第80話 She is so angry.
老夫婦のいた住居から歩くこと2時間半。周囲は徐々に平坦になってきており、いよいよ甲府盆地に入ろうかといった場所までやって来た。
今までは老夫婦以外の生存者は見かけていないし、感染者も見ていなかったが、道路に面したブルーのネットで覆われた果樹園の中に感染者らしき人影が見えた。どうやら老人のようで背が低くやや腰が曲がっているのがわかる。
こちらに気が付く様子もなく、ただ虚ろに佇んでいる。
俺たちはそれに構うこともなく、先へと進んでいく。
この辺りからは民家と果樹園が交互に立ち並ぶエリア、甲府盆地ではよく見られる景色が続いている。
俺は隣を歩く村雨さんに声を掛ける。
「村雨さん、山梨方面の状況って何か知ってたりしますか?」
「この地域での最初の感染は甲府駅周辺で発生、その後爆発的に拡大したそうです。3週間前の航空偵察では都市部の道路という道路には感染者と思われる人の波が…」
村雨さんはその写真か映像でも見たのだろう。その光景を思い出して顔を顰める。
「じゃあ元凶の奴ら、甲府市方面には行っていない可能性が高いですね」
この災害を引き起こした張本人たちなら、どの辺りで感染が拡大しているかは把握しているはず。甲府盆地の中心方面に向かっている可能性は0に近い。
元凶はどちらかというと人の少ない場所に拠点を作る傾向にある。甲府盆地は中心以外もそこそこの人口があり、見晴らしも良いためあまり連中が好む地形ではない。となると、盆地を抜けて行った可能性が高い。所詮、傾向からの推測だが…
甲府盆地の中央を通らなかったのなら、東の大月市方面に抜ける甲州街道ルートか、もしくは富士五湖方面に抜ける137号線ルートのどちらかと推測できる。
とはいえ、甲府盆地のどこかが奴らの目的地の可能性もある。まずは盆地を見渡せる場所へ行くべきだな。
「村雨さん、まずは見晴らしの良い場所まで行きます。盆地に奴らがいる可能性も十分にありますから」
「わかりました…と言っても、どこへ?」
「実は、子どもの頃に父親に連れられてよく遊びに来てたんですよ、この辺り」
「そうなんですか。家族旅行ですか、いいですね」
「まあ、いっつも日帰りでしたけどね」
そう言って、俺は今までずっと歩いてきた国道140号線をあとにし、東山広域農道通称フルーツラインへと入る。この道路、峡東地域という甲府盆地北東部の盆地際の扇状地をぐるりと廻る少し特殊な造りになっている。
そんな道路を東へと進んでいく。
相変わらず、住居と農地の混在する長閑な風景が続いている。
よく晴れた夏の終わりの空、南を見ると僅かに霞む富士山が見えた。
アップダウンの激しい道路だが、見通しは良い。
時々、感染者と思われる人影が遠くの畑や道路にポツリと立っているのが見えるが、今のところ気付かれたりすることはない。
まだまだ小川の笛吹川を渡る橋を通り、甲州市と書かれた看板の下を抜ける。
そのまま道路を進み続け、交差点が見えてくる。青看板には直進山梨方面、左折塩山市街・フルーツラインと表示されている。看板の通りに左折。
道路の傍らにはいくつかの自販機と農産物直売所だった小屋がある。
そして、そこに人がいた。
俺と村雨さんは89式を構える。
その音に反応して、振り返ったのはまだ若い3人の生存者だった。
「うわっ!?」
こちらに気が付いた1人が声を上げ、残りの2人と同じように後ずさって、自販機にぶつかった。どうやら彼らは自販機を物色していたところだったらしい。
俺と村雨さんはすぐに銃を降ろし、今にも声を上げそうな彼らに向けて人差し指を口の前に立てて近付いて行く。
「声を上げないで、感染者が来るかもしれない」
そういうと、自販機を背にしたまま彼らはうんうんと大げさに頷く。どうやらまだ高校生くらいの2人の男子と1人の女子のようだ。
「私は自衛官の村雨です。少し話を聞いてもいいですか?」
村雨さんはまだ少し腰の引けている彼らに優しく丁寧に声を掛ける。
「じ、自衛隊ですか?やっと、救助が!?」
「君、声でかいって…」
自衛官と聞いて、最初に驚いて声を上げた少年がまたもや声を上げる。俺は再度同じようにジェスチャーしながら声のトーンを下げさせる。
「すみません、私たちは救助に来たわけではないんです」
「あ、そ、そんなぁ…」
「俺たちは、生存者に危害を加えようとしている連中を追ってるんだ。一昨日とかこの辺りを通った奴らがいなかったか?」
「さ、さあ、ずっとここにいたわけじゃないからなぁ…お前らは?」
少年が仲間の2人に話を振るが、2人は首を振って応えるだけだった。
「そう、か…ところで、君たちはここで何を?」
「え。あ、いや、その…」
少年は言い難そうに眼を逸らす。まあ、自衛官の前で「自販機を漁ってました!」とか元気よく言えんわな…。まだ日常の良心を持ち合わせているのなら、むしろそれは良いことだ。
「いや、咎めるつもりはないよ。飲み物を取ろうとしていたんだろう?」
「は、はい…」
「近くに住んでいるのか?」
「えーっと、まあ、そうですね」
若干歯切れが悪いな。別にそれくらい答えたって問題はないだろうに。
「飲み物を取ったらそこに戻るのか?」
「はい、そーですね。ここらで安全なのはそこくらいで…」
俺にはどことなく、しょうがなくそこにいるのだと言っているように聞こえた。
少し考えてから、どこを拠点にしているのか尋ねようとした時、今までだんまりだった少女が突然、村雨さんの腕を掴んだ。
俺は一瞬、感染者になったのかと思って反射的に動こうとしたが、少女の顔は今にも泣きそうではあるものの感染者のように顔色が悪いわけではなかった。
俺が状況を飲み込めずにいると、少女は村雨さんの腕を引っ張り、自販機の前から離れて行ってしまった。
俺も残された2人の少年も、ポカンとした顔で取り残されてしまった。
一方、村雨さんと少女は俺たちから15メートルほど離れた場所で、何かを話しているようだった。
「ま、とりあえず、君たちの拠点の場所を教えてくれないかな」
俺は離れて行った2人から目の前にいる少年2人に視線を戻して、用意していた質問をぶつける。
「あー…まあ隠しても意味ないと思うんで言いますけど、ここから3キロくらい行ったところにある高校で暮らしてます」
ふむ、高校か。避難所か何かで、もう人の受け入れができないから話すなと言われていた、ってところか?
「ただ、俺たちと一緒に来るとか、俺たちに教えてもらったって感じで来るのはやめてもらっていいですか?」
「ん?なんでだ?少しそこの責任者と話がしたいんだが…」
「それは…」
2人の少年が自販機の前で少し困ったように顔を見合わせる。
自衛官ですら門前払いってのはおかしいだろう。インフラが寸断し、通信すらダウンしている状況で外部から来た自衛官の持っている情報というのは重要、いかに高校生の彼らといえどそれくらいはわかっているだろうに…
俺と少年の会話が止まってから少し、少女と村雨さんが戻って来た。村雨さんは少女を少年たちの方へ預け、今度は俺の腕を引いて少年たちの声の届かない場所へと連れて来た。
「村雨さん…?」
俺の腕を引っ張っていた村雨さんが振り返ると、明らかに怒っているのが分かった。あれ、俺なんかやっちゃいました…?というのは冗談で、あの少女の話を聞いて憤慨しているのだろう。
「向井さん、あの子たちの拠点は高校だと聞きましたか?」
「ええ、ただ一緒に行くのは断られましたよ」
「その高校、仕切っているのがどうやら若者たちで、ちゃんとした避難所ではないようなんです」
「なるほど…大人を締め出して好き放題やっているって感じですか…」
「はい。それで、あの少女、そのリーダー格の奴らに、性的搾取を受けているんだそうです」
だから村雨さんに助けを求めたのか。
あえて少年たちに聞こえない場所で話したってことは、少年たちはそれを知らず、おそらく拠点を仕切っている奴らが独占的にそういったことをしているのだろう。
怒りからか、疲れからか、頭痛がして目頭を押さえる。
「しかも、そいつら、自分たちは拠点から出ることなく、高校生たちに命令して食料などを探しに行かせているんだそうです…」
「本物の屑じゃねえか…」
「向井さん…」
村雨さんは意思が強く籠った目で俺を見る。あぁ…はい、そう来ますよね?
「ええ、もちろん見過ごす気はないですよ。流石に俺も、弱者に対する一方的な搾取を許せるほど、寛容な人間じゃありませんから」
「はい」
「ただ、まずはあの子たちの意思を確認します。今いる拠点を離れるかどうか、確認してからにしましょう」
「そうですね」
俺と村雨さんは話を終えて、未だに自販機の前で呆然とこっちを見て突っ立っている3人に話を聞きに向かった。




