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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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159.『弔いの歩み』

 

 沈黙は、返事の代わりにはならない。


 返事がないことを、もう言わないと決めたからだ。言えば確認になる。確認は、傷の上に指を置く動作に似ている。置いた指先が熱を確かめてしまえば、痛みは「説明できる痛み」になる。説明できる痛みは、いつか物語に回収される。


 回収されたくない。


 だから、言葉を増やさない。


 エルディオは墓前に立ったまま、ただ、呼吸だけを続ける。続けるが、整えない。整えると儀式になる。儀式になれば、「ただいま」は帰郷の形に寄ってしまう。寄せたくない。


 喉の奥が、乾いたまま鳴る。


 鳴っても、咳にはならない。咳にしてしまえば身体が逃げる。逃げることは、ここでは許されない。許されないから、喉が一度だけ、内側で動く。唾を飲み込む。湿りは戻らない。それでも「動く」という事実だけが、次の言葉の通り道を作る。


 墓標の溝をなぞっていた視線が、溝から離れる。


 離れるというより、焦点が少しだけ広がる。墓標の表面、苔の薄い斑、抜かれた雑草の土の盛り、並べられた小石——それらが一つの輪郭にまとまっていく。まとまる輪郭は、慰めではない。ただ「ここに置かれている」という事実の形だ。


 生きている音が、その周りに混ざっている。


 鳥が鳴く。近い。

 鳴き方が軽い。軽いのに、軽薄ではない。生き物の声は、今日という一日が始まって終わっていくことを当然としている。


 風が草を揺らす。

 揺れる草は、返事をしない。返事をしないまま、倒れもしない。揺れて戻る。その繰り返しが、生活の側の時間だ。


 遠い畑の声が続く。

 言葉は届かない。高さと低さだけが届く。呼びかける声、応える声、笑いかもしれない声。何かを運ぶ足音。木を打つ乾いた音。扉が閉まる鈍い音。


 世界は、止まっていない。


 止まっていないことが、痛い。


 痛いのに、救いにはならない。救いに見えないところが、ここでは正しい。リィナの死は、世界を止めなかった。止めないまま、彼女は消えた。消えたまま、世界は続いた。続く世界の中で、彼は今、立っている。


 ――報告。


 誓いではない。祈りでもない。英雄の言葉でもない。誰かに向けて掲げる旗でもない。


 報告だ。


 ここへ置かれた最初の喪失に対して、今の自分がどこまで来たかを、ただ置く。置けば、帰る必要がない。置けば、綺麗に整えなくて済む。整えないから、逃げられない。


 エルディオは、手を合わせない。


 合わせない手が、空気の中にある。空気の冷たさと土の匂いが、その手の輪郭を薄く縁取る。握りしめもしない。開きもしない。何かを掴む形にも、差し出す形にもならない。なるべく「何もしない手」のまま、立つ。


 背後で、ステラが動かない気配がある。


 動かないことは、冷たさではない。慰めにしないための動かないだ。彼女の沈黙は綺麗じゃない。綺麗じゃない沈黙だからこそ、ここでは逃げ道にならない。逃げ道にならない沈黙が、ただ立ち会っている。


 立ち会いの中で、エルディオは目を伏せたまま、口を開く。


 開くが、すぐには声が落ちない。


 言葉が喉の途中で止まる。止まるというより、形が定まらない。「言うべきこと」が多すぎるからだ。世界のことを語ろうと思えば、いくらでも語れる。戦争のこと。制度のこと。魔族のこと。王都のこと。墓地のこと。花畑のこと。シャルロットのこと。家族のこと。ステラのこと。


 語り始めた瞬間、壮大になる。


 壮大になった瞬間、逃げる。


 逃げたくない。


 だから、語らない。語る代わりに、最小の形だけを選ぶ。選ぶために、喉がもう一度だけ動く。息は整えない。整えると「よし」になる。「よし」は決意になる。決意は英雄になる。英雄にしたくない。


 英雄ではなく、ただの人間として、報告する。


 墓標の前で、彼はほんの小さな間を置く。


 間は沈黙ではない。沈黙にすれば格好がつく。格好がつけば逃げられる。だから間は、ただ時間としてそこに落ちる。風がその時間を撫でて通り過ぎる。鳥が鳴いて、その鳴き声が時間の上に影を落とす。


 その影が消えたあとで、声が落ちる。


「これから世界がどうなるか――」


「世界」という言葉は、大きい。


 大きいから、危険だ。


 だがここで「世界」と言うことだけは、逃げではない。逃げではなく、広がりの確認だ。リィナの死が生活の中の死であったとしても、彼の今は生活の中に戻れない。戻れないまま、世界の中を歩いている。歩いてしまった。歩いてしまった事実を、彼は嘘にしたくない。


 だから言う。


 ただし、そこで止める。


「世界がどうなるか」を語り出さない。


 語り出すと、未来予想になる。未来予想は、希望に寄る。希望は綺麗だ。綺麗さは、ここで最も危険だ。


 彼は一度だけ、言葉を切る。


 切れ目に、風が入る。


 草が揺れる。

 遠い声が続く。

 鈴が一拍遅れて鳴る。


 世界が、勝手に進む。


 進む世界に追いつこうとするのではなく、進む世界を「目を逸らさずに受け取る」——その形に、言葉を落とす。


 エルディオの喉が、もう一度だけ動く。


 湿りは戻らない。戻らないまま、言葉だけが落ちる。


「――僕は、ちゃんと見届けるよ」


 守る、ではない。

 救う、でもない。

 戦う、でもない。


 見届ける。


 見届ける、という言葉は、手を伸ばさない。だから綺麗になりにくい。英雄の動作にならない。誰かを救う形にならない。救う形にならないからこそ、逃げにならない。


 そして「ちゃんと」が、そこに重さを落とす。


 ちゃんと——投げない。

 ちゃんと——逃げない。

 ちゃんと——途中でやめない。


 誓いにしないのに、その三つだけは逃がさない言い方だ。掲げないのに、置く。置いて、置いたままにする。誰かに認められなくても成立する言い方。拍手も要らない。称賛も要らない。赦しも要らない。


 ただ、報告として、未来を置く。


 置いた瞬間、墓前の空気は変わらない。


 変わらないことが、正しい。


 何かが晴れたり、胸が軽くなったりはしない。重さは残る。重さが残るまま、世界の音が続く。鳥は鳴き、風は草を揺らし、畑の声は途切れない。遠い生活音は、宣言を祝福しないし、拒絶もしない。


 祝福されないことが、救いに見えないことが、今の彼には必要だった。


 誓いなら、祝福が欲しくなる。

 英雄なら、証明が欲しくなる。

 証明が欲しくなれば、戦い方が変わる。


 変えない。


 変えないために、見届ける。


 リィナに向かって、彼はもう何も足さない。


 返事がないことを繰り返さない。繰り返せば感傷になる。感傷は、悲しみを「扱える形」にしてしまう。扱える形は、どこかで自分を守る。守りたくない。


 だから、沈黙に任せる。


 沈黙の中で、世界が勝手に鳴っている。鳴っていることが、報告の受領印になるわけではない。受領印ではないのに、ここに置かれた言葉は消えない。消えない形で、空気の中に残る。


 エルディオは、墓標を見ない。


 見ないまま、そこに立つ。


 立って、言葉が残るのを待たない。待てば祈りになる。祈りになれば、誓いになる。誓いになれば、綺麗になる。


 綺麗にしない。


 彼はただ、報告を置いただけだ。


 置いた報告を、世界が動き続ける音の中に沈める。沈めたまま、引き上げない。引き上げないことが、「ちゃんと」の一部になる。


 背後で、ステラの呼吸がわずかに変わる。


 声はない。


 けれど彼女は、その言葉を聞いた。


 聞いた瞬間、理解する。


 これは誓いではない。

 英雄の宣言ではない。

 誰かを救うための旗ではない。


 だからこそ、折れない。


 折れないというより——折れたままでも続く言葉だ。


 続く、という形だけがここに置かれた。


 世界がどうなるか。


 その答えを出すのではなく、答えが出るまで目を逸らさない。


 それを、彼は「ちゃんと」と言った。


 それ以上は言わない。


 言わないまま、草が揺れる。

 揺れて、戻る。


 鳥が鳴く。

 鳴いて、黙る。


 畑の声が続く。

 続いて、遠ざかる。


 世界は、動き続ける。


 動き続ける世界の中で、墓前に置かれた「見届ける」は、誓いにならないまま——受け入れとして、静かに沈んでいた。


 ♢


「見届けるよ」と置いた言葉は、墓前で形を変えない。


 変えないまま、風に削られもしない。削られないのに、浮かび上がりもしない。声はもう空気に溶けているはずなのに、溶けたあとに残る「重さ」だけが、墓標の前に留まっている。


 留まっているから、次の動きができる。


 動きは、儀式にしない。


 祈りにもしない。誓いにも、別れにも、しない。別れにした瞬間、終わったことになる。終わっていない。終わっていないから、区切りだけを作る。


 区切りは、言葉ではなく、身体で作る。


 エルディオは手を合わせない。


 合わせれば、ここで置いた「ただいま」と「見届ける」が祈りの中に吸われる。吸われた言葉は、救いに寄る。救いに寄った瞬間、彼は少しだけ楽になってしまう。楽になった分だけ、逃げが混ざる。


 逃げを混ぜたくない。


 だから、手は動かさないまま——頭だけを僅かに下げる。


 深くは下げない。深く下げれば、謝罪に見える。謝罪の形は綺麗すぎる。綺麗すぎる形は、ここに似合わない。似合わないものは、墓前の現実を薄める。


 だから、ほんの少し。


 視線が墓標の溝から外れ、土の色へ落ちる程度。

 首の骨が一節だけ動いた、と分かる程度。


 その短い角度が、祈りの代わりになるのではなく——「ここに置いた」とだけ告げる動作になる。


 動作はすぐに終わる。


 終わらせないと、別れになるからだ。


 エルディオは、息を整えないまま、足を引く。


 一歩。


 離れるための一歩ではない。

 逃げる一歩でもない。


 墓前の「置き場」から身体を外して、次の置き場を作る一歩だ。


 土が、鳴らない。


 砂利なら摩擦音が立つ。石板なら乾いた硬さが返る。けれど土は、音を小さくする。湿りを含んだ土は、靴底の下で沈み、沈んだまま戻る。戻るとき、音ではなく重さを返してくる。


 その重さが、彼の足首に残る。

 足裏に残る。


「生活の土」が、墓前の現実を薄めないまま、彼を次へ押し出す。


 押し出すのは優しさではない。

 土地が「続けろ」と言っている圧だ。


 墓前から一歩だけ下がった位置で、エルディオの身体が止まる。


 止まるが、振り返らない。


 振り返れば、名を呼びたくなる。名を呼べば、言葉が増える。増えた言葉は、どこかで自分を守る。


 守りたくない。


 だから、止まるだけ。


 止まった背中に、風が当たる。


 風は冷たい。冷たいのに、王都の墓地ほど刃ではない。刃ではない冷えが、いまの彼には逆に怖い。普通の冷えは、普通の生活の中で感じる冷えだからだ。普通の冷えが、喪失を「普通の現実」に固定してしまう。


 固定された現実の中で、背後の気配が変わる。


 ステラが——動く。


 それが分かるのは、足音ではない。


 彼女の足も土を鳴らさない。鳴らさないからこそ、気配の「重心」がずれることでしか、動きが分からない。半歩後ろにあった重心が、僅かに前へ寄る。寄るが、近づき切らない。


 近づき切れば慰めに見える。


 慰めに見えた瞬間、彼女は「寄り添う役」を得る。


 役を得れば、逃げ道が生まれる。


 逃げ道は要らない。


 だから、彼女の動きは慎重だ。


 慎重だが、怯えではない。


 彼女は、この章で初めて「能動」を選ぶ。


 言葉ではなく。

 立ち方ではなく。

 沈黙の質でもなく。


 動作で。


 ステラの腕が、外套の内側から出る。


 出し方が、ぎこちない。


 ぎこちなさは、迷いの名残だ。迷いは短い。だがゼロではない。ゼロにしてしまえば、それは命令になる。命令の速さになる。命令の速さは、魔王の癖だ。


 癖に戻りたくない。


 戻りたくないから、彼女の指先は空気の中で一度だけ止まりかける。


 止まりかける。


 止まれば、出さないで済む。

 出さなければ、何も確定しない。


 何も確定しなければ、曖昧なまま戻れる。


 曖昧は、彼女にとっていつも安全だった。


 安全は役割を呼ぶ。

 役割を呼べば、彼女は魔王に戻れる。


 戻れるのが怖い。


 怖いから——止まりかけた指先が、止まらない。


 空気の抵抗を押し分けるように、手が前へ出る。


 高すぎない。

 低すぎない。


 導きにもならず、施しにもならない高さ。


 掴みにいかない。

 指先は閉じない。


 ただ、開く。


 命令もしない。

 言葉も出ない。


 開いた掌だけが、空気に提示される。


 同行の提示ではなく、共有の提示。


 同じものを見た、という提示。

 同じものを見続ける、という提示。


 その提示は、エルディオの背中に届く。


 届くが、呼びかけにならない。


 呼びかけにならないから、彼は振り返らないまま——少しだけ肩の角度を変える。


 墓前に背を向けるほどではない。

 逃げる角度でもない。


 ただ、隣へ移るための角度。


 その角度の変化だけで、彼はステラの手を視界の端に入れる。


 端に入った掌は白い。


 寒さの白さではない。力を入れて白くした白さでもない。何かを押し殺して、出したままにしている白さだ。


 出したままにすることで、彼女は逃げない選択を続けている。


 続けている。


 その事実を、エルディオは見てしまう。


 見てしまったから——迷いが生まれる前に動く。


 迷わないのは、救われたからではない。


 救いを拒んだまま、未来を置いたからだ。


「見届ける」と置いたからだ。


 置いた以上、同行を避ける理由が減った。


 避ければ、置いた言葉が嘘になる。


 嘘にしたくない。


 だから、手を伸ばす。


 指が、触れる。


 冷たい。


 辺境の風で冷えた手。

 ステラの体温の低さが、そのまま指先にある。


 エルディオの手も温かくない。

 戦いと喪失で、身体が熱を作ることを諦めかけている。


 温度のない接触。


 だから、嘘がない。


 温もりがないから、救いにならない。


 救いにならないから、ここで触れていい。


 二人の手は、ただ重なる。


 握りしめない。

 縋らない。

 捕まえない。


 重なって、動かない。


 動かない一拍の間に、世界が鳴る。


 鳥が鳴く。

 風が草を揺らす。


 生活の音が、低い層を流れていく。


 その流れの中に、墓前の「見届ける」が沈んでいる。


 沈んでいるのに、消えない。


 消えないまま、次の現象が始まる。


 派手な光はない。

 爆音もない。


 足元の影が、一拍だけ遅れる。


 前は「到着」だった。

 今は「終わらせるための移動」だ。


 土埃は舞わない。


 湿りを含んだ土が、現実を軽くしない。


 草が、一拍だけ止まる。


 世界が、一度だけ息を止める。


 空気が押される。


 吐息のような、短い押し出し。


 その中で、二人の輪郭が剥がれる。


 次の瞬間。


 二人の姿が、墓地から消える。


 残るのは、画だけだ。


 リィナの墓。

 抜かれた雑草の痕。

 並べられた小さな石。


 名は、読まれないままそこにある。


 風が戻る。

 草が揺れる。

 鳥が鳴く。


 世界は、何もなかったみたいに続く。


 それが、残酷に正確だ。


 何も変わらない墓前に、しかし——何かだけが残っている。


「見届ける」


 声はない。


 けれど重さだけが、返事のない墓前に置かれたままだ。


 祈りにならないまま。

 誓いにならないまま。

 綺麗に整わないまま。


 ただ、投げないための報告として。


 そして、誰の目にも見えない場所で——

 手の反復の意味だけが、静かに更新されていた。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


この章は「誰のせいにもできない喪失」を描きました。だから救いにも誓いにもせず、エルディオはリィナへ“報告”として「見届ける」を置きます。世界は止まらず、音だけが続く。その現実の中で、投げずに立つための言葉です。


そして最後、手の反復を逆転させました。ステラが差し出し、エルディオが迷わず取る――慰めではなく同席として。ここから二人は、同じものを見続けるために進みます。

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