ブルドッグって言うより怪獣そのものだよこのおばさんどうしよう
三番勝負でございます。
ギリシア神話におけるスキュラというのは、上半身は人間の女性、腹部から六つの犬の頭が生えてるっていう、それでなぜか海の怪物の事。細かい所は伝承によってまちまちなんだけど、基本的にはこんなもん。
武田口にこの名を付けられた時、おばさんがどう思ったかは知らない。魔法使いが怪物の姿に変えてしまう前のスキュラは、絶世の美女だったそうで、変身後も上半身はそのままだったから、案外意味が判っても喜んだんじゃ。
だけどこのおばさん、本当にブルドックそっくりと言うか、本物の雄のブルドックが怯えて逃げ出すんじゃないかってくらいの物凄さ。顔もさる事ながら、身体つきもそう。完全にお相撲さん、つまり鍛え抜かれた筋肉太り。そして運動神経は抜群ときている。高校時代、女子柔道の猛者として鳴らした過去の持ち主。しかしながらおばさん、性格が悪いのだ、それもとことん、半端無く。そういう点は順を追って説明していく。ちなみに情報源は、粟田口警部。これ秘密。
そのパンチパーマのおばさんは、今巨体を揺るがせつつ、本社地下の無人の廊下をのしのしと歩き、私を決闘の場へと導いて行くところだ。
おばさんが身に着けているのは、一見普通のトレパントレシャツ、色は黒。私を精神的に参らせるつもりなら、セーラー服か、レオタードに網タイツ姿で来てたかもしんないけど、さすがにそれはしなかった。
大きめのスーパーのビニール袋になんか入れて、右手にぶら下げてる。ガチャガチャ鳴ってる。多分得物だろう。無造作と言うか無頓着と言うか、何やら言葉にならない。いかにもこのおばさんらしいと言えば、言えるかも。
SCS内では数少ないナイフ使い同士として、私は何度かこのおばさんと手合わせしている。と言うか、させられた、しつこく。三回に二回は私が勝っていたのだが、負けた時のおばさんの悔しがる事悔しがる事。あと一回もう一回って。ほんとに勘弁して欲しかった。
でも私は気づいていた。おばさんは意識して、私の目を睨みつけながら戦っていたのだ。前にも触れたが、練習中当然の事ながら、私は「メドゥサのまなざし」を封じている。だが無意識のうちに相手の目を見て、その動きを鈍らせていた事はあったかもしれない。おばさんはわざと、それを誘って、耐性を身に付けようとしていたのだろう、この日の為に。
おばさんは足を止めた。振り返り、こう言った。
「あんたとアタシの決闘の場はここさ、チビ」
階段だ。中央階段。一般社員の姿はここにも無い。みんないきなり休みになってとまどった事だろう。ここオリンポスに今いるのは、ケルベロスと、警備員以外、武田口と、瑞谷先生、私達だけだ。
「階段でどう戦うのか、訊かないのかい、チビ?」
私は黙っていた。チビチビって言われるたびに傷ついてるけど、今さらな話だ。
「相変わらずだんまりだねえ、チビは。まあいいや、教えてやる。追いかけっこさ。言うまでもないけど、あんたらの目的地、CEOのお部屋は、最上階、ここ地下二階から、計十二階上。ダーッと駆け上がってもらおう。私はあんたがスタートして、きっかり五秒後に出発。追いかけっこの始まりだ。追いついた所で、勝負って訳さ。何か質問は?」
私は無言のままかぶりを振る。
「質問は無いィ? ほんとにいいのかい? あんたの例の必殺技、反則にならないのか、とか、投げナイフはどうなのか、とかさ」おばさんは笑い出した。「どっちもOKさ。ただし、通用するかどうかは、試してみなくちゃねえ。おっと、これを忘れるところだった」
おばさんはそう言いながら、サングラスをポケットから取り出し、掛けた。
「これね、強化プラスチック製。まあピストルのタマは無理として、あんたの投げナイフくらいはね。それと、あんたの例のまなざしの威力も、これで半減ってとこだね」
確かに、ある程度耐性が付いた上にこれでは、まなざしの効果は期待できない。おばさんの一見普通のトレパントレシャツは、私達のメイド服同様、防刃加工の特殊繊維製。スニーカーも同じ。投げナイフはおろか、ダガーもフォールディングも駄目そう。剥き出しなのは、あの見るからに皮と言うより革のぶ厚い顔と、ごつい手袋みたいな手か。とほほほ。
「さて、あんたの得物はいつもの三種のナイフで間違い無いね?」
私は頷く。
「で、アタシはこれさ」
おばさんはスーパーの袋からベルトを取り出し、掲げてみせた。ベルトにはナイフ──いや包丁──あ、判った。
「そーそー、狩猟の必須アイテム、各種用途別ナイフ装備ベルトって訳なのよ。まああんたには説明不要だと思うけど、一応教えといてあげる。この大きいのは剣鉈って言ってね、ナタのような柄が付いてるでしょ。これでね、藪を払ったり、獲物にとどめを刺したり、血抜きをするのよね。まあこれ一本あれば、大体用は足りちゃうんだけどね、細かい作業をする時はちょっとね。その為にこの小型のユーティリティナイフが役に立つの。これであんたのその可愛い指を、ちょんちょんと切っちゃったらいいかなーなんてさ。それでさ。やっぱ獲物の解体用には専用の物があった方が効果的じゃない。まあこうなるとナイフか包丁か微妙だけどさー。これが肉切り、これが骨すき、そしてこれが皮剥ぎ、獲物が生きてるうちにこれを使っちゃうなんてさー、暴れて大変だとは思うけど、なんかぞくぞくしてこない、ねえおチビちゃん?」
「やめろ」
私は言った。いい加減にしろサディストババア。私はさっさと階段に向かう。
「始める」
「あらあら可愛くないわねえ。まあいいわ。おばさんを甘く見るとどうなるか、たっぷりと思い知らせてあげるから」
口調ががらりと変わって、
「補導してやる、不良娘、そのあとしっかりお仕置きだッ!」
私は階段を駆け上がり始めた。きっかり五秒後、狩猟ナイフ装備ベルトをぶっとい胴体に巻き付けたスキュラが、恐ろしい程の速度で私を追いかけ始めたのであった。
今補導とか口走っていたが、元女性警察官だったのだ、このおばさんは。
高校女子柔道の猛者であったのは先に触れたけど、「名選手」ではなかった。確かに強かった。実力はあった。だけど敵も味方も、練習でも試合でも、彼女と戦うのを嫌がった。
得意技は寝技・締め技。それでいつも相手をなぶるのを楽しんでいた、あからさまに。相手が降参し、審判に止められても、やめないのが普通だった。当然、そのたびに厳しく注意されたが、「いやーつい夢中になって」「熱中しちゃって」とニヤニヤするばかり。
まあ強い事は強いので、対戦成績を上げたい学校側としては、とにかく我慢してた訳だけど、一時あったオリンピック強化選手の話も、有名体育大学推薦入学の話も、本人のこうした態度が災いして、立ち消えになってしまった。
高校卒業後の彼女──本名愛沢花子は、大学には進まず、前述の通り、公僕の道を選んだ。この時、周囲の者は皆「あの根性悪娘もようやく改心して、世の為人の為に尽くす事としたか」と胸を撫で下ろしたのだが、とんでもない話だった。
あのおばさん──二十前で彼女の渾名はこれだったが、面と向かって口に出来た者はさすがにいなかった──が、「女性警察官になってやりたかった事」というのは、ひたすらいわゆる「お役人」の権威を振りかざし、弱い者いじめをする事だったのだ。
警視庁交通課に配属された愛沢花子巡査は、水を得た魚のように活躍を始めた。違反者をビシビシ摘発して、点数を稼ぎまくった。だがそれは、交通課の重要な職務の一環には違いないが、全てではない筈だった。しかし愛沢巡査にとっては全てであり、他はどうでもいい事だった。
しかもそのやり口ときたら、柔道のそれと同様のえげつなさで、「今にもやりそうな者」を天才的なカンで見つけ出し、多彩なテクニックで罠にかけ、陥れ、取り締まり、次々とべそをかく「違反者」を前に、得意になっていたのである。
あれではむしろ違反者を増やしているだけ、本末転倒も甚だしいと、当然同僚や先輩達の評判は最悪、上からも注意はされるのだが、順調に成果が挙がっている以上、一体何の問題があるんですかと、御本人は例によってまるっきり無反省、もう手に負えなくなっていたのであった。
そんなある日、彼女は道でたまたま通行人の老人から、何気に「婦警さん」と声をかけられ、逆上した。
「婦警とは何だ婦警とは、私は女性警察官だーッ!!」
······「婦警」つまり「婦人警察官」とは、別に差別用語ではないけれど、現在一般的にはいろいろあって、使われなくなった呼び方である。だけど「女警さん」なんて呼び方誰もしてないし、とりわけ年配の人がこう呼ぶのはごく自然な事なのに、愛沢巡査は激怒したのだ。
で、仰天し、半ば失神状態の気の毒なお年寄りに向かって、なおも怒鳴り散らし続けるこの恐怖女性警察官の姿を、しっかり複数の通行人が携帯やハンドカメラで撮影、たちまち画像は生々しい目撃証言を伴ってネット掲示板へ、そして報道され、大問題に。愛沢巡査は定職六ヶ月の処分を言い渡された。
普通不祥事を起こして一般報道された警察官は、これで自ら辞表を出す。辞めろと言われているのと同じだから。解雇よりはましだろという訳である。
だけどおばさんは平気だった。半年経ったらまた復帰するつもりでいた。居心地悪いなんて感覚は初めから無いし、もちろん反省なんかしていない。ところがここで転機が訪れる。
「例の画像」をたまたま目にしたある暴力団幹部が、この「暴言女性警察官」に一目惚れし、結婚を申し込んで来たのである。
そしてこの幹部のおっさんというのがまた、ゴリラと言うかクジラと言うか、とにかく物凄い容姿と巨体の持ち主で、おばさんも、こっちの方が面白そうだとばかりに乗り気になり、署にさっさと辞表を出し、結婚してしまった。
この時、既に「前職場」となっていた警察署の署長や元上司、同僚達にも、平然と招待状を送りつけたが、誰一人応じた者はいなかったそうな。そりゃそうだ。
ヤクザ業界においてもこの夫婦は、表向きはまさに鬼に金棒とか、夫婦烏ならぬ夫婦鷲とか、おべっかを使われていたのだが、裏に回ると破れ鍋に綴じ蓋とか、蓼喰う虫も好き好きとか、怪獣夫婦とか、モンスター・ペアリングとか、ぼろくそ言われていたのであった。
ところが半年でまた転機。夫婦喧嘩のあげく、亭主を半殺しにして、おばさんは家を飛び出してしまったのである。
柔道選手としても、女性警察官としても、極道の妻としても、しくじり続けたおばさんは、終始一貫無反省、悪いのは全部他人、自分は常に正しいという信念(妄想)をもって、その後の人生を歩み続けた。まあここまで徹すればある意味大したものだ。関わり合いになった人こそいい迷惑だが。って私が今その真っ最中か。
で、可愛さ(?)余って憎さ百倍とばかり、自分を車椅子生活者にしてしまった元女房に対して、暴力団幹部のおっさんは、しつこく刺客を送り続けた。各地の盛り場を渡り歩き、女用心棒みたいな生活を送るうち、すっかりナイフの扱いにも慣れたおばさんは、元亭主からの刺客を、ことごとく返り討ちにしてしまい、あげくの果てに自分から殴り込みをかけ、今度こそとどめを刺してしまったのだ。
おばさんは逮捕された。だが運良く有能な弁護士が付き、何のかんので五年で出て来られた。そしてその後は──今こうして私を階段で追いかけているところだ。
三階まで来た。ぴったり後ろについて来る。ニタニタ気色の悪い笑みを浮かべて。相変わらずなぶってるんだ、相手を。何か飛ばした。ユーティリティナイフだ。咄嗟に踊り場で転がってよける。ナイフは壁に当たって弾けた。素早く身を起こしたところに、おばさん──スキュラが、剣鉈を振りかざして飛びかかって来た。私は右手のダガーナイフでかろうじて受け止めた。本来は野獣にとどめを刺す為に使う道具を、人間相手の格闘に用いるとは。私はどうにか剣鉈をはねのけ、体勢を立て直した。
私達は踊り場で対峙した。スキュラは剣鉈の切っ先を赤黒い舌でぺろぺろと舐めていた。心理的に威圧しているつもりらしい。気持ちは悪いけど私はびびらない。私が平然としているのを見て、スキュラはフンと鼻を鳴らした。それからぐっと腰を落とし、剣鉈を物凄い勢いで刀のように薙ぎ払う。私は跳んでこれをよけた。今度は真っ正面からの突き。ダガーではね返す。上、右、左、ことごとく返した。スキュラはまたニタニタ笑う。
「やるねえ、おチビちゃん。だけど防戦一方だ。ちょっとは攻撃してごらんよ。ほら、あんたの得意技、必殺技、でさ」
挑発にしちゃ露骨過ぎる。でも先方がやってみろと言ってる以上、一回試してみなくては。私はダガーを左に持ち替え、右に投げナイフを三本取って、「メドゥサのまなざし」を発すると同時に、スキュラの顔面めがけ、ありったけの力を込めてナイフを放った。
結果は。
「アッハッハッハッハーッ」
顔面に「衝突」後、床に散らばった私の投げナイフを見下ろし、目を見開いたままの私を眺めて、スキュラは得意気に爆笑したのであった。
「これでおしまいかい、おチビちゃん? やはりお前の『まなざし』も投げナイフも、この私には通用しなかったね。ほれ、これを御覧な」
スキュラは無造作に、剣鉈の切っ先を自分の右頬に突き立てた。ように見えた。数秒後、剣鉈を引くと、へこんでいた右頬が、ぶよんと元に戻った。ゴムのように。浅黒いその皮膚は、かすり傷ひとつついていない。投げナイフが刺さる筈もなかった。しかし、いくら何でもこれはあり得ないだろう。
無表情でいたつもりだったが、やはり目に驚きの色が浮かんだようだ。スキュラは自慢たらたらで言った。
「これはね。アポロン病院皮膚科の研究者に作らせたのさ。一定時間、皮膚に極度の強靭性と柔軟性を与える特殊クリーム、一種の強化ゴム化だね、ま、金粉同様、あんまし長くは、塗ってられないけどねえ」
一瞬、そのイメージが脳裏をよぎり、クラッときた。
「という訳で、あんたのナイフじゃアタシには勝てないのさ。あんた、得物はそれだけかい? ピストル持ってくりゃ良かったのにねえ。馬鹿正直は損するよ」
私は無言だった。余計なお世話だ。
「そうそう。あの皮膚科の研究者の男の子、天才よねー、もー可愛くてさー、おたくっぽいとこが、また何ともねー、このクリームにもさー、なんか『バ×ン・スキンクリーム』なんて、怪獣みたいな名前つけてんの。何の事やら、おばさんにはさっぱり」
あー。かっちんが聞いたら泣いて喜ぶ。でもあいつには痩松さんがもういるし。違う。「バ×ン」って白黒の古い怪獣映画。かっちんの部屋で観た。地味だけどドキュメンタリータッチでなかなか面白かった。あの怪獣はムササビ型の爬虫類で、自衛軍が機関銃や迫撃砲や戦車砲でなんぼ撃っても死なないもんで、おかしいなーって良く見たら、ゴムみたいな皮膚が銃弾も砲弾もみんな跳ね返してたって、まんまじゃんかちょっとーっ!
参ったなー。このおばさん、ただでさえ筋肉太りで刃物通りにくいのに、剥き出しの顔と手のみならず、多分防刃トレパンで守られてる全身にも、くまなく塗ったくってるぞ、その「バ×ンクリーム」。ああ見えて凄い用心深いんだよね、おばさんは。背中はその研究者の男の子に塗らせたんだろうな。うわーかわいそ。
それよりどうしよう。どこを攻めたらいいんだろ。
あの映画はどうだったっけ。そう、確か新開発の特殊火薬ってのを使ったんだ。腹の下で爆発させても平気だったから、んじゃ中でって、打ち上げられた照明弾飲み込んじゃうって妙な習性──ホントに妙だ。山奥の湖で蛍でも喰ってたのかな──を利用して、照明弾に時限爆弾くくり付けて、それをヘリから落として飲ませてドカン、おしまいっ。
じゃあおばさんがさっきみたく、大口開けて笑ったところに投げナイフを──ってもうそんな隙見せる相手じゃないや。しまった、気づくのが遅すぎた。うーん。これは弱ったぞ。
「ほーら今度はこっちから行くよーっ」
スキュラはそう叫びざま、剣鉈を大上段に振りかざし、飛び上がり、私の頭上から襲いかかった。これもう、ナイフの格闘戦と違うだろう。私はダガーを右に戻し、左に刃を起こしたフォールディングを持ち、V字に組んで、スキュラの剣鉈の直撃をかろうじて喰い止め、はねのけた。
続けて上下前後左右あらゆる方向から、剣鉈の突きと斬りつけが猛烈なスピードで私を襲う。よけて、よけて、はねのけるのが精一杯。完全になぶられてる。体力的にもおばさんの方が明らかに上だ。向こうのスタミナは桁が違う。この調子で攻められ続けたら、私の息が上がってしまう。陰険おばさんはそれを待ってる。
スキュラが壁際に退いたと思った次の瞬間、クルクル回転しながら肉切りナイフが私の顔面めがけて飛んで来た。のけぞり、ぎりぎりでかわす。でも右頬をかすめた。痛っ。そこを剣鉈で突かれた。
左の二の腕に切っ先が当たった。メイド服がどうにか弾いたけど、ダメージきつい。フォールディングを落とした。スキュラがホホホホホと笑う。今だ。ナイフをその口に投げ込みかけた次の瞬間、お見通しとばかりにずらりと歯並を見せつける。マジ怪獣。
すぐさま骨すきナイフを飛ばして来た。左頬をかすめた。また痛っ。
「さあて、皮剥ぎは最後のお楽しみに残しておかなくちゃねェ」
スキュラは剣鉈を構え直し、じりじりと私に迫ってそう言った。サングラスを通しても、奥の目の邪悪な光が見えてしまう。ぶ厚い唇の端からは、もうよだれが垂れかけていた。私は右手でダガーを構え、痺れている左腕をだらりと下げて、壁際に後退する一方だった。
突然、脱兎の勢いで、私は階段を駆け上がり始めた。スキュラは一瞬ぽかんとし、すぐに後を追いかけ始める。
「逃げたって無駄さチビ! 大人しくアタシの手にかかって解体されちまいな!」
冗談じゃない。そんな目に遭わされてたまるもんか。階段を駆け上がりながら、私は必死に考えていた。どうすればあの怪獣をやっつける事が出来るのか。
今の私にあるのはダガーナイフと数本の投げナイフ。あと万一の時の為の物があるけど、これは今は使えない。あの怪獣の弱点はどこだ。繰り返しになるけど、おばさんは用心深い。口が駄目となると、残りの穴は。
鼻の穴。駄目。×ジラに光を当てるようなもの。ますます怒るばかり。
耳の穴。投げナイフだと脳まではまず無理。耳の中を傷つけるだけじゃ、鼻の穴とおんなじ。なら後ろに取りついてぐっさり。手首つかまれ、引き剥がされ、投げ飛ばされて。これも駄目。
でもどうだろう。顔ではなく、パンチパーマの頭の方は。やっぱ整髪クリームみたく、塗ってるような。だけど頭皮に染み込ませるには、あの見るからにごわごわのパンチパーマが、邪魔になりそう。でも見たところ、クリームてかてかって感じは無いし。もしかして、シャンプー状に薄めたの、作らせて、染ませたとか。だとしたら、効き目は顔とか手に比べたら、薄い筈。そうだとして、ではどこを攻める。いくら何でも、頭皮の下にぶ厚い脂肪や筋肉の層のある人間はいないと思う。如何に人間離れしていても、あのおばさんだってそうだろう。頭皮がゴム状になっていたとしても、ダガーで貫いて、頭蓋骨をかち割れば──でも怪獣の頭蓋骨って、スチール並に硬いかも。とすると、やはり、あそこしか、無い。
延髄。いわゆる盆の窪。呼吸と血管の中枢。急所の中の急所。投げナイフを仕事人の針代わりに使って、思いっ切り突き立てれは、通るかも。そうだ。もう、この可能性に賭けるしか。やってみよう。先生を助けなくちゃ。左腕の感覚もどうにか戻ってる。
八階まで来た。スキュラは「糞チビ待てーッ!」と喚きながら追って来る。私は突然振り向くと、ダガーナイフをその顔めがけて投げつけた。スキュラは左の手のひらで受け止めた。ダガーは弾かれ、下の階に落ちて行った。
「苦しまぎれに最後の武器を──」
左手を顔の前から下ろし、嘲笑いながらそう言いかけたスキュラは、目の前に私の姿が見当たらない事に気づき、困惑する。
私はスキュラの頭上を回転しながら跳んでいた。左手に投げナイフの一本を握りながら。そしてスキュラの背中めがけて降下する。きょろきょろしているスキュラの背中に、私はおんぶおばけよろしく取り付いた。
「何をするッ!」
スキュラは叫び、私を振り落とそうと激しく身体を回した。左の拳を振りかざして私の頭をぶん殴ろうとする。私はスキュラの背中にへばり付き、両足の踵をぶ厚い胴の肉の壁にめり込ませ、頭上で振り回される拳を必死にかわした。だがスキュラの右手の剣鉈が、後ろにくるりと回され、こちらに向かって突き進んで来る。これはどうにもならない。急がなくては。私はスキュラの盆の窪に、投げナイフの先端を押し当てた。そしてあたかもハンマーを振り上げるように、右の拳を。剣鉈の切っ先が、私の右の乳房の下に。メイド服の特殊繊維が、引き裂けて。痛み。構わず、ナイフの柄に、拳を打ち下ろす。ナイフの先端が、めり込んで、血が飛び散る。
「ぎゃあああああああっ」
スキュラが絶叫する。刺さった。思った通り。もう一撃、思いっ切り。ナイフの柄の半ばまで、ずぶずぶと沈んだ。絶叫が途切れ、スキュラの全身が硬直する。
私はスキュラの背中から、下の踊り場まで飛び降りた。スキュラは身体をぐらぐら揺らしつつ、最後の力を振り絞り、剣鉈を振るおうとして、バランスを崩し、階段に倒れ込んだ。
そのまま一個の巨大な肉塊と化したスキュラは、ごろごろと階段を転がり始め、飛びのく私の目の前で、踊り場の壁にぶち当たり、跳ね返り、転がり落ち──見えなくなった。
ほどなく、下の方から「ひえーっ」という女の子の悲鳴が聞こえた。私は階段の手すりから、身を乗り出して叫んだ。
「びーびーッ!」
すぐに下から返事がきこえた。
「めっちー! 大丈夫!?」
「うん、平気!」
「やったね、おばさんが転がってったよ、ごろごろと!」
「かっちんは!?」
「私、ここだよー」階段の中程から返事があった。「ひどい目に遭ったけど、何とかやっつけたよー、こっちの怪獣もー」
私は急いで階段を駆け降り、二人は駆け上がって、五階の踊り場で私達は合流し、抱き合って喜んだ。すぐに、
「由美、ケガしてるじゃん!!」
「ひどいなあ、あのババア、何て事を」
二人は急いで私の手当てをしてくれた。顔のはバンソウコウで済んだけど、左腕はアザになり、まだ痺れが残ってる。右の乳房の下の傷、だいぶ出血してて、後で縫わなきゃいけないかもしれないけど、とりあえず、ガーゼと包帯で止血してもらう。ずきずきするが、我慢出来る。
「ありがと」
「お互い様だろ」
「とにかく三人共、揃って良かったァ」
「おねーちゃん、大丈夫かなあ」
「んー。心配なのは同じだけどさ」
「応援に行ったりしたら、どやされるぞ」
「そだね」
「姐御なら大丈夫。トレーニングルームで待ち構えてるのは、残り物のザコばっかだし」
「ウチらで諸悪の根源に殴り込みだ」
「そして先生を助ける」
私達は頷き合った。
「その前に、各員の得物の状況を確認しておこう」
「えーと」美貴がボルトの突き出た状態のモーゼルC96を取り出し、頭をかいた。「これ、最後の一発だったんだ。ヤバかったー。ま、これがまだあるけどさ」
と、予備のHSCを取り出す。私も頭をかいて、
「あのー、私、ちょっと、拾って来なくちゃ」
「あ、これ?」
佳代と美貴はエプロンのポケットから、私のダガーとフォールディングと投げナイフを数本、取り出した。
「下にバラバラ落ちてたよ。いやーめっち苦戦してるな、急がなくちゃ」
「と思ってたら、上からおばさんがごろんごろん」
「あー助かった。ありがと」
私はほっとして自分の得物を受け取った。佳代はちょっともじもじしてから、先の割れた特製拳銃と、もうほとんどのこぎりに等しい村正を、半べそ顔で取り出して見せた。
私達は息を呑んだ。
「······すご」
「よく勝てたね」
「私が戦った中でも、最強の相手だったよ、あのおじさん」
「あ、おじさんに昇格したんだ」
「んー」
「でまあ、これ、借りて来た。多分、持ってけって、言ったと思うから」
佳代はアルゴスの得物だった、ブローニング・ハイパワーを取り出した。
「これさ。安全装置、掛かったまんまでさ。私とは最後まで、刀で勝負する気、だったのかなーって」
「そっかあ」
「うーん」
私達はしばらく押し黙り、「おじさん」の冥福を祈った。
「さあて」
私達は階段上を睨んだ。
「行くか」
次回、最強姐御相手だけど、ザコでも十三人集まりゃ何とかなるだろというお話です(笑)