2 悪役令嬢
アリエスにとって、唯一ともいえる不幸中の幸いは、実際に誰かを傷付けるような悪行は指示されなかったことだった。
「そんなことさせないわよ。だって、貴女、本当は弱いじゃない。誰かと喧嘩して負けたり弱いことがバレたら、ワタクシのこの計画が台無しよ。せっかく貴女っていう逸材を見つけたのに」
いつか、アリエスが問うたときにベリーはそう答えたことがある。全ては自分自身の利益のために、アリエスという好都合な人材を失わないようにするために。
それ故か、アリエスが周囲の者達から陰口や罵詈雑言を言われたときも。
「皆さん、そんなことを言ってはいけませんよ。相手を貶すことは、自分の品格を落とすことでもあります。それにそんなことを言ったことが彼女の耳に入りでもしたら、どんな報復があるかも分かりません。ワタクシは皆さんのことが心配なのです」
ベリーはそう言って、それを聞いた人々は彼女のことをいっそう称えるのだ。さすが聖女様だ、と。
また別のときには、アリエスに石や物を投げられることもあった。そのときもまたベリーが登場して、今度はアリエスをかばうように手を広げながら訴えるのだ。
「いけません、皆さん! あの方は確かに悪いことをしていますが、だからといって傷付けるのは間違っています。ワタクシ達は話し合って、お互いに理解出来るはずです。それにワタクシは、皆さんがあの方と同じことをして悪人になってほしくないのです」
そしてベリーはアリエスへと振り返り、他の者に対するのと同じく優しい声と顔つきで言うのだ。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
怪我をしていようがしていまいが、ベリーの内心をアリエスは理解していた。
『早くこの場から離れなさい。バレないように、悪女のふりをして』
だから、アリエスはベリーの言うことを無視するように、彼女と、彼女の背後にいる者達に、いまの自分に出来る精一杯の睨む目つきをして。
「ひっ……」
それを見て、ベリー以外の者達は恐れる声を漏らし、アリエスは背を向けて離れていくのだ。彼女が充分遠ざかったのを確認してから、人々はベリーへと駆け寄り。
「さすが聖女様、あのような悪女にもお優しいなんて!」
とか。
「大丈夫でしたか聖女様。しかしあの悪女、聖女様のご厚意を無下にするなんて!」
などと言い、ベリーを褒め称えるのだった。
……そんな日々を、アリエスにとっては辛く苦しい日々を、人々に見えない陰で自分の身体を抱くようにして震えて、ときには悲しさや悔しさでなくこともある日々を、それでも懸命に耐えることが出来たのは、家族が平和に暮らせるようにするためだった。
アリエスが悪役令嬢になったときから、父親の事業は多大な支援を受けて軌道に乗るようになっていった。また学園側から家族に、アリエスの学園内での素行が伝えられることもなかった。
「貴女のことは貴女の家族に言わないように、ワタクシが教師や学生達に注意しておいているからね。『彼女の家族を巻き込んではいけません。貴方達が報復を受ける危険性もあります』って」
「……それも、本当はわたしがこの学園を退学したら困るからですよね。自分のために……」
「分かってるじゃない。その調子で頼むわよ。ワタクシの華やかな人生のために」
ニヤリとベリーは笑み、アリエスは暗い顔を崩さないのだった。
しかしそんな日々にも、やはり終わりはやってくる。それはアリエスやベリーが学園を卒業したとか、ベリーが心変わりをしたとか、そんなことではなく。
その日、アリエスは放課後の帰り道を重い足取りで歩いていた。いまの日々になってから足取りが軽くなったことはなく、気分も晴れたことはなかったが。
すぐそばの道路には、自分が通う学園の生徒が乗る馬車が通りすぎていく。彼女が通う学園は、貴族などの高位の者達が多く通う学園であり、通学には馬車を用いる者が多い。
アリエスも悪役令嬢になる前は馬車で登下校していたが、父親の事業が傾き始めた頃から馬車には乗らなくなり、そして事業が軌道に乗ったいまも馬車に乗ることはなかった。
それは、彼女が乗る馬車の御者や同席するメイドや執事に、彼女のいまの学園での周囲の視線を知られないようにするためだった。アリエスが学園の門近くの馬車乗り場に現れるだけで、そこにいた学生達は海を割るように左右に分かれてしまうのだから。
実際には馬車に乗るわけではなく、ただ学園の門から外に出るために通りがかっただけだとしても。彼らは彼女を刺激しないように近寄ろうとせず、しかしひそひそ声で何かを話し合っているのだ。彼女には聞こえないように。
そしてアリエスが門から外に出たあとに、ベリーもまた馬車乗り場に現れると、今度は彼らはベリーへと殺到して彼女を褒め称える言葉を浴びせるのだ。
それはまさに、悪女と聖女の分かりやすすぎる対比だった。
当然、アリエスは一人で帰宅の途についていた。いままでは少なからず徒歩の下校に付き合ってくれる友人がいたりしたが、悪女として名を馳せた頃から、その友人も離れていってしまった。
いまの彼女は、学園内で孤独だった。……否、正確には、共犯者という名のベリーがいたが。
だがしかし、たった一人で寂しく下校する彼女ではあったが、ある意味では心が休まる時間でもあった。通りすぎる馬車に乗る学生達は彼女を見かけると恐がるが、それ以外では彼女を恐れる者はいまは周囲にはいなかったから。
確かに学園の近くや街なかでは、徒歩で下校する学生に恐がられてしまう。しかしいまは学園から離れ、街なかも通りすぎ、自宅へと続く夕焼けに染まる田園地帯を歩いていた。
ときどき通る馬車以外に人の姿は疎らで、カラスの鳴き声が聞こえたり、犬や猫が歩いたり寝ていたりじゃれあっていたりするのが見られるくらい。
この穏やかで、のどかな時間が、いまの彼女にとっては心が休まる時間の一つだった。そして家に着けば、大切な家族がいて、平和で安心出来る場所が待っている。
それがいまのアリエスにとって、数少ない幸せなときだった。
しかしそれが終わる瞬間は唐突に訪れる。
アリエスが歩いている道の先から、がたごとと馬車の音が聞こえてくる。しかしそのとき、道の横から一匹の猫が飛び出してきて、そのあとを追うように一人の少女も飛び出してきた。
「待ってーっ」
猫を追うのに夢中になって、その少女は馬車に気付いていなかったようだ。走る馬車の前に飛び出した直後。
「あ」
少女は声を漏らして、馬車に気付いた。馬車はもう眼前に迫っていた。
「危ないっ!」
考えている時間はなかった。アリエスもまた馬車の前に飛び出すと、少女の身体を突き飛ばして……そしてその代わりに轢かれてしまった。
『ヒヒーン』
馬のいななきが聞こえた。馬車が急停止する音が聞こえた。客室のドアが開く音や、駆けつけてくる音が聞こえた。
霞む視界には、離れた地面にへたり込む少女の姿が見えた。少女は呆然としていて、何が起きたのかすぐには理解出来ていないようだった。
「…………良かった……」
擦り傷はあるものの、それ以外は無事な少女を見て、アリエスは安堵のつぶやきを漏らした。
そしてアリエスは目を閉じて、意識を闇のなかに落としていって……死亡した。