鳴らせ、この世界の果てで
その報せを持ってきたのは、シンイチだった。
こいつが自分から口を開くのは珍しい。それだけで、ただ事ではないと分かった。
「レイジ。ちょっと来い」
連れていかれたのは、城の奥の書庫だった。天井まで届く棚に、古い書物がびっしり詰まっている。シンイチは暇さえあればここに入り浸っていた。異世界に来てまで古い本を漁っているのは、こいつくらいのものだ。
「これだ」
シンイチが一冊の書物を差し出した。魔族の文字でびっしりと何かが書き込まれている。
「読めるのか、これ」
「少しずつな。ザントに手伝ってもらった」
この男がこの数か月、黙って何をやっていたのか。俺は今になって知った。ただ趣味で本を読んでいたのではなかったらしい。
「召喚術の記録だ」
シンイチがページの一点を指した。
「異界からものを呼び寄せる術。俺たちがこの世界に飛ばされたのも、たぶんこの類のものだろう」
俺はその書物を覗き込んだ。読めない文字の羅列だったが、シンイチが指す図だけはなんとなく分かった。円の中に幾何学の紋様。俺たちが立っていたあの楽屋に走った光と、どこか似ている気がした。
「じゃあ、これを使えば」
「呼ぶ術は書いてある」
シンイチはそこで一度、言葉を切った。
「だが、帰す術はまだ見つからない」
書庫がしんとした。
「呼び寄せる術はあっても、送り返す術は別だ。この本には載っていない。他の書物のどこかにあるかもしれん。ないかもしれん。それは、これから探すしかない」
俺は天井まで続く書棚を見上げた。気の遠くなる量だった。この中から、あるかどうかも分からない一冊を探す。しかも読めない文字で。
それでも。
「手がかりは、あるってことだな」
「ああ」
ゼロが一になった。それだけでも大きかった。この数か月、帰る方法など考えることすら諦めていた。それが、糸の先くらいは見えてきた。
「ハヤトには」
「まだ言ってない。ぬか喜びさせても悪い」
シンイチらしい気の回し方だった。あいつには元の世界に嫁と娘がいる。誰よりも帰りたがっている。だからこそ、確かなことが分かるまでは言わないでおく。
「探すか」
「ああ」
俺たちはそれきり黙って、書棚を眺めていた。
♮ ♮ ♮
その夜、城の広間でちょっとした宴があった。
戦の祝いというわけではない。戦争はまだ終わっていないからだ。ただ、しばらく人間側が攻めてこない。それだけで、魔族たちは久しぶりに肩の力を抜いていた。
俺は隅で酒を舐めながら、その光景を眺めていた。
魔族たちが笑っている。子どもが駆け回っている。ラギが料理を山ほど抱えて頬を膨らませている。シンジがそれと早食い勝負をして負けていた。神に、食で挑むな。
エレンとミラも、すっかりこの輪に馴染んでいた。エレンは魔族の兵と酒を酌み交わし、ミラは子どもらに囲まれて笑っている。人間の勇者と聖女が、魔王城の宴でくつろいでいる。少し前なら考えられなかった光景だった。
「なあレイジ」
いつの間にか、ハヤトが隣に座っていた。
「俺さ、最近思うんだけど。ここ、案外悪くないよな」
「そうだな」
「飯はうまいし、客はよく沸くしさ。まあ、顔はこんなだけど」
ハヤトが腐った己の面を指してけらけら笑う。
俺はシンイチと交わした約束を思い出した。帰る手がかりが少しだけ見えたこと。ハヤトには、まだ言っていない。あいつには元の世界に嫁と娘がいる。ぬか喜びさせるわけにはいかない。
いつか、あの本の続きが見つかって、帰る術が分かったとき。俺はこいつに何と言うだろう。帰ろうと言うのか。それとも、こいつはこの城に残ると言い出すのか。今の顔では、答えは出なかった。
その答えは、まだ先でいい。
「ま、しばらくはここでやってくしかねえよな」
ハヤトが酒をあおる。
「どうせ帰る家も、今んとこないんだしさ」
あいつはけらけらと笑った。俺は何も言わなかった。
♮ ♮ ♮
宴の輪の中心で、ラギがふらりと立ち上がった。
「ねー! なんか物足りないんだけど! アレやってよ、アレ!」
こっちを見て、手をぶんぶん振っている。アレというのは、言うまでもない。演奏だ。
「宴の締めに、四候様の音を」
ザントまでが、恭しく頭を下げてくる。魔族たちの視線が、期待とともに集まってきた。
やれやれ、と思う。宴の席でまで、仕事か。
だが、悪い気はしなかった。
俺はギターを担いで立ち上がった。ハヤトが喉を鳴らし、シンジがスティックを回す。シンイチが黙ってベースを構える。さっきまで書庫で難しい顔をしていた男の顔は、もう、いつものそれに戻っていた。
帰り道は、まだ見えない。顔は化け物のまま。戦争も終わっていない。北の空の下では、あの大神官が、次の絵図を描いている。問題は、山ほど残っている。
だが、今は。
目の前に、笑っている連中がいる。俺たちの音を待っている客がいる。
だったら、やることは一つだ。二十年前から、何も変わらない。
「いくぞ!」
俺が弦を鳴らすと、広間が沸いた。
異世界の魔王城に、今夜も Jesus Pain の音が響く。
帰れない旅は、まだ続く。それでも、ライブは止まらない。




