第81話 Softcontact
雁坂道を下ること3時間、少しずつ景色が渓谷から盆地へと変わってきた。
道路の脇にあるブドウ畑から、80代くらいの感染者が這いずってこちらに向かってくる。俺は片足を上げて、その頭を踏み潰した。道路のアスファルトに中身がぶちまけられる。
「そのケガでなんでそんなに動けるんですか…」
隣にいる村雨さんが呆れたような顔でこちらを見ている。
俺は脇腹に手を当て傷の具合を確かめる。7.62mmの風穴が空いた割には、そこまでひどい痛みではない。安部医院長から貰ったエイドキットに含まれていた止血剤に痛み止め成分も含まれていたのだろうか。
「あまり激しくは動けないかもしれないですが、これくらいなら」
「感染者の頭を潰すのは十分激しい動きだと思いますが…」
そんな話をしながら歩いていると、少し大きな交差点に差し掛かった。
真っすぐ進むと道路はトンネルへ、その手前の右側には中規模の観光施設があり、左側にはコンビニ。そして見えるだけで十数体の感染者がうろついている。
「迂回しましょう」
俺はそう言って左の道へと進む。確かこの先に行くとフルーツラインという道路に出るはずだ。
甲府盆地の北東部の縁をぐるりと回り込んでいる広域農道で、見晴らしがいい。
無論、観光しようってわけじゃない。見晴らしの良い道を進むのは危険が少ないうえに、元凶の痕跡を見つけられるかもしれない。
少し民家が増えて来た。この辺りは家の周囲にしっかりとブロック塀や土塀、生垣を備えた少し古い民家が多い。死角が多いが、角さえ気を付けていれば問題はない。
隣を歩く村雨さんと、互いに逆側の角を警戒しあって道路を進んでいく。
やがて交差点が見えて来た。フルーツラインと書かれた小さな看板がある。車に乗っていたら見逃してしまいそうな看板だな。
交差点を左に進み、塩山方面へと向かう。
「向井さん、さっきから地図とか見ていませんが、この辺りの地理に詳しいんですか?」
俺が無言で進んでいると、村雨さんが不思議そうな顔をして質問してくる。
「ええ、子どもの頃ですがオヤジに連れられてよく来ていたんですよ、この辺り。俺の父親はワインが好きなので、買い物ついでによくドライブしてました」
「そうですか、やっぱり山梨というとブドウですからね」
俺はワインの味については素人だが、国産の、とりわけ山梨県産のワインは飲みやすいというイメージがある。渋みは穏やかで酸味があり、海外産に比べて香りは弱いが癖がない。
「アルコールにはあまり強くないんですが、ワインの味や香りはそれなりに好きです」
村雨さんが珍しく、自分の好みについて自分から口にした。珍しいこともあるもんだな。
「そうなんですか、ではそこら辺のワイナリーで一本ほどクスねて来ましょうか」
「無益な収奪はやめておきましょう」
真面目な顔で言い返されては、俺は何も言えないな。
先ほどよりもブドウ畑が増えて、民家が減って来た。感染者の気配も今のところはない。
ただ、生存者の気配はしている。村雨さんも気付いていたようだが、民家の2階の窓からこっそりとこちらを覗いている人がいた。この辺りでは、未だに自宅で避難生活を続けている人たちもいるようだ。
無理に声を掛けることはしない。向こうから声を掛けてくる場合は対応してもいいが。
感染者の少ない地域であれば、備蓄で乗り切るというのも悪くはないだろう。
やがて歩いていた道路は橋へと変わった。今まで道路と並走していた笛吹川を渡る。この辺りの笛吹川はまだまだ流量の少ない浅い小川だ。盆地へと続く丘陵地帯をゆっくりと流れている。
そのまま進むこと数分。今度はしっかりと大きな青看板の標識が出て来た。フルーツラインはここを左折だ。塩山市街方面と記載されている。
標識の通り、俺たちは広域農道を進む。既に日が傾き始めているが、まだ9月の中旬。盆地の縁のやや標高が高い場所とは言えかなり汗ばむ陽気だ。
俺は少し申し訳ないと思いつつも、道路脇から手を伸ばして巨峰と思われるブドウの房を1つむしり取った。被せられた紙袋は少し汚れていたが、中のブドウは無事のようだ。しかし、房を取った瞬間、熟れ切った実が何粒か地面へと落下してしまった。
落下した実が畑の地面に落ちると、ハエの羽音と共にやや酸っぱい腐敗臭が漂ってきた。熟れ切った果実が自然に落下し、地面で腐り始めているらしい。
それでも、俺の手の中にある巨峰は無事で、果実にはうっすらと白い粉が纏っている。
虫食いがないかを確認して、キレイな実を房から1粒外して、隣で俺を見ている村雨さんに差し出した。
差し出した実をそっと手に取り、すぐさま口に運び、器用に皮を剥きながら実を頬張った。
俺も同じように房から1粒取り外し、口に運ぶ。
「あっま」
熟れ切った巨峰は、やや張りがなくなってはいたが、代わりに十二分な甘さを保持していた。
その場であっという間に2人で1房を食べ尽くし、水分とエネルギーの補給を終えて歩き始める。
太陽が少し赤みを帯びて来た頃、大きな建物が見えて来た。おそらく何かの会館か、体育館のようだ。
そのまま道路を進んでいくと、少し先に感染者…いや、生存者がいるのが見えた。向こうもこちらを認識したようで、少し警戒した様子を見せた。




