35.三年
朝が来るたび、同じ匂いがした。
湿った土。煤。血の乾きかけた鉄。
辺境伯領の冬は長い。春の気配が差し込む日もあるのに、体の奥に残る冷えだけがいつまでも抜けなかった。
戦場へ向かう外套は、いつも同じ場所に掛けられている。
留め具の革は、最初の頃より柔らかくなった。
指が迷わない。紐を結ぶ動作が、祈りみたいに機械的だった。
——転移。
光が揺れて、景色が剥がれる。
戻るときも同じだ。
血を落とす水の音。手袋を外す音。武器を置く音。
誰かが何かを言う。褒める声。怯える声。感謝の声。
それらは、遠い。
戦場は、すぐに日常になる。
剣を抜く。
魔法を編む。
倒れた影の上に、次の影が重なる。
赤は、赤のままだった。
最初は、それだけで吐き気がした。喉の奥が焼けて、胃が裏返るような感覚が来た。
でも、人は慣れる。
剣についた血を拭うのが早くなる。
拭わないと滑る。
滑れば、次に死ぬのは自分か、誰かだ。
仲間が倒れる。叫び声が上がる。
胸が動く前に、口が動いている。
「後退」
「右から回れ」
「魔法支援を、今」
名前を呼ぶより先に、指示が出る。
救う。
同時に、殺す。
どちらも同じ動作の延長線上にある。意味の違いをいちいち考えない。
数は数えない。
数えたところで、何も変わらない。
ただ、“多い”という感覚だけが、骨の奥に溜まっていく。
そして、それが——三年になった。
誰も「三年」とは言わない。
言った瞬間、時間が形になってしまう。
形になれば、取り返しがつかないことが確定してしまう。
だから、ただ繰り返す。
戦場/帰還/また戦場。
戦場/帰還/また戦場。
エルディオの二十歳の誕生日が、いつだったか。
祝われたか。
ケーキがあったか。
そんなものは、誰の記憶にも残らなかった。
残るのは、戦場の順番だけだ。
♢
まだ三年という時間が、ただの「これから」だった頃。
アインは、報告書の束を机に置いた。
紙の角が揃っている。署名も整っている。数字も間違いがない。
戦況は、安定していた。
——それが、恐ろしかった。
被害は減った。領民の避難は早くなった。砦の補給線も、以前より切れにくくなった。
魔族の動きは確かに活発化しているはずなのに、辺境伯領は踏みとどまっている。
理由は分かっている。
分かっているから、目を逸らせない。
報告書には、同じ言葉が何度も出てくる。
《エルディオ様の先行》
《エルディオ様の魔法支援》
《エルディオ様の突入》
《エルディオ様の掃討》
数を並べれば、勝っている。
戦果は明確だ。
でも、アインの視線はいつも、そこでは止まらない。
報告書の余白。
兵の手が震えた跡。
急いで書き足したような、乱れた筆圧。
それが、いちばん正直だった。
戦場の兵たちは、息子を「救世主」のように語る。
口に出すときは、尊敬の形をしている。
しかし目だけは隠せない。
——恐れている。
敵を恐れる目ではない。
戦場の理を超えたものを見た者の目だ。
理解できない力を前にした、祈りに近い恐怖。
それを、アインは分かってしまう。
息子は、褒められるほど前にいる。
それなのに、近づけない場所にいる。
剣聖として、アインは数え切れない戦場を踏んできた。
大魔道士であるミレイユと共に、領を守ってきた。
だからこそ分かる。
戦場における「強さ」は、必ず何かを伴う。
恐怖。怒り。誇り。信念。守るべきもの。
何かに支えられて、剣は振られる。
だが、エルディオの強さは違う。
支えがない。
支えがないのに、折れない。
折れないのではない。最初から、折れる部分が見えない。
それが——いちばん怖い。
扉が控えめに叩かれた。
ミレイユが入ってくる。髪を一つにまとめたまま、手には薬草の匂いが染みついている。
昨夜の帰還兵の治療を終えたところだろう。
顔色が薄い。疲労は隠しようがない。
「……また、出たの?」
問いかけの形をしているが、答えは分かっている声だった。
アインは頷くだけで返した。
「出たよ…。そして戻った。血を落とした。外套を掛けた。……そして、もう出ている」
言葉にしてしまうと、途端に馬鹿げた繰り返しに見える。
ミレイユの瞳が揺れた。揺れを止めるために、彼女は唇を結ぶ。
「私たちが呼べば……来るわ」
「来る…だろうな」
「止めれば……止まる?」
アインは、少しの間だけ沈黙した。
止める。止めるとは何だ。戦いを。足を。心を。
止めたところで、どこへ戻るのか。
「……止まるだろう。表面上は」
ミレイユの指が、机の縁を強く掴む。
爪が白くなる。
「表面上じゃなくて。あの子を——」
言いかけて、ミレイユは言葉を飲み込んだ。
“救う”という単語を避けたのだ。
救う、という言葉は傲慢に聞こえる。
救えるはずだと信じているみたいに聞こえる。
アインは、机の上の報告書に視線を落としたまま、低く言った。
「……俺たちは、あいつを『手のかからない子』だと思っていた」
ミレイユが微かに瞬きをする。
反論は出ない。出せない。
「魔法の才能も、剣の才能も、あった。覚えは早い。飲み込みが速い。判断も正確だ。……だから、任せた」
任せた。
言い換えれば、見なくて済ませた。
ミレイユが小さく言う。
「……あの子は、私たちの前ではいつも、いい子だった」
その「いい子」という言い方が、部屋の空気を重くした。
いい子。
反抗しない子。泣かない子。迷惑をかけない子。
それは、親が安心するための形だ。
アインの喉が鳴る。
「いい子、だったんじゃない」
ミレイユの視線が上がる。
「……あいつは、最初から——」
言葉が続かない。
続けたくない。続けてしまえば、過去が全部、違う色になる。
ミレイユが、息を吐いた。
それは泣くための呼吸ではなく、崩れるのを止めるための呼吸だった。
「……私ね。気づいてしまったの」
「何に」
「エルの魔法が、冷たくなっていくの。術式が精密になって、無駄がなくなって……綺麗になる。綺麗になるほど、感情が減っていく」
アインは、分かっていた。
分かっていたが、聞きたくなかった。
「悲しみを、魔法に混ぜないようにしてるのよ。混ぜたら壊れるって、分かってるから。だから全部を削って、削って……残ったのが、ただの『処理』」
処理。
その言葉は、戦場に似合いすぎる。
そして、息子に似合いすぎる。
ミレイイユは、視線を落とした。
「でもね。感情を削ってるんじゃないの。——最初から、執着が薄いの」
アインが顔を上げる。
「……執着」
「生きることへの、執着」
ミレイユの声は震えていない。
震えないように固めた声だ。
「リィナを失ったから、そうなったんじゃない。リィナを失ったことで、それが……表に出ただけ」
アインの指が、無意識に剣の柄を探した。
机の上に剣はない。
だから、掴めない。
「私たちの前では、笑う。頷く。謝る。ちゃんとする。……でも、それは『生きたい』からじゃないの。『壊したくない』から」
「…壊したくない?」
「家を。立場を。周囲を。私たちを。——自分じゃないものを」
言葉が胸に刺さる。
それは、母親としての告白であり、裁判の宣告にも似ていた。
アインは、低く呟いた。
「……あの夜だ」
ミレイユが微かに頷く。
リィナの葬儀の夜。
壊れる許可を与えた。
壊れていい場所を用意した。
あれで救えると思った。
あれで、終わらせられると思った。
しかし。
息子は別の場所で壊れ始めた。
戦場という、最も分かりやすい消耗の場所で。
誰も止めない場所で。
「役に立つ」という免罪符がある場所で。
アインは、ふいに机を叩きたくなった。
怒りの方向が分からない。
魔族か。戦争か。世界か。自分か。
結局、どれも同じだった。
「……呼ぼう」
アインは立ち上がった。
椅子が僅かに鳴る。その音が、この屋敷では大きく感じた。
「今日、呼ぶ。叱る。……怒る」
ミレイユが目を見開く。
「怒るの?」
「怒らないと……俺たちは『親』じゃなくなる」
言いながら、アインは自分の声が掠れているのに気づいた。
剣聖の声ではない。父の声だ。
「止めるためじゃない。……あいつに、『生きろ』と言うためだ」
ミレイユの唇が震えた。
震えが出てしまった。隠しきれなかった。
「……言えるの?」
「言わなきゃ、終わる」
終わる。
戦争が、ではない。
息子が、だ。
♢
呼び出しは、翌朝だった。
エルディオが入ってきたとき、部屋の空気が一段、静かになった。
礼儀正しい足取り。無駄のない所作。外套はきちんと畳まれている。
顔色は悪くない。怪我も見えない。
だからこそ、ミレイユは苦しくなった。
苦しさを悟られないように、姿勢を正す。
アインは、先に口を開いた。
「……昨日の件だ」
エルディオは頷いた。
反抗の気配はない。謝罪の気配もない。
ただ、事実を聞くための頷きだ。
「お前の指揮は正しかった。村の被害は抑えられた。……だが」
アインは言葉を止めた。
“だが”の後に続く言葉が、剣聖の言葉ではないからだ。
父の言葉になるからだ。
ミレイユが口を挟む。
「あなた、昨夜……帰ってきたとき、どんな顔をしていたか覚えてる?」
エルディオは、少しだけ目を細めた。
「……覚えてない」
それが嘘ではないことが分かる。
本当に覚えていない。戦場の後の顔を、自分の中に記録していない。
記録する価値がない、とでもいうように。
ミレイユは、胸の奥の何かが軋むのを感じた。
声を強くする。
「あなたはね、笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。……そこにいたのは『終わらせた人』じゃない。『戻ってきた人』でもない。——ただの空っぽよ」
エルディオは、視線を落とさなかった。
落とさないから強い、のではない。
落とす理由がないだけだ。
アインが、机を叩いた。
手のひらが痺れるほどの強さで。
剣聖の冷静を、父が押し潰した。
「ふざけるな!!!!!」
エルディオの眉が微かに動く。
驚きではない。反射だ。
「お前は、戦場を『居場所』にしている!!!」
エルディオが口を開く。
「居場所じゃない」
「じゃあ何だ!!」
アインの声が荒れる。
「正義か?使命か?守るためか?!!!」
エルディオは、淡々と答える。
「被害が減るから。僕が出た方が早い」
正しい。
正しいが、正しさは人を救わない。
ミレイユが、堪え切れずに立ち上がった。
椅子が鳴る。彼女の声も揺れる。
「その正しさのせいで、あなたはどんどん——」
言葉が詰まる。
“死んでいく”と言いかけた。
生きている息子に向かって。
ミレイユは、息を吸い直した。
「……あなたは、戻れなくなる」
エルディオの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
揺れたのに、戻る。戻してしまう。
いつもの「いい子」の顔に。
「戻らなくていい」
その言葉が、母の胸を殴った。
アインが、さらに踏み込む。
「何を言ってる!!」
「リィナはいない」
エルディオの声は冷えている。
冷えは怒りではない。現実の温度だ。
「僕の世界から消えた。……だから、戻る場所がない」
ミレイユの喉が鳴る。
泣きそうになる。泣けば崩れる。崩れたら、息子は離れる。
それは反抗でも拒絶でもなかった。
ただ、戻らなかっただけだ。
ミレイユは、その事実に、遅れて気づく。
——戻る場所が、なかったのだ。
屋敷はある。
家族もいる。
声をかければ、返事は返ってくる。
それでも、エルディオが立ち止まれる場所が、どこにもなかった。
自分たちは「待っている側」だと思っていた。
帰ってくるのを、信じている側だと思っていた。
けれど、それは違う。
帰るための場所になれていなかった。
壊れてもいい場所を与えたつもりで、
立ち止まってもいい居場所を、用意していなかった。
強い子だと思い続けた。
手のかからない子だと思い続けた。
だから、気づかないままでいられた。
——この家は、
もう、あの子の「戻る場所」ではない。
その事実が、
剣よりも、魔法よりも、
深く、静かに、ミレイユの胸を抉った。
アインは、拳を握った。
「だから………戦場か」
「そうだね」
エルディオは言い切った。
そして、少しだけ間を置いて、続けた。
「考えなくていい時間が、そこにある」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍った。
ミレイユは、唇を噛んだ。血の味がした。
アインが叫ぶ。
「考えろ! 逃げるな!」
剣聖の叫びではない。父の叫びだ。
エルディオは、しかし、怒らない。泣かない。崩れない。
「逃げてない」
淡々とした声。
「逃げてるなら、ここにいない」
——その理屈が、余計に残酷だった。
確かに、息子は逃げていない。
逃げないまま、壊れていく。
それがいちばん止められない。
エルディオは、静かに宣言した。
「これからも、僕が最前線で戦います」
ミレイユが声を上げる。
「やめなさい!」
反射だった。
母の本能だった。
エルディオは初めて、少しだけ眉を寄せた。
困った顔。怒った顔ではない。
母が取り乱したことに困っている顔。
「……被害が減る」
「あなたが減るのよ!」
ミレイユの声が割れる。
言ってしまった。
涙が滲む。滲んだまま止まる。
アインが、低く言った。
「エルディオ。お前は——」
続けられない。
「生きろ」と言いたい。
だが、生きろと言えるほど、自分は息子を見ていない。
ミレイユが、震える声で言う。
「私たちに見せない顔があるでしょう。あなたは、いつも……平気なふりをする。ちゃんとしたふりをする。でも」
ミレイユは、言葉を探す。
探すほど、真実が痛い。
「……最初から、終わってるみたいな目をする時がある」
エルディオの瞳が、ほんの僅かに暗くなる。
暗くなるだけで、形は崩れない。
「それが、僕だから」
ミレイユはその言葉に、反論できなかった。
反論したいのに、できなかった。
息子の本質を、今さら否定できない。
アインは、椅子に深く座り直した。
敗北の姿勢だった。剣聖の負けではない。父の負けだ。
「……俺には、もうお前を止められるような言葉は…ない」
許可ではない。
諦めだ。
そして、罪の受け入れだ。
エルディオは頷いた。
礼も言わない。感謝もしない。
ただ、決まった手順を終わらせるように、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ミレイユは、その音を聞いた瞬間、肩が小さく落ちた。
「……私たちが」
声にならない。
アインが、低く続ける。
「……追い詰めた」
部屋の中には、報告書の束だけが残った。
戦況は安定。被害は減少。
その紙の上に、親の後悔が落ちていく。
♢
エルディオが最前線に出る三年は、そこからさらに圧縮されていった。
戦場に出る回数が増える。
戻ってくる回数も増える。
それでも、屋敷に残る時間は短くなる。
剣の柄がすり減る。
新しい剣が支給される。
手に馴染むのが早くなる。
馴染むほどに、手が“戻る”場所を失っていく。
戦場で、エルディオは剣と魔法を同時に使った。
派手な一撃ではない。
必要なだけ、正確に、無駄なく。
前に出る。
敵の視線を集める。
避けるより先に、踏み込む。
刃が通る角度を選ぶ。
魔法は、補助として使う。光で目を奪い、風で足を崩し、氷で動きを鈍らせる。
大規模魔法で「終わらせる」より、切り刻むように戦場を掃除していく。
——無双、という言葉は違う。
彼は勝ちたいわけではない。
誇りたいわけでもない。
ただ、考えないために最適な動きを積み重ねているだけだ。
敵が増えれば、動きは速くなる。
味方が倒れれば、指示は短くなる。
悲鳴が増えれば、表情は薄くなる。
血を拭うのが早くなる。
死に反応が薄くなる。
戻ってきても、何も語らない。
そして、屋敷では——
メイリスが、いつもそこにいた。
外套を受け取る。
血のついた部分を見る。
何も言わずに処理する。
水を汲む。薬草を用意する。衣を整える。
聞かない。
どこで戦ったのか。
誰を救ったのか。
誰が死んだのか。
何を見たのか。
何も聞かない。
それは責めないという選択であり、同時に踏み込まないという決断だった。
優しさが、距離になる。
距離が、救いの形をしてしまう。
夜、身体は疲れているはずなのに眠れない。
目を閉じれば戦場が浮かぶ。
剣の重さ。魔法の反動。倒れる影。
それでも、それは楽だった。
リィナのいない世界を考えるより、ずっと、ずっと楽だった。
考えなくていい。
感じなくていい。
剣を握っている間だけ、空っぽでいられる。
空っぽでいることが、生きている理由になってしまった。
それが日常になった。
そして、その日常が——取り返しのつかない形になる。
取り返しがつかないのは、死ぬことではない。
取り返しがつかないのは、壊れることでもない。
——壊れたまま、戻れない形で“生き続けてしまう”ことだ。
♢
二十歳になった夜、エルディオはひとりでいた。
屋敷の廊下は暗い。
灯りはあるのに、温かさがない。
どこかで時計が鳴る。
その音は、生きている時間を数えているようで、嫌だった。
部屋の中で、彼は椅子に座っていた。
剣は壁に立てかけられている。
手袋は机の上に置かれている。
血の匂いは落ちているはずなのに、まだ鼻の奥に残っていた。
——静かだ。
静かだから、考えが戻ってきてしまう。
だから、彼は口を開いた。
誰に聞かせるつもりでもない声で。
「……いつまで、この戦争は続くんだろう」
言葉は、空気に吸い込まれる。
返事がない。
返事がないことに、慣れている。
「沢山……たくさん殺した」
声は震えていない。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、事実を置いただけだ。
——それでも、胸の奥のどこかが痛んだ。
痛みは感情にならない。
感情にすると、崩れるからだ。
彼は、息を吸った。
吸ったはずなのに、肺が軽くならない。
「……終わったら、どうするんだろう」
その言葉が、誰にも届かない形で落ちる。
終わる。
終わったあと。
戦場がなくなったあと。
そこにあるのは、リィナのいない世界だけだ。
——嫌だ。
嫌だ、という感情は出てこない。
出てこない代わりに、空白が膨らむ。
空白の中で、彼は静かに笑いそうになる。
笑う理由はないのに。
笑ってしまえば楽になる気がしたのに。
その瞬間。
扉の外で、微かな気配が止まった。
メイリスだった。
彼女は、入らなかった。
咳払いもしない。
声もかけない。
ただ、そこに立ってしまった。
聞いてしまった言葉を、聞かなかったことにできないまま。
メイリスの指先が、扉の縁に触れかけて止まる。
触れれば、踏み込んでしまう。
踏み込めば、彼を救うふりをして、自分が壊れる。
だから、触れない。
優しさは、距離になる。
距離は、残酷になる。
メイリスは、静かに踵を返した。
足音を立てないように。
エルディオに気づかれないように。
それでも、自分の胸の奥で何かが崩れる音だけは止められなかった。
——生きているのに、終わっている人間。
その理解が、彼女の中に沈む。
沈んで、二度と浮かばない。
♢
翌朝、エルディオは何事もなかったように外套を羽織った。
顔は整っている。
言葉は少ない。
目は前を向いている。
アインはその背中を見た。
ミレイユも見た。
止められない。
止める言葉を、持っていない。
——強い子だと思っていた。
——大丈夫だと思っていた。
——手のかからない子だと思っていた。
全部、親の都合だった。
メイリスは、玄関の影で頭を下げる。
いつも通りの所作で。
いつも通りの声で。
「……お気をつけて」
エルディオは、頷いただけで歩き出した。
振り返らない。
振り返る理由がない。
戦場へ向かう転移の光が、彼の足元で淡く弾ける。
——考えなくていい場所へ。
それが彼の選んだ、生存の形だった。
世界は続く。
戦争も続く。
悲鳴も続く。
そして、彼も続く。
続いてしまうことが、罰のように。
リィナのいない世界を、感じないために。
感じないまま、生き延びるために。
エルディオは、今日も最前線へ消えた。
戦場は、悲しみを癒してくれない。
ただ、悲しみを「考えなくていい形」に整えてしまうだけだ。
この第35話で描きたかったのは、強さが人を救う場面ではなく、強さが人を壊す“静かな速度”でした。
剣も魔法も才能も、エルディオを守ってはくれない。むしろ彼を前へ押し出し、周囲に「大丈夫だ」と思わせ、本人からも“戻る理由”を奪っていく。
そしてアインとミレイユは、ようやく気づいてしまう。
見てこなかったもの。見ないで済ませたもの。
そのツケが、今、確かな形で目の前に立っていることに。
——追憶編は、ここで終わりです。
次からは「残された人間」ではなく、「残ってしまった時間」そのものが物語になります。
メイリスが、聞いてしまった一言を胸に抱えたまま。
エルディオが、空っぽのまま生き延びるまま。
世界が、何事もなかったように続いていくまま。
もし感じたことがあれば、感想や評価、レビューとして残していただけたら嬉しいです。
それらは私にとって、何よりの支えになります。




