせる笑菜。まだ何かもの言いたげだったけど、ちょうどこのタイミングで時計の針がてっぺんを越えた。
「もう、寝よう? 明日だってあるわけだし。あまり夜更かしして明日に響いたら、元も子もないし」
諭すように僕が話すと、何も言わずにコク、と首を縦に振った笑菜は、繋いだ手はそのまま、僕の胸元に顔を埋めるような格好でやがて規則正しい寝息を立て始めた。
僕が眠りの底に落ちたのは、それから多少時間が経ってからのこと。……どうしたって、無防備な女の子が手を繋いだまま眠っていて、普通でいられるわけはなかったから。
翌日、二五日。目覚めたタイミングでは腕のなかで僕の腐れ縁が幸せそうに眠っていた。結果、抱きしめるような感じになってしまったけど、これならむしろセーフだと思いたい。クリスマスの夜に、間違いを起こさなかった、という意味で。
飛行機の時間は夜だったので、半日くらいは観光する時間が残っていた。
ホテルで朝ごはんを取った僕らは、すぐに札幌の街へと繰り出した。
羊ケ丘展望台で、かの有名なクラーク像に会いに行ったり。お昼は予定通りの回転寿司で、東京じゃできないこぼれいくらを実演してもらって笑菜が大はしゃぎしたり。大通公園をブラブラ歩いてお散歩してみたり。テレビ塔に上ってみたり。
どこに行ったって、笑菜が楽しそうに表情を崩しているのは変わらなかった。本当に、観光を満喫していたと思う。
「よし、じゃあじゃあ、最後に藻岩山で夜景を見る前に、みんなにお土産買って帰らないとね」
陽も落ちかけてきた午後三時過ぎ。札幌市の中心部にある地下街の真ん中、笑菜はそう提案してきた。
「何かいいものあったら教えてね、つがゆう」
無数に立ち並ぶ色々なお店を前に、僕はあることを考えた。
っていうか、クリスマスなのに、笑菜へのクリスマスプレゼント何も考えてなくないか?
札幌旅行に当てられて、全然考えてなかったけど、やばい僕何も選んでいない。そんな、クリスマスプレゼントはこの旅行だよ、とか歯の浮いたこと言えるわけないし、第一僕の力でできた旅行じゃないし。
お土産もそうだけど、クリスマスプレゼントも考えないと……。さすがに何もなしはいけない。毎年、クリスマスと誕生日には、それぞれプレゼントを僕らは贈り合っていた。いつもだったら、ちょっと可愛らしいブックカバーとか栞だとか探すんだけど、もうそれもあげつくしたというか、同じものをあげるのも芸がない。
予算も潤沢にあるわけでもないので、それこそ百貨店のショーウィンドウに並ぶようなブランド品なんかを買えるはずもない。……大学生のときでさえ買えなかったし。
適当に目についたお店にひとりで立ち寄っては、予算オーバー、あまり欲しがらなさそう、ただの友達があげるにしては出しゃばりすぎているなどなど、色々な理由でボツにして次のお店へと移っていく。
……こんなところ平井さんや小岩君が見ていたら、また言われるんだろうな。「本当に市川さんのこと、何とも思ってないんですか」って。
何とも思っていないはずがない。……何の感情も抱いていない女の子を相手に、八年近くも友達を続けられるほど、僕の人間は出来上がっていない。
確かに、一緒にいると疲れることがほとんどだけど、でも、決して嫌なわけではないんだ。本当は。嫌いじゃないから、こうして一緒にいるわけで。
「……髪飾りにシュシュ……ありっちゃありだけど、これも高校卒業のときにあげたんだよなあ……。たくさんあっても困りはしないだろうけど」
言動が軽はずみなところも、表情がゆるゆるで見ているこっちまで頬が緩んでしまいそうなところも、絵のタッチが優しいところも、根っからの友達想いなところも、どれひとつとして、僕は嫌いではない。
「……ぬいぐるみとかはなあ、運ぶのが大変だし……」
そうだ。笑菜で嫌いなところなんて、あるわけがないんだ。
この気持ちを恋と呼ばないのなら、きっと僕に恋なんてできるわけがない、そんな感情を僕は持ち合わせていたんだ。
でも、それは決して表には出さないと決めた気持ち。何があっても、誰であっても、絶対に隠すと決め、心の奥底にしまい込んだもので。
「……グラス、か。笑菜、結構ジュース飲むの好きだし、あったらあったで喜ぶ……かも」
だって、僕にその資格は、ないんだから。そんな資格、とうの昔に、失ってしまったんだ。
棚に小奇麗に並んだグラスの列から、ひとつ気になったものをふと手に取る。
黄色いチューリップの花の模様が一面に彩られていて、笑菜のほんわかとした雰囲気に似合いそうなイメージを抱く。
執筆の合間でも、食事のときでも、おやつのときでも、寝る前でもいい、どこかのタイミングで使ってくれたなら、僕としても最期に贈った甲斐があったってことになるんじゃないか。
値段も安くもなく高くもなく、適正価格。
……よし。これにしよう。
「ありがとうございましたー」
レジも済ませ、プレゼント用に包装もしてもらったそれを僕は大切にカバンにしまい、地元銘菓の商品棚の前で首を捻って悩んでいる笑菜のもとへ向かいだした。
みんなへのお土産も買い終わると、もう札幌の街はすっかり夜の帳が落ちていた。楽しかった旅行ももう終盤。
そんななか、僕らが訪れたのは、日本三大夜景のひとつに選ばれている、札幌の夜景が一望できる藻岩山の山頂展望台だった。
「うわあ……! 光の海だよ……、つがゆう!」
ふもとから僕らを運んでくれたロープウェイを降りて、辿り着いた藻岩山の山頂展望台。そこは見渡す限り、暗闇に浮かぶ白とオレンジの海だった。
手を繋いだままの笑菜は、眼下に広がる石狩平野のキャンパスにしっかり心を奪われたみたいで、とてとてと僕の手を引いて柵ギリギリのところまで夜景に近づく。
「こんな夜景綺麗なところだなんて、知らなかったよ私っ」
「……うん。すごく、綺麗……だね」
「クリスマスに、こーんな素敵な景色見れるなんて、初芽ちゃんたちに感謝しないとねっ」
そんな光と夜空のコントラストが目立つ画角に、両手をいっぱいに広げて感動を表現する笑菜の柔らかな笑顔が入り込んだ。
「もう、こんな景色一生ものだよー。絶対忘れられないよー札幌の夜景」
……僕と一緒で、君は幸せだったのだろうか。
こんな見るもの全てを魅了するような光のシャワーを浴びる相手が、僕で良かったのだろうか。
八年近く見てきた腐れ縁の笑顔を前に、僕はふとそんなことを思う。
「つがゆう、どったの? ボーっとして」
「え? ああ、ごめんごめん、思わず見惚れてた」
いけないいけない、笑菜に余計な心配させてしまった。今は、全力で夜景を楽しんでもらわないと。それが、笑菜が現実に帰るためになるのだから。
「んー、私に?」
「うん──って、何言わせるんじゃい」
「えへへー、つがゆう私に見惚れてくれてたんだー、やっぱり好感度高いままで私は嬉しいなー、同じベッドで夜を明かしたことだけはあるよー」
「……帰っていい? 飛行機の時間あるし」
かと思えば、ほんの一瞬でも油断すると笑菜のペースに持っていかれてしまう。隙もあったものじゃない。
「ああっ、ごめんごめんっ、帰っちゃだめだめ、まだ私やりたいことあるんだからっ」
すると、割と本気で両手を合わせてぺこぺこ頭を下げた笑菜は、いじらしげに展望台に設置されているあるものに指をさす。
カーンと、辺りに乾いた鐘の音が響き渡る。白くライトアップされた柱に支えられてぶら下がっているのは、ひときわ目立つ、金色の鐘。
「『幸せの鐘』って言うんだって。あれ、一緒に鳴らしたいなあって。……だめ?」
桃色の頬に、笑菜の微笑が滲む。気温はマイナス十度近くまで下がっていて、繋いだままの手だけが、僕らに温もりを共有していた。
「……だめ、じゃないけど」
おあつらえ向きじゃないか。それこそ、綺麗じゃないか。
最後のクリスマスで一生ものの夜景をバックに、「幸せの鐘」を鳴らして、大切な人のお願いを叶える。笑菜は幸せになって、それで、僕の役目は終わるんだ。
これ以上のハッピーエンドを、望んでいいのか?
「鐘を鳴らして、手すりに『愛の鍵』っていう南京錠にふたりの名前を書いて取りつけると、絶対に別れないって伝説があるらしいよ」
……じゃあ、絶対を破るのは、僕だ。
僕に、未来はない。僕に、春なんて訪れない。
でも、いいじゃないか。それの何が悪い。
「……へー、じゃあ割とカップル御用達だったりするんだね」
拒むこともせず、僕は笑菜に連れられて「幸せの鐘」の真下に入る。互いの吐く息が凍てついてしまいそうな寒空の下、繋いだ両の手は離さないまま、僕らは反対の手で鐘の紐を掴む。
後悔しかない、人生だった。間違ってばかりだった。傷つけもした。それでも、これで、僕なんかと一緒に鐘を鳴らして君が幸せになれるなら、僕は、それで──
幾許かのタイムラグを挟んで、頭上の鐘が揺れる。次の瞬間、夜闇に浮かぶ銀世界に、小さな鐘の音が鳴り響いた。
満足そうに鐘を見上げた笑菜は続けて、いつの間に買っていたのか「愛の鍵」と呼ばれる南京錠に「市川笑菜」と自らの名前を書き記す。
「……はい。あとはつがゆう。つがゆうの名前書いて、手すりに繋げば、完成だよ」
僕は笑菜から鍵とペンを受け取り「都賀優作」と自分の名前を、書こうとした。……のに。
「……っ」
かじかんだ真っ赤な右手が持つペンは、動いてくれなかった。寒いからとかじゃない。動かなかったんだ。
どうした、僕。書けよ、名前を。そうすれば、僕と笑菜は絶対に別れないことになる。笑菜はそれを望んでいる。
僕の気持ちがどうあったとしても、そんなの関係ない。
僕がこれまで笑菜の好意に気づかない振りをし続けていたとしても、鈍感な振りでいたとしても、関係ない。
名前さえ、「都賀優作」というたった四文字さえ書いてしまえば、笑菜は現実に帰れる。だというのに。
「……な、んでっ……」
名前が、書けないんだよ……! 僕は……!
震える右手に、気づけば雨雫が落ちる。今日の札幌の天気は、晴れ。雪も降っていない。だから、この雫は。
「……わかってたよ。つがゆうが名前を書けないだろうなってことは」
僕の瞳から、零れていた。
「ちがっ……。だ、大丈夫。大丈夫だから。書く、書くから──あっ」
拒む右手を強引に動かして名前を書こうとするも、震える指先からペンが転がり落ちる。僕は、慌てて拾い上げようとした。けど。
「いいよ。つがゆう。無理して書かなくて。わかってたことだから」
「大丈夫だって言ってるだろっ、書ける、書けるから。だって、書かないと笑菜はっ」
幸せになれない、のに。
「どうしてっ……動いてくれないんだよっ……!」
最後の最後で、偽りの気持ちで、笑菜と守れない「絶対」を作ってしまっていいのか、と思う僕と。
笑菜に対する贖罪が終わってないクソ野郎が、ひたすらに隠し続けた彼女への想いに決着をつけていいのかと問い質す僕が。
右手を、縛りつけていた。
「……つがゆう、優しいから。私に嘘つけないんだよ。だから、名前が書けない」
「でもっ、それじゃあ、僕は笑菜のお願い叶えられないじゃないかっ」
「……そうかもね。もし、つがゆうと私が結ばれたなら、きっと私は幸せなんだと思う。どんなに、嬉しいことなんだろうって」
「じゃあっ、それでっ! それでいいじゃないかよっ……。僕は、僕は優しくもなんともない、自分のことしか考えていないクソ野郎なんだからっ……! 最後に嘘くらいっ、いくらでもっ」
潤む視界に、話す言葉の尻尾は涙で濁ってしまう。そんななか一瞬、悲しそうな表情で僕を見つめる笑菜の顔を見た。
ああ、まただ。また、僕は笑菜を傷つけた。
僕のどうしようもない偽善と、欺瞞が、世界で一番笑顔が似合っているはずの女の子の表情を曇らせたんだ。
そう、何もこれが、初めてではなかった。僕が、笑菜を傷つけたのは。




