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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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161.守るべき生-2


 ステラは、言葉にしない。


 言葉にした瞬間、それは「説明」になる。説明になれば、正しさが混じる。正しさは便利だ。便利なものは、いつだって逃げ道になる。逃げ道を作ってしまえば、また“魔王”へ戻れる。


 戻れるのが、怖い。


 だから彼女は、黙ったまま、掌の冷たさだけを保つ。握り込まない。引かない。連れていかない。ただ、同じ石畳に立っているという形で、エルディオをこの昼に置く。


 置いた以上、自分も見てしまう。


 市が回っている。


 回っているというより――途切れない。


 露店の布が揺れて、影が波を打つ。その影の下で、角のある者が粉袋を抱えて片方の肩に掛け直す。布の巻かれた角が、荷紐に引っかからないように一度だけ角度を変える。その動作に迷いがない。迷いがないのは強いからじゃない。迷っていたら昼の段取りが遅れるからだ。


 遅れれば、昼が崩れる。


 崩れれば、夜が怖くなる。


 夜が怖くなるのは、戦争だけじゃない。明日の粉がない夜、薬草が足りない夜、水が運べない夜――そういう生活の夜は、戦争より静かに人を削る。


 ステラは、その削られ方を知っている。


 王座からではない。


 玉座の上で知ったわけじゃない。


 崩れた夜の匂いで知った。


 崩れた夜の匂いは、血の匂いよりも薄いのに、身体から抜けない。


 だから彼女の視線は、自然に水場へ向く。


 水が動いている。


 石の水盤に、桶が当たる音。弾ける水滴。濡れた布の匂い。灰と油の石鹸の匂い。水が流れ、溜まり、また汲まれていく――その循環が、いまも生きている。


 生きていることに、胸の奥が少しだけ痛む。


 痛むのは喜びじゃない。


 安堵でもない。


 “見てしまった”痛みだ。


 守れているかを、見てしまった。


 見てしまうと、次が続く。次が続くということは、自分がその続きを削ってきたことも同時に思い出す。続きがあるほど、壊したものの輪郭が濃くなる。


 濃くなるほど、自分の資格が削れていく。


 削れる。


 削れる感覚は、鋭い刃ではなく、毎日擦れる石だ。


 石畳の熱が足裏に残っているのに、彼女の内側だけが冷える。冷えるのに、体温が下がるわけじゃない。冷えるのは――立っている場所の正しさが、自分を選んでいないからだ。


 ここは、彼女の領分だ。


 魔族の街だ。


 魔王の国だ。


 そう呼ばれるはずの場所で、彼女は「主」になれない。


 なれないのに、歩いてしまう。


 歩いてしまうのは、守らないといけないからじゃない。


 「守ってしまっている」からだ。


 手が勝手に動く種類の責務。


 気づいたときには、視線が危険を拾っている。危険というほど大きくなくても、段取りが崩れそうな綻びを拾ってしまう。拾って、拾ったことを言葉にしないまま、身体が位置を変える。


 その癖が、彼女をいまも魔王にする。


 魔王としての役割は、支配者であることではない。


 少なくとも彼女の中で、それは違う。


 支配は、綺麗だ。命令は簡単だ。簡単さは、責任の形を歪める。歪んだ責任は、壊すときに理由になる。


 理由にはしたくない。


 彼女が守りたいのは、王座じゃない。


 王座があるから守るのではない。


 守るべきものがあるから、たまたま王座の形を背負ってしまっただけだ。


 水が動いている。


 子どもが泣いて笑っている。


 市が途切れず回っている。


 その当たり前が、彼女の視線に刺さり続ける。


 刺さるのに、彼女は言わない。


 言えば、赦しが欲しくなる。


 赦しが欲しくなった瞬間、ここを守る理由が自分のためになる。


 自分のためにしたくない。


 だから、言わないまま――エルディオの手を離さない。


 離さないことは慰めではなく、ただの同席だ。


 同席のまま、街の稼働は続く。


 続く中で、小さな綻びが起きる。


 大きな悲劇じゃない。


 でも生活は、こういう小さな綻びで崩れる。


 荷を引いていた大型の魔物が、ふいに耳を立てる。


 鈴の音に反応したわけじゃない。鈴はいつも鳴っている。反応したのは、荷車の車輪が石畳の隙間に乗り上げたときの、乾いた軋みだ。


 ぎ、と。


 短い音。


 短いのに、魔物の身体が硬くなる。


 硬くなった瞬間、荷車が止まる。止まれば後ろが詰まる。詰まれば声が上がる。声が上がれば、そこに「恐怖」が生まれる余地ができる。


 人間の街なら、ここで恐怖が走る。


 巨大な獣が暴れたらどうする。


 怪我をしたらどうする。


 血が出たら。


 死んだら。


 そういう連想が、声より先に広がっていく。


 エルディオの身体も、一瞬だけそれを準備する。


 準備するのに――準備が間に合わない。


 魔族領では、恐怖の前に段取りが走るからだ。


「止めるよ、左!」


 短い声が飛ぶ。


 怒号ではない。号令でもない。作業の声だ。声の高さが一定で、慌てていない。


 荷車の後ろにいた角持ちが、一歩だけ横へ退く。退くのは逃げではない。角が引っかからない位置へ移るための退き方だ。その動きの正確さが、何度も似たことが起きた土地の正確さだと分かる。


 翼持ちが屋根から降りてくる。


 降り方が早いのに、羽ばたきは大きくない。羽ばたけば風が立つ。風が立てば布が舞う。布が舞えば他の露店が困る。困れば段取りが崩れる。崩れれば昼が削れる。


 だから翼は畳んだまま、必要なだけ開く。


 着地した足が石畳を叩く。叩く音も軽い。


 鱗肌が水場から桶を置いて、手を空ける。置く動作が乱れない。水が溢れないように、桶の縁を石の窪みにきちんと合わせてから手を離す。溢れれば足元が滑る。滑れば転ぶ。転べば怪我をする。怪我をすれば仕事が止まる。


 止めない。


 止めないための動作。


 段取り。


 段取りが、恐怖より先に回る。


 魔物が首を振る。


 振った拍子に鈴が乱れて鳴る。乱れた鳴り方が、街の音の層を一瞬だけ掻き乱す。掻き乱すのに、誰も叫ばない。


 門番の相棒の嗅覚獣が、鼻を鳴らす。鳴らして、吠えない。吠えない代わりに、耳の角度を変える。音を読む。


 音を読んだ上で、門番が指を鳴らす。


 合図だ。


 嗅覚獣が立ち上がり、ゆっくりと魔物の側へ寄る。寄り方が“狩り”じゃない。相棒として寄る距離だ。鼻先を魔物の頬のあたりへ近づけ、匂いを嗅ぐ。嗅ぐというより、呼吸のリズムを合わせる。


 魔物の呼吸が、少しだけ落ちる。


 落ちるのに、まだ身体は硬い。


 硬いままだから、次が入る。


 翼持ちが、荷車の車輪の下に薄い板を差し込む。板は新しくない。擦れて、角が丸い。何度も使われた板だ。板の表面に、油の染みがある。油は滑りを作る。滑りがあれば、車輪は段差を越える。


 越えるための板。


 越えるための油。


 越えるための手。


「ほら、いつもの。こっち」


 魔物に向けた声が、幼い。


 子どもの声だ。


 子どもが、毛玉みたいな小型魔物を抱えたまま、荷引きの魔物の前へ小走りに寄っていく。危ない距離だ。人間の街なら止められる距離だ。けれど止める声は飛ばない。


 代わりに、獣人が子どもの腰を後ろから軽く支える。


 支え方が、掴むではない。抱き上げるでもない。ただ、転ぶ可能性だけを消す支え方。危険をゼロにしない。ゼロにしないまま、段取りの中に置く。


 子どもが、手のひらを広げる。


 掌の上に、小さな干し果実が乗っている。露店からもらったのか、家から持ってきたのか。分からない。分からないまま、それが“いつもの手”だと分かる。


 荷引きの魔物が、鼻を鳴らす。


 干し果実の匂いに呼吸が寄る。


 寄った分だけ、硬さがほどける。


 ほどけかけた瞬間に、板が差し込まれて、車輪が少しだけ持ち上がる。持ち上がる音が、さっきの乾いた軋みとは違う。意図のある音だ。意図のある音は、魔物を驚かせない。


 車輪が越える。


 越えた瞬間、荷車の鈴が一度だけ整った鳴り方に戻る。


 街の音の層も、戻る。


 戻るのに、誰も拍手をしない。


 英雄がいないからだ。


 英雄がいない代わりに、段取りだけがある。


 段取りは祝福を欲しがらない。


 祝福を欲しがらないから、続く。


 続くことが、生だ。


 生は、こういう小さな綻びで試される。試されても、泣き叫びではなく、恐怖ではなく、「やること」が先に出る。やることが先に出る街は、戦時中でも回れる。


 ステラは、その光景を見てしまう。


 見てしまって、胸の奥がまた削れる。


 削れるのは、自分がここを守る資格が薄いからだ。


 薄いのに、身体が勝手に動く。


 彼女は一歩、位置を変える。


 前へ出ない。


 指示もしない。


 ただ、荷車が通り抜けるための道の端に立って、流れを少しだけ整える。そこに立つだけで、角持ちが通りやすくなり、翼持ちが戻りやすくなり、子どもが転びにくくなる。


 それだけ。


 それだけなのに、“守ってしまっている”動きだ。


 手が勝手に動く種類の責務。


 責務に言葉は要らない。


 言葉が要るのは、支配だ。


 支配じゃない。


 ステラが守ろうとしているのは王座ではない。


 いま目の前で、誰もが当たり前に動くこの流れだ。


 水が動き、火が燃え、粉が渡り、布が乾き、子どもが泣いて笑い、老いた手が止まらず、魔物が仕事をし、段取りが綻びを縫い直していく――その「続き」。


 続きが守れているかを、彼女は見てしまう。


 見てしまったから、痛い。


 痛いのに、言わない。


 言えば、自分を慰めてしまう。


 慰めにしたくない。


 だから黙ったまま、掌の冷たさだけを保つ。


 その冷たさの隣で、エルディオが息をする。


 怖がる準備をしていたのに、怖がる暇がない。


 怖がる暇のない現実だけが、魔族領の昼を、ただの昼として回し続けていた。



 荷車の鈴が整って鳴り直したあとも、市の音は途切れない。


 途切れないことが、逆に怖い。


 怖いのに、誰もそれを恐怖として扱わない。恐怖として扱えば、恐怖が育つ。育った恐怖は群れを作る。群れになった瞬間、生活は戦争に飲み込まれる。


 飲み込ませない。


 だからこの街は、怖さを「手順」に落とす。


 落として、回す。


 回して、続ける。


 エルディオはその続き方を、目で追うより先に肌で受け取る。風が温く、粉塵と香が薄い膜になって腕に貼りつく。貼りついた膜が、昼の層を身体の外側に固定する。固定されると、逃げにくい。逃げにくいから、視線が勝手に遠景を拾ってしまう。


 空が広い。


 青い。


 青いのに――端のほうで、色が違う。


 煙だ。


 遠い。近くじゃない。市の音がかき消されるほど近くはない。だから誰も叫ばない。叫ばないまま、煙は空に細い帯を引く。黒でも白でもない。灰色に、少しだけ茶が混じる。木が燃える煙か、草が焼ける煙か。戦火の煙ではなくても、煙は煙だ。


 煙は「何かが燃えている」ことを、無言で告げる。


 燃えているのに、市は回っている。


 回っていることが、戦時の影を遠景に押しやる。押しやるのではなく、同じ画面に置く。置いたまま、主題にしない。


 煙は空にある。


 市は足元にある。


 足元のほうが、優先される。


 優先されるのは平和だからじゃない。優先しないと、次が来ないからだ。次の粉が来ない。次の水が来ない。次の薬草が来ない。次の包帯が来ない。次が来ないと、戦争以前に終わる。


 終わらせないために、足元を回す。


 露店の奥で、布が揺れる。


 揺れの向こうに、白い布が連なっているのが見える。洗濯物だ、と最初は思う。石鹸の匂いもある。濡れ布の匂いもある。日向の布の白さも匂いとして漂っている。


 でも布の白さが、少しだけ違う。


 幅が一定で、端が揃いすぎている。


 干してある場所が、家の軒先ではなく、共同の柱の列だ。


 包帯だ。


 包帯が、干されている。


 干されていることが日常化している。日常化していることが、悲鳴を必要としない形で刺す。誰かが泣き崩れていないからこそ、包帯の白さが余計に現実になる。


 包帯は乾く。


 乾けば使える。


 使えれば、誰かが生き延びる。


 その段取りが、祈りではなく作業として回っている。


 エルディオは、喉の奥が一瞬だけ狭くなるのを感じる。


 狭くなるのに、息を整えない。


 整えれば「辛い」が言葉になる。言葉になれば、ここが彼の物語の回収になる。回収の形にしたくない。ここはただ、現実が回っている場所だ。


 現実が回っているのに、戦時の影は確かにある。


 影があるから、手順が整っている。


 市の端、門の近くを、ひとりの伝令が走り抜ける。


 走り方が違う。


 子どもの走り方じゃない。遊びの弾みがない。足音が石畳を叩く。叩き方が短く、無駄がない。背中に小さな袋。腰に巻かれた紐。肩から下がる札。札が胸に当たって小さく鳴る。鈴じゃない。金属片でもない。乾いた木札の音だ。


 走るのに、誰も露店を畳まない。


 畳まないことが、恐ろしいほど整っている。


 畳まないのは無頓着だからじゃない。畳むべき合図が「別」にあるからだ。合図が別にあるということは、ここでは“走る伝令”が即ち“避難”の合図ではないということだ。


 伝令は走る。


 伝令が走るのは、情報を運ぶためだ。


 情報は、生活を止めないために運ばれる。


 誰かが伝令に声を投げる。


「南? 西?」


 断片だけが飛ぶ。


 返事は短い。短い返事が返る。返事の内容は聞き取れない。聞き取れないのに、声の高さが一定だと分かる。一定だから、恐怖に落ちていない。


 恐怖に落ちないように、手順がある。


 伝令が走り抜けたあと、門番の隣の嗅覚獣が一度だけ鼻を鳴らす。鳴らして、門番が指で獣の首元を叩く。合図。獣が門の外へ顔を向ける。風の匂いを読む。読むが吠えない。


 吠えないことが、街の段取りを守る。


 守るという言葉は綺麗だ。


 けれどここで起きているのは、綺麗な守りではない。守るというより、壊れないように回している。


 回しているだけだ。


 だから叫ばない。


 泣き崩れない。


 祈らない。


 ただ、包帯を干し、伝令を通し、水を動かし、粉を渡す。


 その“整えられた手順”が、戦争を主題にしない形で、戦時の影を遠景に固定する。


 影は空にある。


 包帯は日向にある。


 伝令は石畳を走った。


 それでも露店の布は揺れて、穀物の匂いは押し寄せ、香辛料は汗に混ざって肌に貼りつく。


 生活は、飲み込まれていない。


 飲み込まれていないことが、胸に重く落ちる。


 ♢


 匂いが、さらに濃くなる。


 市の中心に近づくほど、火が近い。


 焼いた穀物の匂いが、香辛料の層を突き抜けてくる。突き抜けるのに、鼻を刺さない。鼻ではなく、喉の奥に残る匂いだ。喉の奥で熱が立つ。熱が立つと、唾が欲しくなる。欲しくなるのに、口の中は乾いたままじゃない。墓地の乾きとは違う。これは、食べ物の熱で身体が反応している乾きだ。


 屋台がある。


 屋台というより、共同炊事場に近い。


 石の炉が並び、上に大きな鍋。鍋の縁が黒く煤けている。煤は戦火の煤じゃない。毎日の火の煤だ。火はここで、暮らしを作るために燃えている。


 湯気が上がる。


 湯気に香が混ざる。


 油の匂い。塩の匂い。肉の匂い。豆を煮る匂い。穀物を焼く匂い。甘い匂いもある。甘いのに花じゃない。果実を煮詰めた甘さ。冷たい甘さじゃない。熱でほどける甘さだ。


 人の列がある。


 並んでいる。押し合っていない。並ぶという行為が、ここでも段取りになっている。段取りがあるから、列が喧騒にならない。喧騒にならないから、戦時でも壊れにくい。


「次、器ある?」

「木のやつでいい」

「塩、少し多め」

「子どもの分、半分な」


 断片が飛ぶ。


 断片が全部、生活の要望だ。


 戦争の話じゃない。


 でも戦争の影があるから、半分が出る。半分にするのが当たり前になっている。半分が当たり前になっているのに、誰も泣かない。泣かない代わりに、次の器を探す。


 エルディオは、足が止まりかける。


 止まりかけたのは「食べる」という行為が怖いからだ。


 食べるのは、生活に戻る動作だ。


 戻れないのに、口に入れていいのか。


 その迷いが胸の奥で生まれかける。生まれかけるのに、香りが先に押し返してくる。押し返してくるのは誘惑じゃない。現実だ。現実は、許可を取らない。


 食べるかどうかを、世界が先に決めようとする。


 エルディオは、ステラの手の冷たさを感じる。


 冷たいままの掌が、引かない。


 押さない。


 ただ、止まらせない。


 ステラは食べない。


 食べない理由は言わない。


 言わないまま、彼女の手が一瞬だけ止まる。止まって、また動く。動くというより、指先の力がほんの僅かに変わる。変わって、すぐ戻る。戻るだけの動きが、“食べない”という選択を説明のないまま見せる。


 彼女は口を開かない。


 でも視線だけが、鍋の湯気の向こうを一度だけ見てしまう。


 包帯の白さ。


 遠い煙。


 走った伝令。


 それらが一瞬だけ、湯気の向こうに重なる。


 重なったあとで、ステラは視線を戻す。


 戻すのに、何も言わない。


 エルディオは、器を受け取る。


 木の器だ。軽い。軽いのに熱が伝わる。熱が器から掌へ移る。移る熱が、いまの彼の体温のなさに刺さる。刺さるのに、刺さり方が墓地の刃ではない。これは、生きている熱だ。


 匙が渡される。


 木の匙。削った跡が残っている。均一じゃない。均一じゃないのに、手に馴染む。馴染むことが生活だ。


 一口。


 口に入れた瞬間、まず塩が来る。


 塩の輪郭がはっきりしている。はっきりしているのに尖っていない。尖っていないのは油が受け止めるからだ。油が舌の上に薄い膜を作る。膜が熱を抱え、喉の奥へ滑る。


 穀物の甘さが遅れて来る。


 麦なのか別の穀物なのか、名前は分からない。分からないのに味は分かる。粉の甘さ。焼けた表面の香ばしさ。腹に落ちる味だ。腹に落ちる味は、どこの国でも似てしまう。


 似てしまうことが、怖い。


 怖いのに、次の香りがそれをずらす。


 香辛料。


 鼻ではなく、喉の奥に残る辛味。


 刺激が鼻を突き抜けない。突き抜けない代わりに、喉の奥に熱が張りつく。張りついた熱が、少し遅れて胸の奥へ落ちる。落ち方が、王都の料理と違う。違うのに、塩と油と穀物と肉――その骨組みは同じだ。


 同じ骨組みの上に、違う香りが乗っている。


 違うのは敵味方じゃない。


 土地の癖だ。


 生活の癖だ。


 薬効の癖だ。


 舌の上に、冷たい甘味が一瞬だけ混ざる。


 甘味は熱い鍋の中にあるはずなのに、甘味だけが冷たい膜みたいに残る。果実を煮詰めた甘さが、舌の表面をコーティングする。コーティングが辛味を少し丸める。丸め方が、救いじゃなく工夫だ。味を“食べやすくする”ための工夫。


 工夫は生活だ。


 エルディオは、二口目を飲み込む。


 飲み込むとき、喉が一度だけ詰まりかける。


 詰まりかけたのは辛味じゃない。


 “同じだ”が、胸の奥に落ちたからだ。


 人間と同じだ。


 塩がある。


 油がある。


 肉がある。


 甘味がある。


 腹を満たすための味がある。


 その事実が、彼の中の「敵国」の輪郭を削る。削るのに、削った跡が痛い。痛いのに、誰も慰めない。慰めないまま、鍋は煮え、匙は動き、列は次へ進む。


 ステラは食べない。


 食べないまま、手だけが止まる。


 止まった手が、また動く。


 動くというより、エルディオの掌の位置をほんの僅かに確かめ直す。確かめ直すだけで、彼女は“ここにいる”を続ける。


 彼女の視線が、包帯の干された白へもう一度だけ滑る。


 滑って、すぐ戻る。


 戻ることで、言葉にしない確認を終える。


 水場が動いている。


 子どもが泣いて笑っている。


 市が途切れず回っている。


 それが守れている。


 守れていることが、彼女の資格を削る。


 削るのに、彼女は守ってしまっている。


 手が勝手に動く種類の責務を、食の匂いの中でも手放せない。


 エルディオの口の中に残る辛味が、喉の奥で熱を保つ。


 その熱が、墓地の冷えと繋がらない。


 繋がらないのに、同じ世界だと分からせる。


 遠景に煙があり、日向に包帯があり、伝令が走る。


 それでも、塩と油と穀物の味がある。


 味があることが、生の最短だ。


 最短の理解が、いちばん逃げ道を塞ぐ。


 塞がれたまま、昼の稼働が続く。


 続いている。


 続いていることが、戦時の影を遠景に置いたまま、生活を生活として成立させていた。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 墓前で「誓い」にしなかった言葉が、次の場所では「生活」の音や匂いにぶつかり、少しずつ形を変えていきます。魔族領の昼は“平和”ではなく“稼働”として描きました。戦時の影があっても、泣き叫びではなく手順で回り続ける――その強度こそが、ステラが守ろうとしているものです。


 次は、この「同じ」を見てしまったエルディオが、何を捨てられず、何を更新してしまうのか。そこを静かに進めていきます。

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