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公爵家の財務長官  作者: 多上 厚志
第二章
36/103

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 デニスの食堂の裏手、厨房から見えるのは、山が連なる風景だ。

 空には入道雲がわき上がり、天に届かんばかりの勢いだ。


 稜線が迫る景色は、日本でいたころに見た情景では、長野県や岐阜県のようだ。春樹自身は、海に面した街で育ったため、山は遠くに見えるものだという無意識の決めつけがあった。ビエントのように、ぐるりと山に囲まれているとそこはかとない圧迫感を持ってしまう。

 これで、湖がなかったら本当に山間の街という雰囲気になるが、街に寄り添う湖がその閉塞感を和らげてくれていた。

 この湖をモンターニャという。

 春樹もつい先日、ゲオルグに教えてもらった。あれだけ存在感があるのに名前を知ったのはごく最近だった。みんな、(ラクス)、としか言わないものだから、固有名詞があるかどうかも知らなかった。

 ビエントは、山の幸と湖の幸、二つに支えられた街だ。

 新鮮な山菜と、生きの良い魚。この二つが同時に、食卓に並ぶのは、輸送技術と、保存技術が確立していないこの国ではそうはないらしい。


 太陽が沈む方向には、リュンクス山脈が聳え、太陽が昇ってくる方角には壁のようなハスタの山々が周囲を睥睨している。

 山裾に長細く広がるのがモンターニャ湖だ。

 その畔に、ビエントの街はあった。

 モンターニャは、山あいの湖とは思えないほど大きい。大きさは諏訪湖を見たときの比ではない。どちらかというと琵琶湖に近いように春樹には思えた。

 両側に二つの山脈があり、その山々から雪解け水や、雨水が集まってきてできているのだろう。


 春樹が、この国に来てから、ひと月が過ぎようとしていた。

 最初こそゲオルグの手伝いをしていたが、すぐにデニスの食堂の手伝いを始めて、それ以降ずっと皿洗いをしていたことになる。

 ここのところ、ゲオルグの視線が痛かったのだが、ついに昨日、言われてしまった。


「いつデニスの食堂の不正は分かるのだ。もしも不正を見つけるのが無理であるならば、はっきりと言ってくれ。デニスには、そのように伝える。そして出来ることなら、早く私の仕事を手伝ってほしい」


 そもそも、春樹が領主館に住まわせてもらっているのは、ゲオルグの仕事を手伝うというのが一番の理由なのだ。

 その仕事が果たせていないとなると、いつ放り出されても文句は言えない。徐々に共用語は理解しつつあったが、今、街中に捨てられてしまっては春樹は一人で生きていけるだけの能力はない。


 春樹は洗いものの手を止めて、山を見上げる。

 仕事の合間に見上げる山々というのは、何とも言えない良さがあった。

 細かい雑事に忙殺されているのが、馬鹿馬鹿しくなるようなおおらかさがそこにはあった。

 季節は初夏から、盛夏へと向かっていた。

 冷房器具のない厨房で皿洗いをしていると、顎から汗が流れ落ちる。それが洗ったものに残らないように注意しながら、食器を洗っていく。

 太陽は頂上を過ぎて、少し傾き始めていた。

 一日のうちで、もっとも暑い時間帯に差し掛かろうとしていた。


 春樹は洗い物をしながら、ラリアナの実を口に運ぶ。

 最初の頃は、他の従業員から嫌みをなんども言われたが、もうそういった言葉は掛けられなくなった。

 春樹は、イエナに毎朝ラリアナの実を届けてもらうよう頼んだのだ。そのおかげで、お腹いっぱいになるまで食べても、まだ余った。その余りを、みんなに上げているのも文句を言われなくなった理由かも知れない。


「そろそろ、結論を出さないとな」


 春樹は、赤い実をかじりながら呟いた。

 その間も、手早く皿を洗い上げて、横に積み上げていく。手が完全に作業を覚えている。

 何も考え無くても、手は最短距離を動いて、要領よく皿は洗われてぴかぴかになっていく。どんな仕事でもそうだが、頭で考えながらやらないといけないようでは、まだまだ駆け出しだ。


 とはいえ、まだ食器洗いを始めて、一ヶ月程度しか経っていない。そこで、極めたような気分になっては、本当の食器洗いのプロに怒られるかも知れない。


 遠くで、セミが鳴いていた。

 そう、この国にもセミがいるのだ。セミの声を聞くと、夏だなぁ、というのは日本にいた頃の感覚だったが、それはビエントの人達も同じようで、デニスがセミが鳴きだしたときに、恨み言めいたことを口にして、今年の夏が暑くならないように聖霊に祈っていた。

 ビエントの周辺にも、数種類のセミがいるようだったが、姿を見たのは一種類だけだ。

 緑色の羽と、黒いお腹をもったセミだった。

 ミンミンゼミと、クマゼミを繋ぎ合わせたような姿だ。鳴き声は、アブラゼミを弱々しくしたような声だった。


 セミの声が、幾重にも重なってきたところで、春樹はまたひとつラリアナの実をかみ砕いて、種を足下に置いた缶にはきだした。


 ラリアナの実は、もう何千と食べているが、まったく飽きがこない。

 この国にきて、もっとも美味しい食べ物と言っても、言い過ぎではない。イエナに頭を下げて、採ってきてもらっているのだが、最近は彼女も呆れ気味だ。


『何をやっているっ』


 突然、共用語の恫喝が聞こえた。

 意識を現実に引き戻して、慌ててフロアーに入ると、デニスがカルロの手首をひねり上げているところだった。

 春樹が厨房から顔を出していることに気がつくと、デニスはそのまま厨房にカルロを引きづり込んだ。

 フロアーから、お客さんへの謝りの声が聞こえてきていたが、厨房はシンと静まりかえっていた。


 一瞬、セミの声だけが、厨房に満ちた。


 その真ん中で、カルロは打ちひしがれるでもなく、傲然と背筋を伸ばしていた。

 デニスがカルロの身体検査をしはじめると、何かを口汚く罵った。カルロはそれに答えずに、されるがままになっていた。デニスは他の従業員にも指示してカルロの体を探らせるが、何も発見できなかった。


『カルロ、金をどこに隠した』

『もともと、盗ってません。ニコの次は、俺を疑うのですか』


 カルロの回答は明確だ。デニスが舌打ちをして、春樹に救いを求めるように視線を向けてきたが、いまここでカルロを追及するには、間が悪い。

 春樹は、共用語の聞き取りはほぼできるようになっていたが、話すのはまだまだ勉強が足りない。つまり通訳が必要なのだ。

 カルロなら、出来るだろうが、さすがに被告が通訳をするわけにはいかない。


『デニス、夜にしましょう』


 カルロの服から何もでないのであれば、現行犯とはいえない。ならばここで追及する理由はもはやない。

 その春樹の提案に、デニスは渋々頷いた。



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