人ごとき
オーバルがそう言った時だった。横手からオーバルを襲う黒い影があった。オーバルも素早く反応して、それを長剣で受け止めようとする。
さすがは王国内で随一の使い手であると言われている者の動きだった。その動作には一切の無駄がない。
しかし、その一撃はあまりにも規格外なものであった。
通常ならば、その洗練された適格な動きで何の問題もなかっただろう。だが、オーバルを襲った影は不幸なことに通常の者ではなかった。
オーバルがそれを受け止めようと両手で差し出した長剣の刀身ごと、オーバルは両断されてしまう。
勢い余って大地にめり込んだ長剣を引き抜きながら、グレイが茶色の瞳を何ごともなかったようにイザークへ向けてきた。
「早く済ませろ。国外に逃げられなくなるぞ」
グレイは短くそれだけを言う。グレイの人外じみた能力にもう驚くことはないと思っていたイザークだったが、内心では信じられない思いで一杯だった。
人は長剣ごと人を斬れるものなのか。
そうだとすれば、そのような者など、人ではないのではないか。
そんな思いを飲み込みながら、イザークは馬車の中に向かって長剣を突き立てるのだった。
「お前、子連れだったのか?」
驚いた声を上げたイザークだったが、その声にも当のグレイは表情を一つも変えることはなかった。
表情を変えないと言えば、グレイが連れている娘も同様だった。こちらは表情を変えないというよりも、表情が全くないように思える。その端正な顔立ちと相まって、まるで綺麗な人形とも言うべき印象だった。
「そんな子供を残して、お前は傭兵なんぞをしていたのか?」
呆れるイザークに向けて、グレイが少しだけ口元を綻ばせたように見えた。
「心配はない。俺は人ごときでどうにかできる相手じゃない」
人ごとき……。
言っている意味がよく分からなかった。
人外じみたように見えるといっても、自分だって人だろう。
そう思ったイザークだったが、なぜかそれを口にする気にはなれなかった。
それを口にしなかったからというわけでもなかったが、イザークは別のことを口にした。
「前に言っていた代償の向こう側とやらは見ることができたのか?」
その言葉にグレイは少しだけ考えるような素振りを見せた。
「そうだな。代償を払い望むものを手に入れられることも時にはあるのさ……」
代償の向こう側とやらの意味も分からないし、その答えもやはり意味が分からなかった。
金という代償を払ったのだ。ならば、望む物を手にするのは当たり前なのではないだろうか。
まあいいとイザークは思う。きっと自分には関係ない話なのだ。そう考えながらイザークは口を開いた。
「何にせよ、礼は言わせてもらう。お前のお陰で、仲間たちの仇をとることができた」
「礼はいらない。代償として、金は貰っているからな」
グレイの素っ気ない言葉だった。それに対してイザークは少しだけ肩を竦めて口を開いた。
「さて、俺はもう行くぜ。お前も早いところこの国を出たほうがいい。何せ俺たちは王太子殺しの極悪人だからな」
そんなイザークの言葉に笑うわけでもなく、グレイは軽く鼻を鳴らした。
そして、それが別れの合図となったのだった。
黒い影が二つあった。一つは大きくて、一つは小さい。
彼らの姿を俯瞰で見ることができる者がいれば、首を捻ることだろう。本格的な冬の訪れも近く、すでに周囲には雪が散らついている。そんな山道を二人は歩いているのだから。
小さな影が大きな影に語りかけた。
「父様、あの方は父様にお礼を述べていました」
「そうだな」
「父様はあの方によいことをしたのですね」
「よいことが……分かるのか?」
「いえ、お礼を述べていたから、よいことをしたということです」
「そうだな……」
大きな影の言葉が僅かに掠れて震えたようだった。
周囲はどこまでも静かで獣たちの鳴き声ひとつ聞こえない。
付近にある音は二つの黒い影が歩む足音だけだった。その中で二つの黒い影が吐く白い息が静かに溶けていった。




