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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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162/170

162.守るべき生-3

 

 匙を置いたあとも、喉の奥に熱が残っていた。


 香辛料の熱は鼻へ抜けず、胸へ落ちる。胸へ落ちた熱が、墓地の冷えと繋がらない。繋がらないまま、同じ身体の中に並んでいる。冷えと熱が並ぶだけで、世界が一つだと分かってしまうのが嫌だった。


 嫌なのに、目の前は回る。


 鍋の縁が鳴る。木匙が器の内側を擦る音。列が一歩進む音。器を受け取る手の音。子どもが「熱い」と言って笑い、笑った次の瞬間に口を尖らせ、すぐまた笑う。笑いは連続じゃない。切れる。切れて繋がる。繋がるのが、生活の笑いだ。


 ステラは食べない。


 食べないまま、手だけがそこにある。冷たい掌。慰めの温度を持たない掌。それが、エルディオの手を「戻れない場所」から引っ張り出さない。引っ張り出さない代わりに、ここへ縫い付けてしまう。


 縫い付けられたまま、彼は視線を動かす。


 露店の布が揺れて、影が波を打つ。影の下で、角持ちが粉袋を抱え直す。角の根元の布がずれ、指が慣れた動きで結び目を直す。結び目を直しても、顔を上げない。上げないのは怯えじゃない。段取りが止まるからだ。段取りを止めない顔。


 水場では、鱗肌が桶を運ぶ。水滴が弾け、石に落ちて小さく鳴る。その音の隣で、影の薄い族が日陰に座り、背中を壁に預ける。誰かが天幕の角度を少しだけ変えて、日陰を伸ばす。命令じゃない。恩着せでもない。放っておけば午後が潰れるから、手が勝手に動いた種類の配慮だ。


 門のほうへ視線が滑る。


 嗅覚獣が座っている。鼻がゆっくり動き、風の匂いを読む。煙の帯はまだ空の端にある。包帯の白が日向で乾いている。伝令が走り抜けた余韻が、石畳の硬さに残っている。


 戦時の影は、消えていない。


 消えていないのに――市は畳まれない。


 畳まれないことが、平和の証明ではない。慣れの証明でもない。慣れたから続けているんじゃない。続けないと終わるから続けている。それだけが、恐ろしいほど正確に回っている。


 エルディオの中で、ずっと準備されていたものが、行き場を失う。


 恐怖だ。


 怒りだ。


 正しさだ。


「敵」という輪郭だ。


 輪郭があると、立つ位置が決まる。立つ位置が決まれば、迷わずに済む。迷わずに済めば、傷は動かなくて済む。傷が動かなければ、歩ける。歩けるのは楽だ。


 楽は、逃げだ。


 逃げたくない、と墓前で置いた。


 置いてしまったから、ここで楽を選べない。


 だから彼は、目の前の音を音として受け取るしかない。


 木槌の乾いた打音。ふいごの息。鍋の煮える音。布の擦れ。水の跳ね。鈴の鳴る規則。短い叱り。短い笑い。泣き声が一度上がって、すぐ別の手が背中を撫で、泣き声が細くなり、鼻をすすって、それでも泣きながら歩く。歩きながら泣くのは、生活だ。泣き止むまで待てないから、泣いたまま進む。


 戦時中でも、泣いたまま進む。


 その進み方が、彼の中の「敵」を削っていく。


 削られるたび、痛い。


 痛いのに、誰も気づかない。


 気づかないのが、正しい。


 気づかれてしまえば、ここは彼の物語のための舞台になる。舞台になった瞬間、彼はまた“救われる側”に戻れる。戻れるのは楽だ。楽は逃げだ。


 逃げたくない。


 だから、気づかれない痛みを抱えたまま、彼はもう一度だけ市を見渡す。


 視線が引っかかる。


 子どもが走っている。さっき迷子になりかけた子かもしれない。違う子かもしれない。違いは分からない。分からないことが、ここでは普通だ。普通の中で、子どもは走る。追いかける声が飛ぶ。追いかける声は怒号じゃない。「こら」と言いながら、笑いが混じる。笑いが混じるから、足が止まらない。


 止まらない足が、昼を回す。


 回っている昼の中で、エルディオの喉が、もう一度だけ動く。


 言葉にしたいわけじゃない。


 言葉にした瞬間、結論になってしまう。結論は説教の形を持つ。説教になれば、彼はどこか高い場所へ立つ。高い場所は安全だ。安全は逃げ道だ。


 逃げ道はいらない。


 だから、言葉は落とさないまま――まず、呼吸の高さだけが変わる。


 息を整えるのではない。


 整えないまま、空気が胸に入る量が少し増える。


 増えた量の分だけ、見えてしまう。


 見えてしまって、口の中で、短い音が生まれる。


「……笑ってる」


 自分の声が聞こえるのが嫌だった。


 嫌なのに、声は出てしまった。出てしまうほど、目の前が“そうだった”からだ。笑っている。笑いの質は軽い。軽いのに、軽薄じゃない。今日が始まって終わることを当然としている笑い。明日が来る前提の笑い。前提が崩れるかもしれないのに、それでも回している笑い。


 彼は、その笑いを「敵の笑い」と呼べない。


 呼べないのに、呼ぶための言葉がまだ胸の奥に残っている。残っている言葉が、引き金を探して暴れる。


 ――怖いはずだった。


 心の中でそう思った瞬間、思ったこと自体が浅いと分かる。怖いはずだった、というのは準備の言葉だ。準備の言葉は、現実より先に立場を作る。立場を作って、痛みから距離を取る。


 距離を取るな、と墓前で置いた。


 置いた以上、距離を取れない。


 取れないまま、彼はもう一度だけ、包帯の白を見る。


 白は乾き、風に揺れ、揺れた端が影を落とす。影の落ち方が、洗濯物のそれと同じだ。違うのは用途だけだ。用途の違いが、ここが戦時だと示す。示すのに、白は日向で乾く。乾くから使える。使えるから続く。


 続くための白。


 その白の下で、子どもがくしゃみをして、笑われる。笑われて、むっとした顔をして、でもすぐに笑う。笑うとき、牙が見える。牙が見えても怖くない。怖くないのは、牙が武器じゃないからだ。ここでは、牙はただの身体の一部で、笑いの形だ。


 エルディオは、器を持つ指に力が入っているのに気づく。


 力を抜こうとしない。


 抜けば、また逃げる。


 逃げないまま、胸の奥で、もう一つの断片が形になる。


 敵のはずの声が、生活の声だった。


 そう言ってしまえば簡単だ。


 簡単にしたくない。


 簡単にしたくないのに、簡単さが、現実から生まれてしまう。彼が作った結論じゃない。目の前が勝手にそう見せてくる。そう見せてくる現実が、いちばん逃げ道を塞ぐ。


 塞がれたまま、彼は口を開きかける。


 開きかけて、閉じる。


 説教にしたくない。


 正義にしたくない。


 理解にしたくない。


 ただ――見届ける、と置いた続きとして、言葉を最小にしたい。


 最小にするために、喉がもう一度だけ動く。


 唾を飲む。


 熱が喉の奥に残っているから、今度は墓地ほど乾かない。乾かないのに、胸の奥は乾いている。乾きの種類が違う。違う乾きが、同じ世界の中にある。


 彼は、視線を戻す。


 ステラの横顔を見るでもない。


 誰かの顔を見るでもない。


 ただ、回っている昼を見る。


 回っているだけの昼。


 回っているから、ここにある昼。


 その中で、彼は最後に、最も危険な言葉を胸の底から拾い上げる。


 危険なのは、綺麗になるからだ。


 綺麗になれば、彼は救われた気になってしまう。


 救われた気になってしまえば、墓前で置いた「ちゃんと」が薄まる。


 薄めたくない。


 だから彼は、その言葉を“宣言”じゃなく、落下として落とす。


 落ちて、石畳の熱に触れて、すぐ沈むように。


「ただ、生きているだけだ」


 言った瞬間、世界は変わらない。


 露店は畳まれない。


 鍋は煮える。


 包帯は揺れる。


 遠い煙は薄いまま空にある。


 子どもは笑い、叱られ、また走る。


 変わらないことが、正しい。


 言葉が世界を救わないことを、ここは知っている。


 救わないから、言葉は綺麗にならずに済む。


 綺麗にならないまま、エルディオの胸の奥に沈む。


 沈んだ言葉は、慰めにならない。


 慰めにならないからこそ、次の一歩の重さになる。


 彼は、まだ逃げない。


 手を離さない冷たさの隣で、ただ、生きている昼を――見届ける側の目で受け取っていた。


 ♢


「ただ、生きているだけだ」


 落とした言葉は、石畳の熱に触れて、そのまま沈んだ。


 沈んでも、昼は止まらない。鍋は煮え、鈴は規則正しく鳴り、露店の布は揺れ、香辛料の匂いが汗と混ざって肌に貼りつく。子どもは走って笑い、叱られて頬を膨らませ、すぐにまた笑う。包帯の白が日向で乾き、遠い煙が空の端に薄い帯を引いている。


 変わらないことが、正しい。


 変わらないまま――しかし、どこかの層が一枚だけ、ずれる。


 最初にそれを拾うのは耳だった。


 市の音の重なりの中に、ひとつだけ、鳴り方の違う音が混ざる。


 鈴ではない。鍛冶の打音でもない。子どもの声でもない。


 乾いた木札が、石に当たる音。


 か、と短く鳴って、すぐ次の足音に飲まれそうになる。飲まれそうになるのに、飲まれない。意図がある音は、意外と沈まない。


 ステラの指先が、その瞬間だけ僅かに固くなる。


 固くなるのは、怒りでも恐怖でもない。


 “確認”の硬さだ。


 確認は言葉を必要としない。必要としないまま、身体だけが先に動く。動くのに、動き方が派手じゃない。派手にすれば支配になる。支配になれば、彼女は戻れる。戻れるのが怖いから、派手にしない。


 視線が、門のほうへ向く。


 門番の隣で、嗅覚獣が立ち上がっている。立ち上がるのに吠えない。吠えないまま、耳の角度だけが変わる。風を読む角度。匂いの層を剥ぐ角度。香辛料と穀物と獣脂と石鹸――その厚い生活の層の中から、“異物”を抜き取るための角度。


 門番が、指先で獣の首元を一度だけ叩く。


 合図。


 獣が鼻を鳴らし、門の外へ顔を向ける。


 その動きに、慌てはない。


 慌てがないことが、戦時の怖さを逆に濃くする。慌てないために、手順がある。手順があるということは、何度も同じ種類の影が来ているということだ。


 市は畳まれない。


 畳まれないまま、しかし流れの端が整えられていく。


 露店の店主が、天幕の紐を締め直す。風が強くなる前の締め方じゃない。通路の幅を確保する締め方だ。角持ちが荷を抱え直して、露店の奥へ半歩だけ寄る。寄るのは逃げではない。通路を空ける段取りだ。翼持ちは屋根から降りる代わりに、梁の影へ移る。影の薄い族は日陰の深いほうへ滑り、座っていた石が空く。空いた石に、水桶が置かれる。誰も号令を出していない。


 誰も号令を出していないのに、市の端が“通れる形”へ変わる。


 その変わり方が、生活の強度だ。


 叫びはない。


 泣き崩れもない。


 ただ、整える手が増える。


 増えた手の中心に、ステラがいる。


 彼女は中心に立たない。


 中心に立つのは、王座の癖だ。


 代わりに彼女は、中心から半歩ずれた場所に立つ。立つことで、角持ちの導線が見える位置。水場の循環が途切れない位置。子どもが走り込んで来ても受け止められる位置。魔物の荷車が通るなら、通れる幅が確保できる位置。


 位置だけで、流れを守る。


 守る、という言葉にしないために、ただ立つ。


 その肩の角度が変わっただけで、エルディオは分かってしまう。


 これは“観光”の顔じゃない。


 ここにある生を見せるための時間が終わりかけている。終わりかけているというより――見せたことが、次の現場へ繋がってしまう。


 ステラの指が、ほんの僅かに彼の指へ重くなる。


 引っ張らない。


 だが離れない。


 “ここに置いたまま、次へ持っていく”ための重さ。


 エルディオは、その重さの意味を考えない。


 考えれば、説明になる。


 説明になれば、立場が生まれる。


 立場は楽だ。


 楽は逃げだ。


 逃げないと決めた。


 だから、目だけで受け取る。


 門の外、遠景の空の端に、煙がもう一本増えている。増え方がゆっくりだ。ゆっくりなのに、確実だ。火は近づいていないかもしれない。近づいていないのに、火はそこにある。火があるという情報だけが、昼の中へ淡く刺さる。


 刺さっても、鍋は煮えている。


 刺さっても、包帯は乾いている。


 刺さっても、子どもは笑っている。


 笑っているのに、守りの手順が動いている。


 それが、この国の“守り”だ。


 ステラが守ろうとしているのは、旗じゃない。王座じゃない。勝利の物語じゃない。いまも回っているこの稼働だ。水が動き、粉が渡り、包帯が乾き、火が燃え、笑いが切れて繋がる――その続き。


 続きのために、彼女は“現場”へ向かわなければならない。


 言葉にしないまま、そう決まっている。


 決まっていることが、エルディオの胸の奥を小さく叩く。


「見届ける」の具体が、いま目の前で形を持ってしまう。


 見届けるとは、ただ見ることじゃない。


 ただ、見続けて、次に運ぶことだ。


 見た昼を、次の場所へ持っていく。持っていくことでしか、昼は守れない。守れない、という結論も口にしない。口にすれば説教になる。説教は綺麗だ。綺麗さは逃げだ。


 逃げない。


 だから彼は、ステラの手の冷たさにだけ答える。


 握り返さない。


 縋らない。


 ただ、離さない。


 離さないまま、一歩だけ足を動かす。動かした先の石畳が、まだ熱い。熱い石が、次の場所が現実であることを先に告げる。


 そのとき、ステラが初めて、声にならない息を吐く。


 息だけ。


 言葉はない。


 息が落ちた方向を追うと、彼女の視線が“塔”ではなく、“人”の流れの先を見ているのが分かる。見張り塔は当たり前の設備だ。今必要なのは塔ではない。流れが詰まる場所。水が止まりかける場所。包帯が足りなくなる場所。子どもが走り込む場所。魔物が怯える場所。


 ――守りの現場。


 そこへ、彼女の手は勝手に向かう。


 向かうというより、もう向かってしまっている。


 エルディオは、その背中に言葉を投げない。


「行こう」とも言わない。


 言えば旅になる。旅になれば目的が美しくなる。美しさは危険だ。危険なものは、彼の“ちゃんと”を薄める。


 薄めない。


 だから、彼はただ、同じ方向へ足を揃える。


 揃えた瞬間、空気が少しだけ変わる。


 香の層が、一枚薄くなる。鍋の湯気の匂いが遠ざかる。代わりに、鉄の匂いが少し近づく。血の匂いではない。治療のための鉄。刃ではなく、針や留め具の匂い。包帯の白の匂いが、石鹸とは別の層で立ち上がる。


 “次”の匂いだ。


 次の匂いが来た瞬間、ステラの掌が、ほんの僅かに角度を変える。


 角度は、高くない。


 低くもない。


 ただ、掌の面が空気を受ける角度になる。


 転移の前の合図に似ている。


 似ているのに、まだ転移しない。


 まだここにいるという事実を、彼女は残す。残すことで、ここを置き去りにしない。置き去りにしないために、現場へ向かう。


 向かう途中で、エルディオの視界の端に、包帯の柱がもう一度入る。


 白が揺れている。


 揺れ方は洗濯物と同じだ。


 同じ揺れ方が、今日も誰かの血を受け止める。


 受け止める手順が、整っている。


 整っているから叫びがない。


 叫びがないから、彼は目を逸らせない。


 ――見届ける。


 墓前で置いた言葉が、ここで勝手に具体へ変わっていく。


 具体へ変わっていくのに、彼は誓いにしない。


 誓いにした瞬間、綺麗になってしまう。


 綺麗にしないために、ただ歩く。


 歩く二人の影が、石畳の上に落ちる。


 落ちた影が――ほんの一拍だけ、遅れる。


 遅れは小さい。


 見間違いにできるくらい小さい。


 けれどエルディオは、見間違いにしない。


 見間違いにしない、という選択だけが、彼の“ちゃんと”の続きになる。


 香の層がもう一枚剥がれる。


 空気が、短く押される気配がする。


 まだ消えない。


 まだ飛ばない。


 ただ、次の地点の輪郭が、世界の裏側で先に準備されている――そんな予兆だけが、昼の稼働の中で静かに鳴った。


 市は回り続けている。


 回り続ける音のまま、二人は“守りの現場”へ向けて、歩幅を揃えた。


魔族領の昼は、平和の証明じゃなくて、止められない稼働として描きました。

笑いも匂いも手順も、戦時の影と同じ画面に置いたまま回り続ける――その「回り方」が、エルディオの“敵”を静かに削っていく回です。


ステラは言葉で導かず、手と位置だけで守りの現場へ向かう。

エルディオは救われるために理解するんじゃなく、見届けるために受け取ってしまう。


次は、この昼を「知ったまま」どこへ運ぶのか。

影が遅れる予兆の先で、二人の役割が具体の現場に触れていきます。

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