第10話 ただいまと言える場所
ひと月分の数字を足し終えたとき、レオンは計算を間違えたと思った。
帳面を始めから見直し、銀貨と銅貨の欄を分けてもう一度足した。食堂の窓からは、初夏の風が入ってくる。リタは向かいで豆の筋を取り、彼が同じ頁を行き来するのを見ていた。
「今度は、いくつ?」
「同じだ。十枚と、七十枚」
「銀貨が十枚、銅貨が七十枚ね」
「うん」
開店から三十日。まだ今夜の食事があるので仮の締めだったが、予約分の料金を入れ、用意した食材の代金まで引いても、宿の営業で残る金があった。
誰も来ない夜もあれば、昼食だけで鍋が空になった日もあった。何度も受付から街道を眺めた日の隣に、新しい名前の並ぶ日がある。その全部を足して、金が少し残っていた。
「宿を買った分も、修繕代も、取り戻すにはまだ遠いけど」
レオンが言うと、リタは豆を籠へ落とした。
「それは忘れないでおこう。でも、今日食べる材料と、働いた分のお金を、お店から出せる見通しはできたでしょう」
主人の生活費も欄に入れたのは、彼女の意見だった。自分だけずっと無給で働き続ければうまくいく、という計算にはしない。初めは自分の分を後回しにすればよいと思った。今は、その欄に書いた額も入れて計算できたことが嬉しかった。
卓の横では、昨日仕入れた豆の鞘が籠に溜まっていた。レオンも帳面を閉じて手伝った。力を入れすぎ、細い筋が途中で切れてしまう。リタに端の持ち方を見せてもらい、二本目は最後まで引けた。
「これも、少しずつだな」
「まだたくさんあるわよ」
籠を見て二人で笑った。レオンは豆の向きを変え、もう一つ筋を引いた。今度も最後まで取れた。使える豆をリタの籠へ入れ、残りを自分の方へ引き寄せた。
午後には、トーマ親子が来る予定だった。先に使う部屋を確かめに行き、雨戸の留め具を動かす。ドランが直したあとも、自分で見ておくようになっていた。
一号室の窓は、滑らかに閉まった。
◯
「ただいま!」
玄関から飛び込んできた声に、レオンは受付から顔を上げた。
荷車の隣からユイが両手を上げていた。前より少し日に焼け、肩には自分の小さな袋をかけている。トーマは後ろで笑い、急ぐなよ、と声をかけた。
「お帰りなさい」
今度は間違えずに言えた。
ユイは満足そうに頷き、靴の泥を落としてから入ってきた。レオンが荷物を預かってよいか尋ねると、父親は大きな包みだけを渡した。
「壊れ物は、こっちですね」
「覚えていてくれたんですか」
トーマが胸の前の箱を持ち上げる。レオンは頷き、二人を一号室へ案内した。
ユイは寝台より先に雨戸へ近づき、触ってよいか聞いた。留め具を動かしてみせると、彼女も手を伸ばし、小さな音で閉めた。
「静かになった」
「直してもらいました」
「じゃあ、今日はこっちで寝る」
ユイは窓から離れ、自分で選んだ寝台へ袋を載せた。レオンは戸口でもう一度留め具を見てから、静かに部屋を出た。
階下へ戻ると、裏口の手前でユイが足を止めた。敷布に座ったモコが、耳を立ててこちらを見ている。
レオンは、ここに住んでいる獣だと伝え、ユイの隣で足を止めた。彼女はしばらく眺めてから、噛むかと尋ねた。
「びっくりすると、噛むこともある。今は少し離れて見ようか」
ユイは頷き、父親と一緒にしゃがんだ。モコは立ち上がりかけたが、やがてまた敷布へ顎を載せた。女の子も、それ以上は近づかなかった。
「名前は?」
「モコ」
「モコ、ただいま」
返事の代わりに、丸い尾が一度揺れた。
◯
ガルドが着いたのは、夕食の支度が始まる頃だった。
北へ持っていくための小さな土産を買い、荷袋の形が少し変わっていた。姉には何を買えばよいか分からず、店で随分迷ったらしい。
「結局、針を。向こうにもあるでしょうけれど」
トーマが食堂から顔を上げた。
「針なら、町の東の店で?」
「はい。そこを教えてもらいました」
「良い店ですよ。私もあそこで仕入れます」
話が続く間、ユイは父親の袖を握っていた。ガルドはそれに気づき、立っていた椅子の横から少し離れた。レオンは急いで間を取り持たず、彼の部屋の鍵を出した。
トーマが話しかけ、ガルドが答える。ユイはまだ父親のそばにいる。レオンはそれぞれの顔を確かめ、聞かれてもいない紹介の言葉を、今は足さずにおいた。
台所ではリタが、採れ始めた青豆を鍋へ入れていた。今夜は鶏の煮込みに豆を合わせ、パンには香草を混ぜた油を少し塗る。レオンは人数分の器を出し、自分たちの分も数に入れた。
配膳が終わると、ユイが人参の皿を指さした。
「これ、小さいのだけでいい?」
「もちろん」
彼女は自分で二つ選んだ。ガルドは窓際の卓で食べ、トーマは娘に今日の道の話をしていた。リタは一度食堂を見渡し、レオンへ小さく頷いた。
どの席でも、温かいうちに食べ始めてもらえた。
食後、トーマが次の往復でも泊まりたいと申し出た。来月の同じ頃で、天候によりずれるなら途中の町から伝えてくれるという。レオンは予約の頁を開き、日を記した。
「あと、粉を運ぶ知り合いが、月に二度この道を通ります。空きの確認をしてもらっても?」
「ぜひ。人数も、教えてもらえると助かります」
来月の頁に、二人の名前が並んだ。レオンは指で日付を確かめる。その日の昼は料理を何食用意するか、薪はどのくらい残しておくか。まだ白い欄の多い帳面を、しばらく開いたまま眺めていた。
◯
客が部屋へ戻り、レオンは最後の計算をした。
大人の宿泊が延べ五十人泊、子どもが二人泊。宿泊の売上は銀貨五十一枚と銅貨二十枚。昼食九十食の分を合わせると、銀貨七十三枚と銅貨七十枚になった。
食材、燃料と洗濯、リタの給金、臨時で手を借りた二日分、自分の生活費、税と小修繕に備える積立。全部で銀貨六十三枚。
差し引きは、昼に出した数字と同じだった。
レオンは欄の横に線を引き、今月分の給金を別の袋へ入れた。先に帳面を見せてから渡すと、リタは中を確かめ、確かに、と受け取った。
「来月も、よろしく」
彼が言うと、リタは少し笑った。
「こちらこそ。来月は、昼の献立を一つ増やしてみたいの。相談は、明日ね」
レオンは、明日使うための白い紙を一枚、料理帳の隣へ置いた。
明日の朝食の下拵えまで終わると、リタが小鍋を火にかけた。二人の夕食は、片づけが一段落してから温め直すことにしていた。レオンは外へ出て、厩と薪置場を確かめた。
庭の樫が風に揺れている。魔王討伐の旅で通ったときには、次にどこで戦うかばかり考えていた道だった。今日は雨上がりの土を踏み、戸締まりをして食事へ戻る。
裏口を開けると、モコが顔を上げた。
「ただいま」
思わず出た声に、厨房から返事があった。
「お帰り。ちょうど温まったわよ」
レオンは土間で靴の泥を確かめ、手を洗った。食堂の端には椀が二つ置かれていた。自分の席が、もう決まっている。
座る前に、リタが壁の予定表を指した。
「次の休み、市場へ行く話、覚えてる? あなたに合わせて、私も昼の営業を休める日」
「行きたい」
「仕入れの荷物持ちじゃないわよ」
「分かってる。何を食べるか、考えておく」
言ってから、それで良いのだろうかと顔を見ると、リタは嬉しそうに頷いた。
レオンは椀を持ち、温かな豆を口へ運んだ。腹が空いていたことを、今になって思い出した。
匙を置くと、二階でかすかに床が鳴った。明日の朝は、この人たちに温かい食事を出す。そう思いながらも、立ち上がらずにいられた。
マルタに食事を出してもらった夜も、こんなふうに遠くで誰かが動いていたのだろうか。もう一度あの人に礼を言うことはできないが、休める寝床は、またここにある。
今夜は、自分の椀にもまだ温かい豆が残っていた。
レオンはパンをちぎり、リタの話へ耳を傾けた。市場には甘い焼き菓子を売る店があるらしい。まだ知らない味の話を聞きながら、次の休みに食べてみたい物を、一つ決めた。




