一万年の孤独
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ローマ。夜。サンタジェロ城。
城の頂、大天使ミカエル像の傍らに、彼は音もなく降り立つ。
漆黒の翼はふわりとほどけ、マントのようにその身を覆った。
彼はこの城を、石の一つに至るまで知り尽くしている。
聖天使城――十の天使像に飾られたこの城は、西暦一三五年、ローマ帝国の賢帝ハドリアヌスの霊廟として築かれた。
世界最大の帝国を背負い、病と苦悩にすり減った皇帝が息を引き取ったその時も、彼は傍らにいた。
十四世紀以降、この城は歴代のローマ教皇により要塞へと姿を変え、牢獄や避難所として使われた。
冷たい檻の中で絶えた罪人と、解放を求める無辜の者たちの声は、今も彼の耳にこだまする。
第二次世界大戦の頃――
天使像に見守られながら、必ず帰ると恋人に誓い、戦地へ向かった若者がいた。
彼は戻らなかった。
五十年後、取り残された少女は老女となり、広場で遊ぶ孫たちを見守りながら、静かに眠りについた。
彼は覚えている。
この地で死んだ、すべての顔を。
そして、彼は知っている。
これから死ぬ、すべてのものの名を。
今この瞬間も、一つの命が古い衣を脱ぎ、新たな旅へと踏み出そうとしている。
だがそれは――この一八〇〇年の歴史を持つ城すら、ただの一度も目撃したことのない存在だった。
今夜、地球で最も長く生きた「最古の霊長類」が、生と死の敷居をまたごうとしていた。
通常、聖天使城を臨む広場は、夜でも明るく、人でごった返している。
だが今夜――そこに観光客の姿は一人もない。
広場は「人避け」の術を施され、十数枚の結界に包囲されていた。
それは守りの壁ではない。内側に閉じた標的を、確実に滅ぼすための攻性の牢獄だった。
襲撃は、十年以上をかけて念入りに練り上げられた。
バビロンの大魔女。魔神アスタロトの娘。吸血鬼たちの母にして女王を――完全に滅ぼすために。
選りすぐりの聖職者、聖戦士、エクソシストたちが、この地に集結したのだ。
清められた司祭たちの聖歌が響く中、聖ゲオルギウス騎士団、ウリエル修道会、聖ニコラス兄弟団、新テンプル騎士団――その精鋭が疾風のごとく駆ける。
彼らを包むのは、最新技術と最古の儀式が融合した動甲冑。
足元のローラーが高速回転し、石畳に聖句を刻み、白い焔を噴き上げる。
手にするのは、聖人の血と灰で鍛えられた滅魔の槍だ。
その穂先は、包囲の中心で荒れ狂う、ただ一匹の美しい獣へと向けられていた。
夜のように黒い髪。砂漠を思わせる乾いた肌。彫りの深い顔立ち。
長い人生の中で、『彼女』は無数の名と称号を得た。
魔女と忌まれ、聖女と崇められ、悪魔と恐れられ、神として幾つもの国に祀られた。
だが彼だけは覚えている。
『彼女』の、最も古い名を。
『ナンナ』――それは失われた言葉で、死と再生の果実、「ザクロ」を意味する。
ナンナが生まれたのは、中東、チグリス川のほとりの小さな集落。疫病と飢餓で家族を失ったその夜、彼女と彼は出会った。
あの運命の夜。まだ人間だった痩せた少女は、洞窟を抜け出した唯一の友を探し、原始の闇へと踏み込む。
そして――そこで太古の魔と邂逅した。
血を吸われ、血を注がれ。人であった少女は死に、そして新たな魔性として蘇った。
あの日から、実に百世紀。ナンナは地上を彷徨い続けた。
かけがえのない友を得ては、すべて失った。
数え切れぬ後悔を重ね、同じ過ちを何度も繰り返した。
その果てに、数多の強大な敵を生んだ。
聖人、悪魔、妖精、英雄。人狼、そして同じ吸血鬼たち――。
彼女を滅ぼしようとした者は、河原の石のように無数にいた。
だが、誰一人として、成し遂げた者はいない。
今夜、この時までは――。
聖なる槍が、不死の肉体を焼き、削る。
吸血鬼の女王が、痛みと怒りの咆咆を上げた。
振るわれた右腕が、瞬時に三倍に伸びる。長剣のごとき爪が、最新の積層装甲ごと聖騎士たちを切り裂き、数名を細切れにした。
だが――彼は気づいていた。
ナンナは何かを庇うように左腕で抱え、利き手を使っていない。
そうでなければ、犠牲は倍では済まなかったはずだ。
『聖なるかな! 聖なるかな! 聖なるかな! ――万物の支配者、主なる神よ! 悪を滅ぼし給え! 魔を祓い給え!』
司祭たちの詠唱が頂点に達する。
騎士たちが車輪で刻んだ聖句が浮かび上がり、焔の鎖となってナンナを縛り上げた。
命知らずの戦士たちが、仲間の死にも怯まず突撃する。聖槍を次々と突き立て、彼女の身体を大地へと縫い止めた。まるで、蝶の標本のように。
刹那――ナンナの体から、黒煙が爆ぜた。
それは霧ではない。無数の微細なアブやハチ――害虫の群れだった。
極超音速で渦を巻き、逃げ遅れた聖騎士たちを分子レベルまで削り取る。
女王の身体が、膨れ上がる。
最初に背を突き破って現れたのは、ジャッカルの首。人の声で、逆さに仏教の経文を唱える。
続いて、ライオン、トラ、ワシ、ヒョウ――幾つもの顔が浮かび上がり、百の声で百種類の呪いを吐き散らす。
光の結界は軋み、ひび割れ、焔の鎖は弾け飛ぶ。
司祭たちが数名、全身の穴から血を噴き、液体となって崩れ落ちた。
――奇妙だ。
彼は訝しむ。
ナンナの力は、この程度ではない。本気であれば、千の呪いを放ち、摩天楼をも凌ぐ魔獣へと変じるはずだ。
やはり――胸に抱いた「それ」が原因か。
それのせいで、彼女は本来の力の十分の一も引き出せていない。
女王は万全にはほど遠い。しかし、人間たちも限界に近かった。
信仰が陰りゆくこの世界で、彼らはできる限りの奇跡や聖なる武器をかき集めたが、ナンナは一万年の生涯で、それ以上の危機を何度も生き延びている。
二度の世界大戦も、彼女を滅ぼすことはできなかった。
かつて米国は、ビキニ環礁で水素爆弾までぶつけたが、夜の女王を数日間の休眠状態に追い込むのがやっとであった。
百五十人を数えた討伐隊も、もはや三十人を切っている。
包囲陣が破られるのは時間の問題かと思われた、そのとき――。
突然、サンタジェロ城の上空を覆い隠していた雲が、一瞬にして蒸発した。




