92.それでも生きていく
屋敷に戻ったのは、すっかり日が落ちてからだった。
玄関の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
外で流してきた感情を、建物ごと抱え込むような音だった。
エルディオは、靴を脱ぐ動作が少しだけ遅れた。
身体が重いわけじゃない。むしろ、妙に軽かった。
泣ききったあとの、あの空白に近い感覚。
胸の奥は痛むのに、呼吸は通る。
傷はあるが、塞がれてはいない。
――生きている。
それを、今日は否定しなくていい。
そう思えるだけで、足元が少しだけ安定した。
シャルロットも同じように静かだった。
何かを言いそうで、言わない。
それが今日の二人の呼吸だった。
使用人が灯した明かりが、廊下を柔らかく照らす。
影が伸びて、二人分になる。
それを見て、エルはほんの一瞬だけ足を止めた。
――二人分。
当たり前のことなのに、胸の奥がじんとした。
今日一日で、“一人じゃない”という事実が、やけに重く、やけに尊かった。
♢
寝室ではなく、居間に入った。
火はすでに落ちていて、夜の冷えが床から伝わる。
エルは薪を足し、火を起こした。
指先が少しだけ震えたが、うまくいった。
炎が安定するまでの沈黙。
それを、シャルロットは壊さない。
椅子に腰掛け、膝の上で指を組んでいる。
鎧はもう脱いでいて、騎士ではなく、一人の女性の姿だった。
鎧を脱いだ彼女を見るたび、エルは少しだけ胸が締めつけられる。
剣を振るう彼女を誇りに思っている。
同時に――失う想像をしてしまう自分を、止められない。
エルは向かいに座った。
距離は近い。だが触れない。
今日の二人には、その距離が必要だった。
「……静かだな」
エルが、ぽつりと言う。
「うん……」
シャルロットが小さく頷く。
「今日は……たくさん、泣いたから」
「……ああ」
それ以上は言わない。
“誰が”とか、“何で”とか、言葉にしなくても分かる。
火の爆ぜる音だけが、時間を刻む。
♢
エルは、ゆっくりと息を吸った。
「……シャル」
「ん……?」
呼ばれる声は、いつもより少し低い。
「今日……リィナの両親と話して」
言葉を選ぶ。
選びすぎると、嘘になる。
選ばなさすぎると、崩れる。
「……僕、初めて分かった気がする」
「何が…?」
「……生きるってことを」
シャルロットの指が、わずかに動いた。
驚きではない。受け止める準備の動きだった。
「ずっと……生き残ることだと思ってた」
戦場で。
任務で。
家の中で。
「死なないことが、正しいことだって」
でも。
「違った」
エルは、視線を上げる。
「生きるって……続けることなんだな」
「続ける……?」
「うん」
一拍。
「失ったものを、なかったことにしないまま」
「それでも、先に進むこと」
言葉が、自然に出た。
リィナの両親の前では出せなかった言葉だ。
「僕……今日、ようやく」
喉が少し詰まる。
でも止めない。
「前を向いていいって……思えた」
シャルロットの目が潤んだ。
すぐに零れない。溜まる。
その“溜める”仕草が、彼女の性格をよく表していた。
感情を軽く扱わない。
だから、溢れたときは必ず本物だ。
♢
「……少し未来の話を、してもいい?」
エルが言う。
“いいか”と聞くこと自体が、エルにとっては珍しかった。
命令でも決定でもない。相談だ。
「……うん」
シャルロットはそう答えた。
声が、ほんの少しだけ震えた。
エルは、視線を火に落とした。
「僕たち……婚約しただろ」
「……うん」
分かっている。
でも、声にすると実感が増す。
「だから……」
一拍。
「結婚のこととか」
シャルロットが、息を止めたのが分かった。
「子供のこととか」
止めた息が、少しだけ乱れる。
「住む場所のこととか」
エルは、ゆっくりと言葉を重ねる。
「……考えてみたんだ」
考えた。
本当に。
「王都から、少し離れた場所がいい」
戦場から遠く。
政治の中心からも、少しだけ外れた場所。
「庭があって……」
思い出すように言う。
「花を植えられる場所があって」
白い花が、脳裏をよぎる。
「静かで……夜に、ちゃんと星が見えるところ」
それは、彼女が生きられなかった景色でもある。
「……子供ができたら」
シャルロットの睫毛が震えた。
「僕は……剣の持ち方を教えるより先に」
「ちゃんと……泣き方を教えたい」
シャルロットの目から、涙が零れた。
声を上げない。ただ、静かに。
その涙は弱さじゃない。
未来を受け取ってしまった人間の涙だ。
♢
「……エル」
シャルロットは、片手で口元を押さえながら言った。
「そんな話……」
言葉が続かない。
嬉しい。怖い。愛おしい。
「……そんな未来、考えてくれてたんだね」
涙が、指の隙間から落ちる。
エルは、立ち上がった。
近づく。
彼女の膝の前に屈む。
触れないまま、視線を合わせる。
「……だから」
声は低いが、迷いはない。
「お願いがある」
シャルロットは、泣きながら頷いた。
「……君には」
一拍。
「騎士団を、辞めてほしい」
空気が止まる。
「戦場から、引いてほしい」
シャルロットは、すぐには答えなかった。
驚きはした。
でも怒りはない。
「……理由は?」
震える声。
「僕が……怖いからだ」
正直だった。
「君を失う可能性がある場所に」
「もう、立たせたくない」
それは支配ではない。
命令でもない。
懇願だった。
♢
シャルロットの言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
拒絶ではない。
でも、受諾でもない。
エルディオの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
それは怒りじゃない。失望でもない。
ただ――怖さだ。
大切にしたいと思った瞬間に、その大切なものを守りきれない可能性が、はっきりと輪郭を持ってしまう。
戦場で何度も味わってきた恐怖と同じ形をしているのに、今日のそれは刃よりも深く刺さった。
彼は、言葉を探した。
けれど、口を開けば開くほど、自分が「お願い」ではなく「命令」に寄っていく気がした。
それが一番嫌だった。
――守りたいのに、縛りたくない。
守ると縛るは、似ている。
特に彼の育った家では、その二つは同義だった。
当主の「守る」は、「お前はここにいろ」と同じ意味で。
父の「守る」は、「お前の選択肢はこれだけだ」と同じ音で。
だからこそ、彼は怖い。
自分の愛が、いつか同じ音になってしまうことが。
その沈黙を、シャルロットが破った。
涙の残る睫毛のまま、けれど目を逸らさずに言う。
「……ねえ、エル」
「……」
「あなたは、私を守ろうとしてくれてる」
その言い方が、ずるいほど優しかった。
責めるためじゃない。押し返すためでもない。
ただ、事実として受け取ってくれる声だった。
「嬉しい。……本当に」
一拍。
彼女は、息を整えるみたいに唇を噛んだ。
「でもね、私は――」
言葉が途切れそうになって、彼女は自分で繋いだ。
繋がなければ、きっと泣いてしまうから。
泣いたら、言うべきことが言えなくなるから。
「私は、あなたの隣にいることで、ようやく息ができるの」
エルディオの指先が、ほんの僅かに震えた。
“激重”という言葉では足りない。
それは依存ではないのに、依存に似た痛みを含んでいる。
彼女は、それを隠さない。
隠して綺麗な言葉にしない。
だから、刺さる。
「私、昔から……強いふりが得意だった」
シャルロットは、泣き笑いのように息を吐いた。
「剣を握っているときだけ、迷わずにいられた。『守る』って決めてるときだけ、立っていられた」
彼女の声は静かだった。
静かなのに、重い。
「でも、本当はね」
言葉がほんの少しだけ濡れる。
「怖かった」
エルディオが、息を止めた。
「誰かを守りきれないことが」
「守りたいのに、守れない日が来ることが」
「そして……守れなかったとき、私が自分を許せないことが」
彼女の指が、膝の上で強く組み直される。
爪が掌に食い込む音がしそうなくらい、きつく。
「だから私は、守る側に立っていた」
「守る側にいれば、間違えない気がしたから」
シャルロットは、そこで初めて目を伏せた。
炎の揺らぎが頬の涙を光らせる。
「でもあなたの前では、間違えるの」
小さく、笑った。
笑ったのに、泣いている。
「あなたのことになると、私は弱くなる」
「弱い自分が、怖い」
「だけど――その怖さを、私は捨てたくない」
エルディオの胸が痛む。
それは、拒絶の痛みではない。
受け取ってしまった痛みだ。
シャルロットは、顔を上げた。
涙で揺れる目なのに、声は芯を持っていた。
「子供ができるまでは、って言ったけど」
彼女は、少しだけ息を吸う。
「本当はね。……子供ができた後も、あなたが望む限り、隣にいるつもり」
言葉が、逃げ道を塞いでいく。
甘くて、重くて、逃げられない。
「私は、あなたの人生に“居場所”として居たい」
「戦場の相棒でも、騎士団の同僚でもなくて」
「……あなたの帰る場所になりたい」
その一言で、エルディオの視界が微かに滲んだ。
帰る場所。
彼は、それをずっと持たなかった。
屋敷はあった。部屋もあった。役割もあった。
でも、“帰る場所”はなかった。
彼は、声を絞り出す。
「……シャル。重い」
冗談みたいな言い方になってしまった。
だが、シャルロットは笑わない。
「うん。重いよ」
あっさりと肯定した。
それがさらに重い。
「でもね、重いのは……私がそれだけ本気だから」
一拍。
「あなたのこと、軽く好きになれない」
「中途半端に愛せない」
「いなくなったら生きられない、なんて言わない」
ここで彼女は、まっすぐエルディオを見た。
「でも、いなくなったら――私の世界は、終わる」
言い切った。
誇張じゃない。脅しでもない。
ただ、事実として。
エルディオは、喉の奥が熱くなった。
彼女の言葉は、彼を縛るためではなく、彼を“逃がさないため”にある。
逃げて、壊れて、独りで死ぬように生きるのを、許さない言葉だ。
彼は、目を閉じて、息を吐いた。
「……君は」
声が掠れる。
「僕を、救おうとしている」
シャルロットは首を振る。
「違う」
即答だった。
「救うんじゃない」
一拍。
「あなたがあなたのまま、生きるのを――許したいだけ」
許したい。
その言葉は、彼の胸の奥を柔らかく叩いた。
「リィナさんのことも」
「あなたが背負っている全部も」
「私は、奪わない」
そして、少しだけ声を落とす。
「だから、あなたも……私を奪わないで」
その一言が、エルディオの背骨を震わせた。
奪わないで。
それは、「自由にして」とも違う。
「縛って」とも違う。
“隣にいること”を、彼女は自分の意思で選んでいる。
だからこそ、奪われたくない。
彼の不安や恐怖の名の下に、選択を奪われたくない。
エルディオは、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
短い言葉。
でも、約束だった。
そして、少し間を置いて、彼は言う。
「それでも……怖いんだ」
「君が死ぬのが」
シャルロットが、目を見開いた。
それから、涙のまま微笑んだ。
「うん」
頷く。
「怖いよね」
優しく、残酷に同意する。
「だから、私は生きる」
一拍。
「あなたの隣で、生きる」
「あなたに“ただいま”って言って、あなたに“おかえり”って言って」
「眠る前に、明日もあなたがいるって確認して」
彼女は、言葉を積み重ねるたびに、少しずつ泣き方が変わっていった。
悲しい涙じゃない。
嬉しい涙だ。
嬉しすぎて、怖さが混じってしまう涙。
「……ねえ、エル」
シャルロットが、小さく呼ぶ。
「私、あなたの子供が欲しい」
エルディオの呼吸が止まった。
あまりにも直球で、あまりにも重い。
だが、いやらしさは微塵もない。
未来を、彼の前に置く言葉だった。
「あなたが泣き方を教えたいって言ったでしょ」
「なら、私は……笑い方も教えたい」
彼女は、涙を拭いもしないまま言った。
「あなたが笑えるようになるまで」
「何回でも、隣にいる」
「あなたが笑ったら、私、たぶん……世界で一番嬉しい」
エルディオの胸の奥が、きゅっと縮む。
嬉しい。
怖い。
温かい。
全部が一緒になって、言葉が出ない。
だから、彼は手を伸ばした。
最初は、触れるだけ。
指先が、彼女の頬の涙に触れる。
涙は熱い。
生きている熱だ。
シャルロットが、その手に頬を寄せた。
自分から寄せた。
その仕草が、何よりも強い意思だった。
「……ねえ」
囁くように言う。
「明日、編入でしょ」
「うん……」
「私、怖いよ」
エルディオの眉が動く。
「あなたが、また遠くへ行くのが」
「私の知らない顔で戦うのが」
「私の知らない痛みを抱えて帰ってくるのが」
それを、彼女は“止めたい”とは言わない。
ただ、“怖い”と言う。
「でも、だからこそ……お願い」
シャルロットは、彼の服を掴んだ。
強く。
逃げないように。
でも壊さない程度に。
「明日も、帰ってきて」
「帰ってきて、ここにいて」
「私の前で、ちゃんと息して」
激重だった。
でも、それは愛だった。
エルディオは、頷く。
「……帰ってくる」
「約束する」
彼は、そこで初めて、彼女の涙を拭った。
ひとつ。ふたつ。
丁寧に。
シャルロットが、笑った。
笑いながら泣いている。
泣きながら笑っている。
「……好き」
小さく言う。
でも、逃げない音だった。
「あなたのそういうところが、好き」
「怖がってくれるところも」
「未来を考えてくれるところも」
「私を、必要だって思ってくれるところも」
息を吸って、吐いて。
「全部、好き」
そして、最後に。
「だから、私は――あなたの隣を譲らない」
宣言だった。
甘くて、重くて、逃げられない。
エルディオの胸の奥が震える。
その震えは、恐怖ではない。
生きる震えだ。
彼は、もう一度だけ言った。
「……ありがとう」
シャルロットが、首を振る。
「違う」
一拍。
「ありがとうじゃない」
彼女は、顔を上げて、まっすぐ言う。
「……これからも、って言って」
エルディオは、息を吸う。
「……これからも」
言った。
シャルロットが、泣きながら笑った。
そして、声を震わせたまま、囁く。
「うん。これからも」
「私、ずっといる」
「あなたが嫌だって言っても、説得する」
「あなたがいらないって言っても、嘘だって言う」
「あなたがひとりになろうとしたら、引きずってでも戻す」
激重だった。
でも、その重さは“生きろ”と同じ意味だった。
エルディオの喉が、音を立てた。
それから彼は、ようやく――
シャルロットを抱き寄せた。
強くは抱かない。
逃げ場を残す。
それでも、彼女は逃げない。
むしろ、腕の中で小さく息を吐いて、囁いた。
「……捕まえた」
まるで冗談みたいに。
でも冗談じゃない音で。
エルディオは、目を閉じた。
胸の中で、彼女の熱を確かめる。
――この熱を守りたい。
守りたいけど、縛りたくない。
だから、彼は誓う。
縛るのではなく、帰る。
命令するのではなく、選ぶ。
明日も、ここへ。
♢
しばらく、二人は何も言わなかった。
火が揺れる。
影が揺れる。
エルは、シャルロットの額にそっと口づけた。
恋人としての甘さではなく、確かめるための触れ方だった。
彼女がここにいること。
息をしていること。
今日が終わって、明日が来ても、隣にいてくれること。
シャルロットは、彼の胸元を強く掴んだまま、震える声で言った。
「……ねえ、エル」
「ん……?」
「私、明日……あなたが戻ってくるまで」
「きっと、ずっと数えてる」
「足音を」
「扉が開く音を」
「あなたの声を」
激重だった。
でも、愛以外の何でもない。
エルは、少しだけ笑った。
笑うことに慣れていない笑い方だった。
それでも彼は笑った。
「……じゃあ、帰ったら言う」
「何を?」
「ただいま、って」
「……うん」
シャルロットは、泣きながら頷いた。
「私、絶対に言う」
「おかえり、って」
その言葉が、エルの胸に静かに灯る。
帰る場所。
帰っていいと言われる場所。
彼は、ゆっくりと息を吸った。
「……明日」
「王国直轄部隊への、正式な編入だ」
「うん……」
「たぶん……厳しい」
戦場よりも。
家よりも。
「でも」
エルは、胸の奥から言葉を引き上げた。
今日、墓前で流した涙の向こう側にある言葉。
逃げずに、握りしめる言葉。
「僕、これからも頑張るから」
一拍。
「前を向いて、生きるよ」
シャルロットの肩が震えた。
また涙が溜まって、落ちていく。
「……君の隣で」
その言葉で、シャルロットは声を上げて泣いた。
嬉しさと、不安と、愛情が、全部一緒になった涙だった。
エルは、彼女の背中をゆっくり撫でる。
子供をあやすみたいに、でも恋人として。
彼女が泣くのを止めない。
泣いていいと、腕の中で許す。
「……泣いてもいい」
エルが言う。
「泣き終わったら、また生きればいい」
シャルロットが、涙のまま笑った。
「……うん」
「私たち、そうする」
♢
夜は、静かに更けていく。
この夜が、どれほど尊いかを、二人とも、まだ知らない。
ただ――
この時だけは、確かに。
未来が、二人の前にあった。
そしてエルディオは、シャルロットの髪に触れながら、心の中でそっと言った。
――リィナ。
君がくれた未来を、僕は壊さない。
泣いても、怖くても。
逃げない。
僕は、明日も帰ってくる。
シャルの隣へ。
この回は、物語の中でいちばん静かで、いちばん大切な時間です。
戦いも陰謀もなく、ただ二人が同じ夜を過ごすだけ。
でもエルにとっては、「生きる側に戻る」決定的な一歩でした。
前を向くことは、忘れることじゃない。
痛みを抱えたまま、それでも進むこと。
その覚悟を、言葉と沈黙の両方で描いています。
シャルロットは優しく守る人ではなく、逃がさず隣に立つ人として書きました。
この夜の幸福は、後の絶望の対比でもあります。
ここから、すべてが動き始めます。




