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『何かまずかったか』
春樹は絶句したイエナに、尋ねる。
言葉を失っていたイエナだが、すぐに首を振った。
「いえ、何もございません」
何もないってことはない、そんなイエナの態度だった。春樹が他の人たちに視線を巡らすと、みんなどこか戸惑っているようだった。
「みなさんはここでお待ちください。神官長を呼んでまいります」
再度、床に置いた座布団をイエナが指し示した。その言葉に、ゲオルグ達が座布団に腰を下ろした。みんなどこか落ち着かないようだった。
イエナが部屋から出て行ってから、ニコが小声でシータに話しかけた。
「床に直接座るっていうのは、どうも落ち着かないね」
「そうね」
シータも居心地が悪そうに膝を合わせて、横座りをしている。ゲオルグ達はあぐらを組んでいるが、どうにも座りが悪いようだった。
「ハルキの座り方はかっこいいな」
ニコにそう言われて、ようやく春樹は思い至った。
板張りの間に敷かれた座布団に座る、というのはこの国の生活では、特殊なことなのだ。それは靴を脱ぐ習慣がないのだから、当たり前のことなのだが、日本人である春樹には、普段からしていたことなのでそのことに思い至らなかった。
そして、正座だ。
イエナは春樹が何の躊躇いもなく、座布団に座ったことも驚いたのだろうが、それ以上に座り方に驚いたに違いない。
しかし今更、足を崩すのも間が悪い。
春樹はそのままの姿勢で、イエナの帰りを待つこととした。
さして待つこともなく、失礼します、の言葉に続いてイエナが襖を開けた。正座をして一礼をし中に入ってくる。開いた襖の先に、白衣を着た男が立っていた。
「おはようございます」
男は一礼をすると、部屋の奥へと進み板間に直接、正座をする。よどみのない所作だ。
五十がらみの男だった。
柔和な目で、口元に笑みを浮かべている。痩身ではあったが、きびきびした動きのためにエネルギッシュさを感じさせ、弱々しい空気はない。
男は、正座をした膝に両手をそろえて、客の面々をじっくりと観察をする。目が合うと、男は軽く会釈を返していく。
その視線が、春樹のところで止まると、男は面白そうに目を細めた。
「あなたが、ハルキさんですか」
名前を呼ばれると思っておらず、春樹は一呼吸を置いてから首肯した。
「はい」
「お噂はかねがね」
男が、脇に控えるイエナに視線を向けた。すると、イエナがばつが悪そうに苦笑した。
「どのような噂なのか、少々気になるところです」
「非常にご立派な方だと、聞いておりますよ。ご安心召されよ」
男はかかと笑った。
「私は、神官長をしておりますヨゼルと申します」
ヨゼルはそう言うと、深々と頭を下げた。
「なんでも、イエナに話があるとか」
話の展開に対して、イエナが身を正す。ヨゼルはゆっくりと春樹達に視線を巡らした。そのヨゼルの瞳には、柔らかさの奥に堅い芯があった。
「イエナについての、出自については私も存じております。しかし彼女は、今は当教会に所属する身です。したがって、私も一緒に話を聞かせていただきます。よろしいですな」
有無を言わさぬ口調だった。
アバーテ伯爵もそれについては異論は挟まなかった。
「分かりました」
伯爵はそう言って、体を乗り出した。
「とは申せ。私がお話ししたいのは、教会におられるイエナ様ではございません。私がお話をしたいのは、ダニエルゼ様でございます。そのことはご了承下さいませ」
ダニエルゼ。
それがイエナのもう一つの名前。話の流れからすれば、恐らくはこれが本名に違いない。
昨夜と違って、すでに覚悟をしていたのか、イエナもその名前が出ても目くじらを立てる様子はなかった。
それでは、と伯爵が続けた。
「ダニエルゼ様、公都にお戻り下さい」
「伯爵」
イエナが瞳を伯爵に向けた。射貫くような眼差し。それはしとやかなイエナでも、横着なイエナでもない。第三の顔だった。今まで、春樹には見せなかった顔。
「その話は以前、はっきりと断ったはずだ」
断言口調。からかうようでもなく、丁重にでもなく、ただ意志を伝えるための言葉遣い。
それは目上のものが淡々と、説明する口ぶりに似ていた。それに対して、伯爵は自然に受け止めている。
イエナという人間は、一体どのような立ち位置の人間なのか。
「存じております。ですが、ソールの情勢に変化があったのです」
「黙れ」
イエナは、言葉という刀で切って落とした。
「よいか。私は父の命により、光の聖霊教会に修行に出されている身。私の修行を中断できるのは父だけだ」
「中断ではございません。ただ一度、ソールにお戻りいただくだけで良いのです」
「ソールまでの道中は片道15日かかる。一日だけソールに滞在するにしても、往復で一ヶ月は修行を休むことになる。それを中断と言わずして、何が中断なのか」
「名目は何とでもなりましょう」
「ならん。もし私をソールに戻らせたいのであれば、父の書状を持参せよ。それ以外は時間の無駄だ」
聞いていると、イエナを説得することは無理なように思えた。
伯爵はしばし沈黙したが、意を決した様子で口を開いた。
「……実は、クリスト様が病で倒れられたのです」
「父上がご病気だとっ」
初めて、イエナが声をうわずらせた。
その短いやりとりに、イエナ以上に驚いた様子を見せたのはニコだった。
春樹の隣で、ニコは唇を震わせたまま、体を固まらせている。
「どうした」
小さく春樹が尋ねたが、ニコはそれには気づかず首を振ってぶつぶつと呟いている。
「いや」、「まさか」、「本当なのか」、断片が聞こえる。
「おい、ニコ」
春樹が再度声を掛けると、ニコはようやく春樹を見た。その額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「どうかしたのか」
「……クリスト様、というお名前に覚えはありませんか」
「いや……ないな」
春樹は自分の頭の中のリストを捲ったが、どこにもヒットしない。
ニコは首を振ってから、口を開いた。
「クリストという名前で僕が知っているのは、現ソル公爵領当主。クリスト・ソル公爵、お一人だけです」
その言葉に、春樹の頭の中は、真っ白になった。




