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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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164/167

164.玉座は血を選ばない-1

 

 月光が床に落ちる四角は、揺れない。


 炎みたいに揺れてくれたら、時間は誤魔化せた。揺れは感情の居場所になる。感情が居場所を持てば、逃げ道になる。逃げ道は要らない、と墓前で置いた言葉が、ここでもまだ喉の奥に残っている。


 だから光は揺れないまま、ただ切り取る。


 石の床。古い敷物の端。椅子の脚の影。水差しの輪郭。二人の膝の下に落ちる薄い影。影が薄いのは、灯りが弱いからではない。弱くすることが選ばれているからだ。輪郭を誇張しないために。英雄にも、魔王にも、見せないために。


 エルディオは椅子に座っているのに、背中を預けない。


 預ければ休める。休めば「今日は終わった」と思える。終わったと思えれば、昼を思い出にできる。思い出は綺麗だ。綺麗さは逃げだ。


 逃げたくない。


 息が深くなる。


 深くなるのは涙を抑えるためじゃない。身体が勝手にそうする。昼の熱がまだ喉に残っていて、石の冷えが足裏から上がってくる。その二つが同じ身体の中で並んでいるのが、疲れる。並んでいることを受け止めるだけで、余計な力が抜ける。抜けると、呼吸が勝手に深くなる。


 整えない。


 整えれば儀式になる。儀式は意味を作る。意味ができれば、彼は「理解したふり」に逃げられる。


 逃げない。


 だから深い息のまま、一定にもしない。乱れも整えもせず、ただ身体が取り込む分だけ空気を入れて、吐く。吐いた息の音が、この部屋では少しだけ大きい。静かだからではない。静かを選んでいるからだ。


 ステラも椅子に座っている。


 座っているが、深くはない。膝に置いた手の位置が決まっている。決まっているのは作法ではなく、癖だ。癖は言葉より先に身体が覚える。支配の癖ではない。崩れを拾って整える癖。段取りを壊さない癖。何かを命じるより前に、命じずに済む形を作る癖。


 手は、もう繋いでいない。


 繋いでいないことが、冷たくはならない。


 冷たくならないのは、温かいからでもない。解除が救いでも拒絶でもないからだ。昼の街では接触が必要だった。流れに残さないために。誤解を生まないために。手順としての接触。城の部屋に入って、椅子に座った瞬間、その手順は終わった。


 終わったから、解除する。


 解除は、ただの段取りだ。


 同席は続く。


 同席が続くのに、接触はない。その距離が、この夜の城の距離だ。近すぎれば慰めになる。慰めは言い訳になる。遠すぎれば拒絶になる。拒絶は敵味方を確定させる。確定は簡単で、簡単さは逃げだ。


 そのどれにも寄せない距離。


 寄せないために、彼女は手を膝に置いたまま動かさない。


 月光に当たる指が白い。


 白いのは光のせいだ。けれど光だけでは説明できない白さがある。体温の低さ。血が騒がない皮膚の色。寒さに震える白さではなく、最初から低い温度がそこにある白さ。


 エルディオはその白さを「可哀想」だと思いたくない。


 可哀想は救う側に立つ言葉だ。救う側は安全だ。安全は逃げ道だ。


 逃げない。


 だから彼は、白さを白さとして見るだけにする。


 沈黙が落ちる。


 落ちて、広がる。


 広がるのに、情緒にならない。


 情緒にしないために、部屋は機能のまま置かれている。余計な香りがない。余計な飾りがない。火もない。火がないから、ドラマが始まらない。ドラマが始まらないから、沈黙は泣くための場所にならない。


 沈黙の間に、鳴るものがある。


 城の奥で、水が落ちる音。


 水盤に落ちる水か、樋を伝う水か。遠いが確かな落下。一定ではない。一定にしないことで、水が「生きている」ことを示す。昼の市で水が動いていたのと同じ種類の音が、城の奥でも落ちている。


 遠い見回りの靴音。


 規則的だ。石を踏む音が、一定の間隔で近づいて、遠ざかる。近づいても乱れない。遠ざかっても弱くなりすぎない。歩幅の規則が、手順の規則だ。手順は慰めない。手順は続けるだけだ。


 どこかで紙を束ねる音。


 紙は城の中枢の音だ。昼は鍋が鳴っていた。夜は紙が鳴る。紙が擦れて束になる音は、記録が今日を締めている音だ。締める音が聞こえるのに、何も宣言されない。宣言しないまま締めるのが、この城のやり方だ。


 窓の外、夜の虫の羽音。


 昼の羽音は薄布みたいに張っていた。夜の羽音は低い。低く、短く、途切れがちに鳴る。鳴って、止まる。止まって、また鳴る。途切れる音が、夜の時間を刻む。刻むのに、情緒にはしない。虫は慰めのために鳴かない。ただ生きているから鳴く。


 その音の層の中で、沈黙が続く。


 続く沈黙は、「言葉が出ない」沈黙ではない。


 言葉はある。


 あるからこそ、選んで置かない。


 置けば説明になる。説明は正しさを呼ぶ。正しさは便利だ。便利なものは、人を守る形になってしまう。守られる形は、逃げになる。


 ステラは、その便利さに手が伸びる癖を知っている。


 癖は王座の癖だ。


 命令を出せば、場は整う。


 結論を言えば、話は終わる。


 終われば痛みは片付く。


 片付いた痛みは、責任を軽くする。


 軽くしたくない。


 軽くしたくないから、彼女は命令を抑える。


 抑えているのが、沈黙の質に出る。


 例えば、エルディオが椅子の背に触れそうになる瞬間。


 背に触れたら、彼は少し休むだろう。休めば、この場が「安全」になる。安全になれば、夜は綺麗に終わる。綺麗に終われば、昼の痛みが薄まる。


 薄めたくない。


 ステラは何も言わない。


 ただ、視線の角度だけが変わる。


 見ない。


 けれど、見ている。


 命令の目ではなく、段取りの目で。段取りの目は、慰めない。慰めないまま「ここにいる」を続ける。


 エルディオは背に預けないまま、深い息を吐く。


 吐いて、また吸う。


 吸う量が少しずつ増える。増えるのに整えない。整えないまま、疲労だけが身体に降りてくる。降りてくる疲労が、昼の熱と夜の冷えを同じ場所に置いてしまう。置いてしまうのが、まだ痛い。


 沈黙が長い。


 長いのに、甘くならない。


 甘くならない沈黙は、逃げ場にならない。


 逃げ場にならないから、外の音が刺さる。


 外から一瞬、遠い号令が聞こえる。


 短い。


 言葉は聞き取れない。


 けれど「交代」の響きだと分かる。見張りの交代。夜の手順の確認。続けるための声。


 続けるための声は、戦争の現実でもある。


 交代があるということは、誰かが眠れないということだ。


 誰かが眠れないということは、眠らせないものが外にあるということだ。


 その一瞬の響きが、ステラの胸の奥へ針みたいに刺さる。


 刺さっても、彼女は顔を上げない。


 上げれば「魔王の顔」になる。命令の顔になる。命令は簡単だ。簡単さは逃げだ。


 逃げない。


 だから、彼女の喉だけが動く。


 飲み込む。


 飲み込む動きは、言葉を飲み込む動きと同じだ。言葉を飲み込んで、なお残ってしまうものが、息になる。息が、声になる前のところで止まる。


 止まって、ほんの少しだけ吐かれる。


 吐かれた息が、月光の四角の中で冷える。


 冷えた息のあと、彼女はやっと言葉を落とす。


 落とし方は、誓いじゃない。


 宣言じゃない。


 頼みでもない。


 報告だ。


「……戦争は、嫌い」


 短い。


 言い換えない。


 嫌い、で止める。止めることで綺麗にしない。綺麗にしないから、言葉は慰めにならない。慰めにならない言葉だけが、ここに置ける。


 間が落ちる。


 水が落ちる。


 靴音が一つ遠ざかる。


 紙が束ねられる音が、また一度だけ鳴る。


 虫の羽音が、窓の外で低く途切れる。


 ステラは続けない。


 続ければ理由が並ぶ。理由は説得になる。説得は、赦しを取りに行く形になる。赦しは綺麗だ。綺麗さは、彼女のための逃げ道になってしまう。


 逃げ道はいらない。


 だから、次の言葉も短い。


「好きなはずがない」


 吐き捨てない。


 嘆かない。


 ただ置く。


 置いたあと、視線はまだ上がらない。月光の四角の外側、石の床の暗い部分に落ちたまま。暗い部分は逃げ場じゃない。光を避けているわけでもない。ただ、相手の目に触れないことで、言葉を“交換”にしない。


 交換にしない。


 交換にすれば会話になる。会話になれば慰め合いになる。慰め合いは綺麗で、綺麗さは赦しを呼ぶ。


 呼びたくない。


 だから、ぽつりぽつり。


 落とす。


「魔王に、なりたかったわけじゃない」


 喉で一度、引っかかる。


 引っかかって、少し間が伸びる。


 伸びた間に、彼女の指先が布をつまむ。


 敷物の端。あるいは膝の上の布。つまむのは癖だ。癖は自分を落ち着かせるためのものに見える。けれどそれ以上に、“余計な動きをしないため”の留め具だ。指先が何も掴まなければ、手は命令の形を作ってしまうかもしれない。指が指示の方向へ伸びてしまうかもしれない。


 伸びないために、布をつまむ。


 つまんで、止める。


 止めることが、彼女の抑制だ。


 エルディオは、その抑制を「優しさ」と呼びたくない。


 優しさは綺麗だ。


 綺麗さは逃げだ。


 だから彼は、息を深く吸って、吐く。


 整えないまま。


 ただ聞く。


 聞くというより、言葉が石の上に落ちる音を受け取る。


 ステラの肩が、小さく沈む。


 泣かない。


 泣けば感傷になる。感傷は情緒で、情緒は逃げ場所になる。逃げ場所ができれば、言葉は軽くなる。


 軽くしたくない。


 だから沈むのは肩だけだ。


 次の言葉が、少し遅れて落ちる。


「でも……止まらなかった」


 止まらなかった、と言った瞬間、理由が喉まで上がってくる。


 誰が。


 いつ。


 なぜ。


 どんな順で。


 どこで引き返せた。


 どこで遅れた。


 並べれば説明になる。


 説明になれば、正しさが混じる。


 正しさは、赦しの形を要求してしまう。


 要求はしたくない。


 だから、言い訳を先に切る。


 切り方も短い。


「止めるには、遅すぎた、って言い訳をするのも嫌」


 嫌、で終える。


 終えたあと、彼女は謝らない。


 謝れば綺麗になる。綺麗な謝罪は、赦しを取りに行く。赦しを取りに行けば、彼女は自分を軽くしてしまう。


 軽くしない。


 だから謝らないまま、ただ事実を置く。


 置かれた事実の重さが、部屋の空気を少しだけ沈める。


 沈めるのに、息苦しくはならない。


 息苦しくならないのは、手順があるからだ。外で見回りが交代する。水が落ちる。紙が束ねられる。虫が鳴る。城が夜を回している。夜を回しているから、言葉も回収されない。回収されないまま、石の上に置かれる。


 エルディオは、返事をしない。


 返事をすれば会話になる。会話になれば慰め合いになる。慰め合いは綺麗だ。綺麗さは逃げだ。


 逃げない。


 だから彼は、ただ頷きもしないで、視線を月光の四角へ落とす。


 月光の中にある彼女の手は白い。


 白い手が布をつまんでいる。


 つまんでいることで、命令を抑えている。


 抑えていることで、泣き言を避けている。


 避けていることで、赦しを要求しない。


 要求しないまま、報告だけが落ちている。


 その落ち方が、昼の「ただ、生きているだけだ」と同じ形をしている。


 誓いではない。


 結論ではない。


 ただ、置かれた現実。


 現実は綺麗にならない。


 綺麗にならないから、逃げ道にならない。


 沈黙がまた戻ってくる。


 戻ってきて、二人の間に広がる。


 広がる沈黙は、さっきまでと同じではない。


 言葉が落ちた分だけ、沈黙の重さが変わる。重くなるのに、感傷へ落ちない。落とさないように、彼女は視線を上げない。泣かない。謝らない。言い換えない。


 エルディオも、救わない。


 救う言葉を持ち出さない。


 持ち出さないまま、深い呼吸を続ける。


 整えない。


 整えない呼吸の中で、城の奥の水が落ち続ける。


 規則的な靴音が、遠ざかったり近づいたりし続ける。


 紙が束ねられる音が、時折だけ沈むように鳴る。


 夜の虫が、低い羽音を途切れさせる。


 その遠景の生活音の層が、二人を「ドラマ」にしない。


 ドラマにしないことでしか、この夜は次へ繋がれない。


 ステラの喉が、もう一度だけ動く。


 今度は言葉にならない。


 言葉にしない選択のまま、彼女は息だけを吐く。


 吐いた息の冷たさが、月光の四角の外へ消えていく。


 消えていくのに、同席は続く。


 接触のない同席が続く。


 続く同席の中で、次に落ちる言葉が、まだ形にならないまま、石の夜の上で静かに準備されていた。


 ♢


 ステラの言葉が落ちたあと、部屋はそれを受け取っても何も変えない。


 月光の四角は揺れないまま床に切り取られ、水の落ちる音は一定でもなく続き、遠い靴音は規則のまま行き来し、紙が束ねられる乾いた擦れが、ときどき石の奥から届く。夜の虫の羽音だけが、途切れ途切れに低く鳴って、鳴っては止む。


 どれも、慰めにならない。


 慰めにならないから、言葉は綺麗にならずに済む。


 エルディオは返事をしない。


 しないのは拒絶ではない。拒絶は刃だ。刃は距離を作る。距離を作れば、彼は安全な場所へ退ける。安全は逃げ道だ。


 逃げない。


 だから、返事を「選ばない」。


 選ばないことで、肯定も裁きも避ける。肯定すれば理解者になる。理解者は座り心地がいい。座り心地の良さは危険だ。裁けば楽になる。楽は逃げだ。


 逃げたくない。


 彼の中に、言葉が湧く。


 ――そうか。


 湧くが、飲み込む。


「そうか」は綺麗だ。綺麗な相槌は、相手の痛みを整えてしまう。整えれば、話は回収される。回収は救いの形になってしまう。救いは逃げ道になる。


 逃げ道はいらない。


 だから彼は、口を閉じたまま、息だけを落とす。


 落とした息が、石の冷えに触れてすぐ薄くなる。薄くなるのに、消えない。消えないのは、彼がここにいるからだ。ここにいるという事実だけが、返事の代わりになる。


 沈黙の中で、彼は手を動かす。


 急がない。


 急がないのは、格好をつけるためじゃない。急げば「正しい手順」になる。正しい手順は儀式だ。儀式は意味を作る。意味は逃げ道だ。


 逃げない。


 だから動きは、疲れた身体の動きとしてだけ起きる。


 水差しへ手を伸ばす。


 水差しは陶器か、厚いガラスか、夜の薄い光を吸い込む色をしている。取っ手に指が掛かる。指が掛かった瞬間、指先が冷える。冷えるのは水差しの素材のせいだ。けれど素材だけではない。昼からずっと身体の内側に残っていた熱が、ここでは逃げ場を失っているからだ。


 指が冷えたことで、彼は自分の喉の乾きを思い出す。


 墓地で感じた乾きとは違う。


 墓地の乾きは、言葉を出さないための乾きだった。出せば祈りになってしまうから、喉を乾かしたまま置く乾き。刃みたいな乾き。


 今の乾きは、別の種類だ。


 香辛料の熱がまだ奥に残っている。塩が舌の表面に薄い輪郭を残している。油の膜が、飲み込んだはずなのに喉の奥に貼りついている。その「生きている熱」が、冷えた石の空気に触れて、妙な形で乾きを呼ぶ。


 乾くのに、砂みたいには乾かない。


 乾くのに、唇は裂けない。


 乾きが「痛み」ではなく「欲求」に近い。水が欲しい、という単純な体の要求に近い。単純さが、嫌だった。単純さは生きている証で、証は現実で、現実は逃げ道を塞ぐ。


 塞がれるのが、まだ痛い。


 エルディオは水差しを持ち上げない。


 持ち上げないまま、指先で取っ手を確かめる。確かめるだけ。確かめることで、「ここに物がある」「ここに夜がある」「ここに手順がある」を受け取る。


 受け取ったまま、飲まない。


 飲まないのは頑固さではない。飲めば「落ち着く」。落ち着けば、今の言葉が整ってしまう。整うと、彼はどこか高い位置から物事を見た気になってしまう。


 見た気になるのは危険だ。


 危険だから、飲まない。


 けれど、喉が一度だけ動く。


 動いて、唾を飲む。


 唾は少ない。少ないのに、乾きは少しだけ形を変える。変わった乾きが胸の奥へ降りて、そこで小さく残る。残り方が、返事の代わりになる。


 肯定もしない。


 裁きもしない。


 でも拒絶もしない。


 ただ、聞いたことだけが残る。


 残るものは、重い。


 重いのに、重さを言葉にしない。言葉にすれば、重さに名前が付く。名前は扱える。扱えるものは便利だ。便利なものは逃げ道だ。


 逃げない。


 だから彼は、水差しから手を離す。


 離して、膝の上に戻す。


 戻した指が、月光の四角に少しだけ入る。入った部分の皮膚が白く見える。白い指先は、ステラの白い手ほど冷たく見えない。体温がまだそこにある。あるからこそ、彼はその体温を「使いたく」なる。慰めに使いたくなる。正しさに使いたくなる。


 使わない。


 使わない、という選択だけが、彼の「見届ける」の続きになる。


 彼は口を開かない。


 代わりに、息をひとつ吐く。


 吐いた息が、さっきより少しだけ長い。


 長いのに、ため息にはしない。ため息は情緒だ。情緒は逃げだ。


 逃げないために、吐いて、終わる。


 それだけで、部屋は彼が“聞いた”ことを受け取る。


 そして、沈黙の形が一枚だけ変わる。


 変えるのは彼ではない。


 ステラの側だ。


 彼女は、返事を待たない。


 待てば求めることになる。求めれば交換になる。交換になれば赦しが欲しくなる。赦しは綺麗で、綺麗さは危険だ。


 危険だから、求めない。


 その代わりに、彼女の中で「どこか」が、ほんの少しだけ緩む。


 緩むのは涙腺ではない。


 喉でもない。


 記憶だ。


 記憶が、今の音に引っ掛かる。


 城の奥で落ちる水の音。


 ぽとり、ではなく、石に触れて短く弾ける落下。


 その落下が、同じだった。


 昔の夜と、同じ。


 同じだと気づいた瞬間、ステラの指先が布をつまむ力を少しだけ変える。強くするのではなく、逆。ほどく。ほどくと、布がわずかにずれる。ずれた布の端が、月光の四角に触れる。触れた端が白く浮く。


 白い端が、窓の形を思い出させる。


 月光の四角。


 切り取られた光の輪郭。


 この部屋の窓は高い。外が見えすぎない高さ。安全のための高さ。その高さが、昔の“見えなさ”と重なる。見えなかった夜。見えないのに、音だけが届いた夜。水だけが落ち続けた夜。


 遠い靴音が、また規則的に近づいて、遠ざかる。


 交代の規則。


 合図の規則。


 規則は安心ではない。


 規則は、何度も繰り返したことの証だ。


 繰り返したということは、同じ種類の夜が何度も来たということだ。


 その「合図」の響きが、ステラの胸の奥をまた刺す。


 刺さって、今度は逃げられない。


 逃げないために沈黙を選んでいたのに、沈黙の中で、記憶が勝手に漏れる。


 漏れるから始まる。


 語りたいから語るのではない。


 漏れたものは、止められない。


 止めれば綺麗になる。綺麗に止めれば、自分を守れる。守れるのは逃げ道だ。


 逃げない。


 だから彼女は、視線を上げないまま、最初の一枚だけを差し出す。


 差し出し方は、説明ではない。


 物語の導入でもない。


 結論でもない。


 落下だ。


 落ちて、石に触れて、すぐ沈むような一文。


「……最初に、壊れたのは、王座じゃない」


 言った瞬間、部屋の空気は変わらない。


 水は落ちる。


 靴音は遠ざかる。


 紙は束ねられる。


 虫は低く鳴って止む。


 変わらないことが、正しい。


 変わらないからこそ、その一文は綺麗にならずに残る。


 エルディオは頷かない。


 否定もしない。


 肯定もしない。


 ただ、聞く。


 聞いたという事実だけが、椅子と石と月光の四角の中に残る。


 残った事実が、次の場面の入口になる。


 月光の四角が、今の床ではなく――別の床の四角に重なり始める。


 水の落ちる音が、今の城ではなく――別の場所の水音へ滑り始める。


 遠い合図が、今夜の交代ではなく――あの夜の「合図」へ重なり始める。


 ステラの喉が、もう一度だけ動く。


 次に落ちるのは、今の夜の言葉ではない。


 過去の夜の最初の一枚だ。


 その一枚が落ちる直前の沈黙が、月光の四角の中で、静かに息を潜めた。


昼の喧騒から夜の静けさへ――「戦時」だという影は消えないまま、それでも手順が回り続ける街と城を描きました。

ステラの沈黙は情緒ではなく選択で、エルディオの沈黙は肯定でも裁きでもない「聞く」という姿勢として置いています。


月光の四角が揺れないまま残るのは、二人が綺麗な結論や赦しに逃げないため。

そして、落ちた一文――「最初に、壊れたのは、王座じゃない」が、この先の回想の入口になります。

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