第1話 勇者、宿屋を買う
魔王を倒した褒美に何が欲しいかと尋ねられ、レオンは休みを願い出た。
謁見の間に、小さな衣擦れの音が残った。王の傍らでは、領地の目録を抱えた役人が、めくりかけた頁に指を置いている。半年かけて戦後の仕事を片づけたのだから、領地や爵位を望むと思われていたのかもしれない。
「休養のための屋敷なら、湖のほとりに――」
「いえ。勇者の役目を、ここで終わらせていただきたいんです」
レオンは膝の上で手を開いた。震えてはいなかった。ただ、言うべきことを言い終えても顔を上げられず、次の言葉を待っている。命じられた仕事がもうないことに、体の方が慣れていなかった。
王はしばらく黙り、目録を閉じるよう役人に手で示した。
「行く当てはあるのか」
「泊まりたい宿が、一つ」
それならば、と王は言った。引き止められるつもりでいたレオンは、一拍遅れて頭を下げた。剣を預ける必要はなかったが、勇者の紋章を縫いつけた外套は置いていった。代わりに旅支度の店で買った上着は軽く、歩くたびに肩へ風が触れる気がした。
王都を離れて十日目、街道の先に見覚えのある樫の木が現れた。
枝の下に立つ二階建ての宿は、記憶より小さく見えた。白い壁には雨の跡がつき、軒先の看板は片側へ傾いている。それでも、丸い灯火を彫った意匠には間違いがなかった。
灯火亭。
レオンは門前で靴の泥を落とした。前に来たとき、老女にここを指さされて、子どものように注意されたのを覚えていた。
『魔王でも泥でも、連れて入るんじゃないよ』
あの日は笑えなかった冗談が、今になっておかしかった。笑いながら扉へ手をかけ、そこで初めて、取っ手に鎖が巻かれているのを見た。
「すみません」
返事はない。窓の向こうは暗く、薪の匂いもしなかった。
建物を回ると、裏の小さな畑で女が草を抜いていた。レオンが女主人の名を告げると、女は握っていた草を籠へ落とし、立ち上がった。
「マルタおばさんなら、春の初めに。三か月ほど前です」
レオンは返事を探した。畑の向こうで、川の水が石を洗っている。ようやく吐いた息が、思ったより長く続いた。
「そう、でしたか」
もっと早く来られれば、と言いかけてやめた。王都に必要な仕事はあった。だからといって、間に合わなかったことが軽くなるわけでもなかった。
女はマルタの姪で、ミナと名乗った。村で畑を営んでいるという。レオンの顔を確かめるように見たが、勇者かとは尋ねなかった。
「昔のお客さん?」
「はい。よく眠らせてもらいました」
「あの人、お客さんの寝つきだけは自慢してました」
ミナが少し笑ったので、レオンもようやく口元を緩められた。
◯
宿の鍵は、かすかな音を立てて回った。
ミナが雨戸を開けると、食堂の卓が昼の光に浮かんだ。椅子は十二脚。壁際の棚には、伏せた器が整然と並んでいる。閉める前に一通り掃除したのだろう。埃の下に、次の食事を待っているような形が残っていた。
レオンは入口から二つ目の卓に触れた。
討伐へ向かう旅の途中、雨に降られてここへ来た。服は乾かず、手には剣を握った跡が残り、食べ物を口へ運ぶことさえ面倒だった。マルタは彼の名を聞いても態度を変えず、奥の椅子に放り出してある毛布を取るよう言った。
『食べられる分だけ食べな。残りは明日でいい』
食事を残しても、明日がある。その一言に、何日も張りつめていたものが緩んだ。
煮込んだ豆と玉葱の器を抱え、半分食べたところで眠ってしまった。目を覚ますと器は片づけられていて、肩にもう一枚毛布がかかっていた。礼を言うと、寝た客を起こしたら宿屋の負けだ、とマルタは得意げだった。
「この宿は、どうなるんですか」
指の下の木目を見たまま、レオンは尋ねた。
「売りに出しています。私たちは畑があるし、泊まりの仕事まではできませんから。おばさんにも、無理に継がなくていいと言われていて」
ミナは台所へ目を向けた。
「買い手がつかなければ、冬までには中の物を引き払うつもりです」
レオンは台所の入口に立った。大きな鍋が二つあり、棚には柄の長い匙がかかっていた。何人分の料理が入るのか、見当がつかなかった。野営なら、腹が満ちれば十分だった。マルタの豆の煮込みをどう作るのかも、彼は知らない。
「宿屋は、難しいですか」
「私に聞くくらいなら、難しいんじゃないですか」
もっともな答えだった。
ミナは言いすぎたと思ったのか、少し困ったように笑った。レオンは首を振った。勇者なら大丈夫だと言われるより、ずっとありがたかった。ここでは、分からないことを分からないまま尋ねてもよいらしい。
彼は階段を上がり、六つの客室を順に見た。一室は窓の隙間から草の種が入り、もう一室では床が足の下で低く鳴った。誰かを泊めるなら、直さなければならない。食事も作り、寝具も洗い、朝には起きなくてはならない。
やるべきことは多かった。窓も床も、台所の鍋も、気にかかる。それでも、王都で新しい仕事の束を受け取ったときのように、肩が重くはならなかった。
最後の部屋で窓を開けると、樫の葉が風に鳴った。この窓だった。あの翌朝、仲間に肩を揺すられるまで、日が昇ったことにも気づかなかった。葉擦れの音を聞いていると、毛布の重さまで思い出せた。
「ここを買いたいです」
階下へ戻るなり告げると、ミナは鍵を取り落としそうになった。
「住むだけなら、村にも家はありますよ」
「宿を、また開けたいんです」
「……勇者様が?」
やはり気づいていたらしい。レオンは少し考えた。
「宿の主人になれるかどうかは、まだ分かりません。教わりながら、やってみたいんです」
ミナはすぐには返事をしなかった。レオンはその目を避けずに待った。宿の主人の仕事を、まだ何一つ知らない。それでも、扉を閉じたまま去るつもりはなかった。
「だったら、先に大工を呼びましょう。値段の話は、悪い所を全部見てからです」
レオンは頷き、二階を見上げた。あの軋んだ床を、今度は客が歩く。看板を掛け直すだけでは、扉は開けられなかった。
◯
村の取り決めに従って売買の書類を整え、銀貨二百四十枚を支払ったのは、それから三日後だった。
事前に大工が示した修繕箇所を、レオンは別の紙へ書き写した。さらに当面の運転資金として銀貨百二十枚を分け、残る褒賞金は個人の蓄えとして別にした。宿の金が足りなくなれば分かるように、とミナに教わったからだ。
立派な経営計画とは言いがたかったが、ひとまず何に使ったかを書き留める場所はできた。
鍵を渡すとき、ミナは看板を見上げた。
「名前、変えます?」
「灯火亭のままで。……それは、構いませんか」
「ええ。おばさんも、自分で彫った字を誰かに見せびらかせるでしょうし」
帰っていく背を見送り、レオンはまだ客のいない食堂へ戻った。営業を始められるのは先だった。寝台も屋根も、明日から大工と相談することになっている。
台所の棚を開けると、擦り減った木の匙が一本、奥に残っていた。マルタが使っていた物かどうかは分からない。レオンはそれを洗い、新しい布の上へ置いた。柄は手に馴染むほど滑らかで、先端だけが薄く減っている。まだ使えそうだった。明日、大工が来たら、棚や椅子も見てもらおうと思った。
その夜は主人室の使える寝台に荷を置き、小鍋で湯を沸かした。乾いたパンを湯気にかざすと、少しだけ柔らかくなった。良い夕食ではなかったが、剣を膝へ載せずに食べることができた。
戸締まりをして、台所の火を始末する。最後に主人室の扉を開けたところで、レオンは立ち止まった。
今夜の寝床は、自分で片づけておいたものだった。
腰を下ろすと寝台が軋んだ。明日の仕事を考えながら靴を脱ぎ、脱いだ靴を、今度はきちんと揃えた。




