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「ダニエルゼ様、どうか公都ソールにお戻りください」
伯爵は再度同じ言葉を口にした。
イエナは、今度はしばし沈思したが、結論は変わらなかった。
「いや、それはできない」
「やはり、公爵閣下の直々のご命令ではないと、無理とおっしゃるのですか」
「そうではない」
イエナは探るような表情を見せている。
春樹の頭の中は、混乱していた。イエナが公爵家の令嬢。それはすなわちこの国、公爵領の王女ということだ。
冗談だろ。
というのが、正直な感想だったが、どこか納得できるような気持ちもあった。
イエナの言葉や態度の端々に現れる雰囲気なかに、そのことを匂わせるものがあったのは事実だ。やや大仰と思われるような言葉や、堅い決意を滲ませるイエナの態度が、その立場に由来するものであったのなら、そうだったのかと得心がいくところもあった。
春樹はイエナの姿を見つめた。
先ほど額に付けていた巫女の前天冠ではなく、小さいが強く輝く王冠をイエナの頭にのせてみる。
春樹は胸が高鳴った。
王冠は、驚くほどイエナに似合っていた。
いま頭にそれがのっていないことに違和感を覚えるほど、王冠はイエナにかちりとはまっていた。
誰がそれをかぶるよりも、イエナがかぶるべきもののように春樹には思えた。
「逆に伯爵に聞きたいのだが、なぜそれほどまで私に、公都に帰ってほしいのだ」
イエナの言葉に、春樹は現実に引き戻された。
そのようにイエナが問いかけてくることは、伯爵も折り込み済みだったようだ。
得たり、とばかりに口を開く。
「このままでは、ソル公爵領の平安が保てぬからです」
「つまり?」
「仮定の話。さらに不敬な例えをお話をすることをご容赦ください」
「許す」
「クリスト様のご容態がこのまま改善せず、万が一のことがあった場合、当然爵位の継承が問題となります。その場合、現状、ルーク様が跡目という流れとなります」
「当然だ。兄上が継ぐことに、不平を言うものがいるはすがない。爵位継承権は一位であり、その人望、才覚、風柄、すべて揃っている。もし、兄上の継承権が二番目以降であったのなら、そちらのほうが問題だ。父上亡き後に、騒乱が起きるであろう」
伯爵は、イエナの言葉に反論するでもなく、深く頷いて見せた。
「ダニエルゼ様のおっしゃる通りでございます。ルーク様の存在は、ソル公爵領の貴族達にとって誇りでございます」
伯爵はそこで、春樹達に視線を向けた。明らかに、邪魔者を見るような視線だった。伯爵は言葉を続けた。
「そのルーク様の行方がわからないのです」
「何だと」
「まことか」
驚きの声は、今度はイエナからだけではなく、ゲオルグからも上がった。
「一ヶ月ほど前から、公都からルーク様のお姿が消えました。身の回りを世話をしていた侍女たちも全く行方がわからない状況です。公爵閣下の体調が優れぬいま、ルーク様までご不在の公都は、政治的に混乱の極みにあります。ですから」
と、アバーテ伯爵は強調した。
「ですから、ダニエルゼ様にご帰還いただきたいのです」
「父上、兄上の現状はわかった。だが、それでも解せぬ。ルーク兄さんの他にも、二人の兄上がいるし、姉上もいるではないか」
「恐れながら、人望が足りませぬ」
「そんなものは関係なかろう。人望があるに越したことはないが、爵位の継承には順位があるのだから。ルーク兄さんが、いない今、ベルマン兄さんが継ぐことになるだけのこと。そこに人望などというものを絡めれば、ろくなことにならない。そもそも人望などと言い出せば、私にそんなものはない」
「そのようなことはございませぬ。ここでは敢えて名前は挙げませぬが、殿下を信望するものは多数にのぼります」
イエナはうんざりした様子で顔の前で、手のひらをぱたぱたと振って見せた。
「わかったわかった。では遠慮することはない、その者たちの名前を申してみよ」
アバーテ伯爵は、もったいぶった様子で5人の名前を告げた。
「ほう。さようか。あやつらがの。初耳だ。それでは、なぜそやつらはここに来てないのだ」
「むさ苦しい顔を並べて、陳情にあがるのも、失礼かと思いまして」
「虚言を並び立てるなっ」
イエナが一喝した。
部屋が森閑と静まりかえった。
「もはや、話すことはない。帰れ」
「しかし」
なおも言葉をつなごうとする伯爵の肩に、横からゲオルグが手を置いた。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「また明日まいります」
それでもそう言いつないで、アバーテ伯爵は退室していった。
なんともやりきれない空気が、部屋には残った。
「結論として、イエナはこのまま残る。そういうことですな」
ヨゼルは少し拍子抜けした様子で、部屋の中を見回すと伯爵に続いて部屋から出て行った。
ゲオルグは残った四人の顔色を確認しながら、何を話すか考えあぐねているようだった。やがて、先に帰っていると言い置くと、ヨゼルの後を追うように部屋から姿を消した。
部屋に残ったのは、春樹、イエナ、ニコ、それにシータだ。
『今まで、隠していて悪かった』
イエナが沈鬱な表情で口を開いた。
何を、とは聞かなくても分かった。
『わざわざ言いふらすことでもないだろ』
春樹のその言葉に、ニコが頷いた。そもそもここに呼んでくれたことが、イエナにとっての一種の贖罪なのだ、ということは春樹もよく分かった。自分から、打ち明けにくいことだったから、伯爵に語ってもらったのだ。
イエナは、きっと自分でずるいことをした、ということが分かっている。
本来、自分自身で語るべき話を、伯爵に肩代わりさせたから。イエナが今、ばつが悪そうにしているのは、身分を黙っていたこととそのことを自分で切り出さなかったこと、二つが原因だ。
だからこそ、いいタイミングのような気がした。
実は、春樹もさっきからずるいことを言いたくて仕方がなかった。それから一つの気がかりな点。ずるいことと、気がかりなこと、二つのことが、春樹の頭の中にはあった。
『私は、貴族を信用しない』
シータが尖った声で、そう言った。その言葉には答えず、イエナはボリボリと頭をかいた。
『ここは、空気が悪ぃな』
イエナは立ち上がると、ぐるりと肩を回した。
『ちょっと庭で話そうぜ』
イエナは踵を返して、入ってきた扉とは別の扉を開けた。
その扉の先には、真っ白な風景が広がっていた。