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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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155/176

155.弔いのみ-3

 

 灰色しかなかった視界に、色が刺さる。


 それは突然広がったわけではなかった。

 最初に見えたのは、地平線の向こうに滲む、ごく薄い帯だ。

 灰の濃淡しかなかった世界の端に、わずかに異質な色が混じる。色というより、温度の違いのようなものだった。


 歩みを止めるほどではない。

 目を凝らさなければ、見落とす程度の変化だ。


 だが、身体のほうが先にそれを拾う。


 エルディオの歩幅が、ほんの一瞬だけ乱れる。

 止まらない。止まれない。

 ただ、次の一歩が、これまでと同じ幅で出なかった。


 胸元の袋を押さえる指が、わずかに強くなる。

 力を込めた自覚が生まれるより早く、すぐに緩む。


 守った。

 そして、守りすぎないように、手を離した。


 視線が落ちる。

 花を見るためじゃない。


 足元の色だ。


 灰色だった地面が、ところどころ土の色を取り戻している。

 黒でも白でもない、湿り気を含んだ茶色。

 踏みしめた感触が、遅れずに返ってくる。


 ――ここは、もう灰の世界じゃない。


 エルディオはそう考えたわけじゃない。

 ただ、身体が理解した。


 風が変わる。


 これまで頬を撫でていた風は、軽すぎた。

 音を運ばず、匂いを持たず、触れている感覚だけが先行する、薄い風。


 今、吹き抜けていく風には、重さがある。

 草の匂い。

 湿った土の匂い。

 どこかで水が残っている気配。


 風音が、ちゃんと音になる。

 空気が揺れる量に見合った、厚みのある音だ。


 エルディオは歩き続ける。

 歩幅はすぐに元に戻る。

 一定に、一定に――感情が入り込まない速度へ。


 その先で、色は少しずつ形になる。


 灰が薄くなり、土が露出し、そこから生えているものが見える。

 低い草。

 その間に、点々と咲く花。


 整えられていない。

 並べられてもいない。


 踏み固められた道もない。

 柵もない。

 誰かが「ここを花畑にしよう」と決めた形跡がない。


 ただ、野に広がっている。


 風に揺れ、倒れ、また起き上がる、小さな花たち。

 白いもの。

 淡い青。

 光を透かす薄紅。


 種類は混じっている。

 群れの密度もまちまちだ。


 その無秩序さが、逆に強く胸に引っかかる。


 ここは癒しの場所じゃない。

 整えられた庭でも、祈りのための場所でもない。


 ――奪われた日常の、断面だ。


 エルディオは花を見ない。

 見ないまま、そこへ向かう。


 ステラは、半歩後ろでそれを見る。


 追っていた足が、無意識に止まりかける。

 止まりかけて、すぐに動く。


 立ち止まれば、逃げになる。

 逃げてしまえば、ここまで追ってきた意味が消える。


 花畑を見た瞬間、彼女の表情は変わらない。

 眉も動かない。

 口元も引き結ばれたままだ。


 ただ、喉が詰まる。


 息を吸ったはずなのに、空気が途中で引っかかる。

 胸まで届かない。


 花は、生きている。

 生きているという事実が、容赦なく戻ってくる。


 現実。

 責任。

 奪ったもの。

 返せないもの。


 灰の世界では曖昧にできていた重さが、一気に輪郭を持つ。


 それでも、彼女は歩く。


 逃げない。

 言葉も探さない。


 ただ、背中を追う。


 灰が完全に途切れ、花の間を風が抜ける。

 朝の光が、花弁の薄さを透かす。


 この場所は救いじゃない。

 救いになるほど、優しくない。


 だからこそ、エルディオはここへ来た。


 そしてステラは、その背中の後ろで、何も言えないまま立ち続ける。


 ♢


 花畑は、中心が一番うるさい。


 色が濃くて、香りが濃くて、風が花弁を揺らすたびに――「ここは生きている」と主張する。

 生きている主張は、今のエルディオには強すぎる。


 だから彼は、中心へ行かない。


 花の密度が少し落ちるほうへ。

 草丈が低くなって、土が見えるほうへ。

 それでも花は咲いていて、風は抜けて、遠くが見える。


 畑の端。

 端というより、少し高い場所だ。


 丘と呼べるほどの高さじゃない。

 ただ、足裏がわずかに上りを感じる程度。

 その僅かな高低差が、視界を変える。


 灰の世界が遠ざかっていく線。

 そこを抜けてきた自分たちの足跡――付いたはずの形が、もう薄れている。

 風が吹けば消える、という当然の現実が、今は妙に鋭い。


 目印になる。

 風が抜ける。

 遠くが見える。

 言葉にしなくても、身体が覚えられる場所だ。


 エルディオはそこで止まる。


 止まるのに、儀式みたいな間取りは作らない。

 花の中心に立って、空へ顔を上げて、何かを誓うような動きはしない。


 ただ、地面を見る。


 見る目は感傷の目じゃない。

 土を読む目だ。


 掘れるか。

 石はあるか。

 草が邪魔をしないか。


 戦場の墓の目だ。


 道具はない。

 鍬もない。

 剣で掘るような真似もしない。剣は武器だ。武器を墓に使えば、意味が変わる。

 意味が変われば、感情が立ち上がる。

 感情が立ち上がれば、喉が壊れる。


 だから――手だ。


 エルディオは膝をつく。


 この作品の中で、膝をつく動作は重い。

 屈服にも見えるし、祈りにも見えるし、崩れにも見える。

 それを、今の彼は選ぶ。


 膝が土に触れた瞬間、痛みが来る。


 戦いの最中には遅れていた痛みが、ここでは遅れない。

 膝の関節が軋み、太腿の奥が張り、肋の下が引きつる。

 痛みは身体の内側から、正確な位置情報を持ってやって来る。


 ――ここが壊れている、と。


 彼は顔に出さない。


 出せば、ステラが言葉を探してしまう。

「大丈夫か」でも「やめろ」でもない、何か余計な言葉を。

 余計な言葉は役割を呼ぶ。

 役割は鎧を呼ぶ。

 鎧が戻れば、彼女は魔王に戻れる。


 戻れることが、今は危険だ。


 だから、痛みを沈める。


 沈めて、作業に移る。


 指先が土に触れる。

 最初の一掻きは浅い。

 表面の草を分け、根を避け、土の層を見つける。


 土は湿っている。

 湿り気が指腹にまとわりつく。

 その重さが現実だ。


 指先で土を抉る。


 掻く。

 掻いて、掌に溜めて、横へ避ける。

 避けた土は雑に捨てない。

 戻すために、置く。


 ――順番を崩さない。


 丁重さではない。

 丁寧に扱うことで優しさを示すのではない。

 ただ、手順の正確さだけが彼の理性を保つ。


 掘る。

 掘って、土を避ける。

 掘って、また避ける。


 爪の隙間に土が入る。

 爪の先が黒くなる。

 指先の皮膚が擦れて熱を持つ。

 熱が痛みに変わる前に、また次の一掻きが入る。


 途中で、小石が当たる。


 指が硬いものに弾かれ、鈍い痛みが走る。

 止まらない。

 止まると、その痛みが「失ったこと」と結びつくからだ。


 彼は石を取り除く。


 指先で土を掻き、石の縁を露出させる。

 露出した石を、掌で掴んで引き抜く。

 引き抜いた石は投げない。

 横へ置く。


 後で、使えるかもしれないから。


 深さは、十分じゃない。


 手で掘れる深さなど、たかが知れている。

 時間も限られている。

 指の皮膚も、痛みも、限界がある。


 それでも――ここで妥協しない。


「それなり」でいい、と言ってしまえば終わる。

 終わるのは救いのはずなのに、終わらせたくないものがある。

 終わらせたくない執着を、彼は言葉にしない。

 言葉にしない代わりに、作業に変換する。


 掘る。

 掘って、掘って、掘って――“それなりの深さ”に達するまで。


 ようやく、掌が入るくらいの穴になる。

 土の湿り気が増し、重さが増す。

 指に残る重さが、ここが地面であることを確定する。


 エルディオは一度だけ、息を吐く。


 息は白くない。

 ここは寒さじゃない。

 白くなる代わりに、湿った土の匂いが喉に入ってくる。


 そして――袋。


 彼は袋を持ち上げない。


 捧げるように掲げない。

 両手で抱えて胸に寄せたりもしない。

 そうすれば、それは「遺品」になる。

 遺品になれば、感情が入る。


 感情が入れば、名が出る。

 名が出れば、彼はここで崩れる。


 だから、袋は身体の中心に置いたまま。


 中心線から外さず、ただ、穴の上へ位置を移す。

 胸元から腹の境界へ。

 身体の動きに合わせて、袋が滑る。


 その瞬間、手が止まる。


 止まる理由は、言語化されない。

 止まった時間は短い。

 短いのに、風が一つ吹き抜けた気がする。


 エルディオは袋を開けない。


 灰を撒かない。


 撒けば、散る。

 散れば、あの灰の世界が再来する。

 足跡が消えるみたいに、ここでまた消えてしまう。


 消えてしまうものを、もう見たくない。


 だから、袋ごと埋める。


 袋は音を立てない。

 布は柔らかく、落としても「落ちた」という音がしない。

 それでも、土に触れた瞬間の鈍い感触がある。


 ――重い。


 持っているときの重さではない。

 土に預けたときの重さだ。


 預けた瞬間、袋は「物」になる。

 物になるほど、戻れなくなる。


 戻れないことに、彼は表情を変えない。


 変えないまま、土を戻す。


 掌で土をすくい、穴へかける。

 一掬い。

 二掬い。


 土の湿り気が指に残る。

 残る重さが、掌の線に沿って滑る。

 滑って、袋の上に落ちる。


 そのたび、風が花畑を撫でる。


 花弁が一枚、落ちる。

 落ちた花弁は、土に触れる前に揺れる。

 揺れて、土の上に降りる。


 土をかけるたびに、花びらが一枚落ちる。

 偶然だ。

 偶然なのに、数が揃っていくみたいで怖い。


 淡々としている。


 淡々としているほど、苦しい構造だ。

 声も出ない。

 涙も出ない。

 ただ作業が進む。


 土で穴が埋まる。

 埋まりきったところで、掌で上をならす。


 押さえつけるのではない。

 整える。


 整えることが、確定だ。


 ここまでで、喪失は説明されていない。

 説明がないのに、「埋めた」という事実だけが残る。


 次は、石。


 墓標の形が必要だ。

 完璧な墓ではない。

 ただ、崩れない形。


 エルディオは立ち上がる。


 膝がまた痛む。

 痛むのに、顔に出さない。

 そのまま、石を探しに歩く。


 花畑の端のほう。

 土の露出したところ。

 草の根元。


 大きな石は、すぐには見つからない。


 だから探す。


 探すことは、生きる作業だ。

 英雄の目的ではない。

 遺された者の義務だ。


 石を拾う。

 掌に載せて重さを確かめる。

 軽すぎる。

 置く。


 もう一つ拾う。

 形が歪すぎる。

 置く。


 繰り返す。


 繰り返しているうちに、ステラが動く。


 誰に言われたわけでもない。

「手伝う」と宣言しない。

 宣言した瞬間、それは同行の誓いになってしまう。


 誓いは今は要らない。

 言葉は危険だ。


 だから、黙って石を探し始める。


 外套の裾が草を擦る。

 その音が小さく戻っている。

 彼女の指先が土に触れる。

 触れて、石を拾う。


 拾い方はぎこちない。

 魔王の手は破壊の手だった。

 今は、形を作る手になろうとして失敗している。


 石を置きかけて、迷う。


 どこに置けばいいか分からない。

 分からないのに置いてしまうと、崩れる。

 崩れれば、ここで作っているものが「偽物」になる気がする。


 偽物にしたくない。

 でも、本物にしていい資格があるのか分からない。


 迷いが、そのまま指先の止まりになる。


 エルディオは見ていないふりをして、位置を微調整する。


 ステラの置こうとした石を、ほんの数センチずらす。

 ずらし方は乱暴だ。

 しかし正確だ。


 石がぐらつく。

 ぐらついた瞬間、エルディオの手が即座に押さえる。

 押さえ方は、祈りじゃない。


 保つためだ。


 石を積む。

 一つ。

 二つ。

 三つ。


 完璧な墓標ではない。

 形は歪だ。

 高さも揃っていない。


 それでも、崩れない。


 崩れないという事実だけが大事だ。

 祈りではなく、保つ。

 供養ではなく、残す。


 石がまたぐらつく。


 エルディオが黙って直す。

 直し方は速い。

 速いのに、手順は崩れない。


 ステラは石を支えたまま止まる。


 止まる時間は短い。

 短いけれど、確かに「共同作業の間」になる。


 同じ石を、二人の手が支えている。

 同じ重さを、一瞬だけ分け合う。


 言葉はない。

 視線も交わらない。

 交わらないまま、石だけが落ち着く。


 落ち着いた石の上で、風が花を揺らす。


 花弁がまた一枚落ちる。


 落ちた花弁は、積んだ石の隙間に引っかかる。

 引っかかって、そこで止まる。


 止まったものは、消えない。


 それが今は――救いではなく、確定だった。


 ♢


 石は積まれた。


 整えられた、と言うには乱れている。

 祈りの形、と言うには無骨すぎる。


 それでも、崩れない。


 崩れないという事実だけが、この場所に残った。

 花の匂いと、湿った土の重さと、風の厚みと――その上に、石の重さが乗っている。


 エルディオは、石の前に立つ。


 立つ動作に、区切りを作らない。

 息を整えない。

 胸の奥の揺れを落ち着かせようともしない。


 整えてしまえば儀式になる。

 儀式にしてしまえば、言葉が逃げ場になる。


 逃げ場にしたくない。


 ここで言う言葉は、慰めでも救いでもなく、ただの確定だからだ。


 彼の足は、墓に正対しているのに、目は墓を見ていない。


 見たら崩れる。

 崩れるのは感情じゃない。身体だ。

 身体が崩れたら、喉が崩れる。喉が崩れたら、名が溢れる。

 名が溢れた瞬間、袋ごと埋めたはずの灰が、また息をする。


 息をさせたくないわけじゃない。

 息をさせる順番を、まだ選びたいだけだ。


 だから視線は、花畑の少し先へ落ちる。


 空の縁。

 朝焼けに触れかけている淡い線。

 そこに何かがあるわけじゃない。

 ただ、そこなら見ても崩れない、という距離だ。


 彼は声を出す。


 声は低い。

 乾いている。

 怒鳴らない。震えているとも言い切れない。

 震えを隠すために低く落としているだけだ。


「ふたりは、僕の家族だった」


 英雄の報告じゃない。

 戦果の整理でもない。

 誰かに理解してもらうための語りでもない。


 ただ、事実の提出。


 “僕”という一人称が、花畑の上に落ちる。

 落ちた瞬間、風が花を揺らす。

 花弁が数枚、同じ方向へ流れ、土の上に沈む。


 沈む花弁は、灰のようには消えない。

 消えないものの存在が、逆に胸を刺す。


 エルディオは息を整えない。


 次の言葉を準備しない。

 準備すると、それは“言うための言葉”になる。

 言うための言葉は、慰めになる。


 慰めはここに要らない。


「妻と、娘だ」


 短い。


 短いのに、重い。

 重いのに、彼の口はそれ以上の説明を足さない。


 間が落ちる。


 その間に、風がまた花を揺らす。

 揺れた花の香りが濃くなる。

 濃くなった香りが喉の奥を撫でて――撫でるだけで、痛い。


 生活の匂いだからだ。


 生活は、もうここにはない。

 あるのは奪われた断面だけだ。


 エルディオの喉が、一度だけ動く。


 唾を飲み込む音は出ない。

 出ないのに、飲み込むという行為だけが、首筋の筋で分かる。


 それから、もう一つ。


 彼の声が、ほんの僅かに遅れる。

 遅れは躊躇ではない、と彼は思いたい。

 思いたいのに、身体が遅れる。


「もう一人……腹に、子どももいた」


 “胎児”と言わない。

 “命”とも言わない。

 抽象に逃げない。


 腹。


 生活の言葉だ。

 食べて、笑って、眠って、抱えていた場所の言葉だ。


 それを出した瞬間、花畑の色が一段だけ眩しく見える。

 眩しいから救いになるのではない。

 眩しいほどに、奪われたものが輪郭を持つからだ。


 彼は墓を見ない。


 見ないまま、次を落とす。

 これが最後の一文になると、身体が知っている。


「お前たちが侵攻してきたせいで、失った」


 責める声じゃない。

 怒りを込めない。

 それが出来ないわけじゃない。出来る。出来るのに、しない。


 怒鳴れば、ステラは逃げられる。

 逃げる理由が出来る。

「敵だ」と分類できる。

「敵だから殺す」へ戻れる。


 戻らせない。


 これは裁判じゃない。

 赦しでもない。


 事実を置く。

 置いた事実から、逃げ道を奪う。


 言葉が終わる。


 終わったあとに残るのは、花の匂いと風の音と、湿った土の重さだ。

 そして――沈黙。


 ステラは動けない。


 動けないのは凍りついたからではない。

 次の役割が分からないからだ。


 彼女の喉が、一度だけ鳴る。


 言葉にならない音。

 声帯を通りかけて、通れなかった空気の音。

 咳にもならない。嗚咽にもならない。


 それだけで、胸の奥がひどく痛む。


 痛むのに、彼女は泣き声を出さない。

 出したら終わる。

 終わったら、次が分からない。


 指先が外套を掴む。


 掴んだ布がきしむ。

 きしむ音は小さいのに、やけに生々しい。

 生々しさが、現実だ。


 掴む。

 離す。

 また掴む。


 その反復が、彼女の中で何かを探しているのが分かる。

 探しているのは言葉だ。


 ――過激派が勝手にやった。


 頭の中に、その形だけが浮かぶ。

 浮かぶのに、口は開かない。


 開けば、それは弁明になる。

 弁明は役割になる。

 役割になった瞬間、彼女は“魔王として正当化する声”を得てしまう。


 得てしまうのが怖い。


 怖いから、言わない。


 ――謝っても意味がない。


 その形も浮かぶ。

 浮かぶのに、出せない。


 出したら免罪になる。

「意味がないから言わない」という姿勢で、自分を守ってしまう。

 守り方が綺麗すぎる。


 ここに綺麗な免罪は似合わない。

 似合わないものを口にした瞬間、花畑が嘘になる。

 嘘になったら、今積んだ石まで嘘になる。


 だから、言わない。


 言葉が出ない代わりに、身体が反応してしまう。


 目を逸らしそうになる。

 逸らした瞬間に逃げられるからだ。


 でも逸らせない。


 逸らせば、エルディオの言葉が宙に浮く。

 宙に浮いた言葉は、誰のものにもならない。

 誰のものにもならない痛みは、ただ残酷なだけだ。


 だから、見ている。


 見ているのに、表情は動かない。

 動かせない。

 動かしたら、貼り直した仮面が剥がれる。


 剥がれたところから、涙が落ちる。


 落ちても、嗚咽は出ない。

 出さない、ではなく、出せない。


 肩だけが震える。


 震えは小さい。

 小さいのに、止まらない。

 止められない震えが、初めて“罪”の形になる。


 罪を告白する言葉はない。

 謝罪もない。

 言い訳もない。


 ただ、震える肩と、落ちる涙と、外套を掴んで離してまた掴む指先。


 沈黙が、ここで初めて役割になる。


 魔王としての役割ではない。


 逃げない者の沈黙。

 返す言葉を選べない者の沈黙。

 選べないまま立っている、という罪の沈黙。


 エルディオは、彼女を見ない。


 見ないまま、空の縁に視線を置いている。

 置いたまま、息も整えず、何も続けない。


 続ければ語りになる。

 語りになれば、慰めになる。

 慰めになれば、この墓は「耐えられるもの」になる。


 耐えられるものにしたくない。


 耐えられないまま、ここに置く。

 置いたまま、風が花を揺らす。


 揺れる花の音が戻っている。

 戻っている音が、二人の沈黙を薄くしない。

 薄くならない沈黙が、墓の形と同じ重さで残る。


 ――言葉が最小限であることだけが、逃げ道を作らない。


 逃げ道がないから、刺さる。


 刺さったまま、二人とも立っている。


 ♢


 石の前で、エルディオは一度だけ動きを止めた。


 止めた、と言っても、構えるような間ではない。

 祈りに入るための沈黙でもない。


 ただ――身体の中で「次へ行く」ための区切りを探すような、短い停止だ。


 彼は墓を見ない。


 石の積み上げも、土の盛り上がりも、花びらの落ち方も見ない。

 見れば、そこに意味が生まれる。

 意味が生まれれば、言葉が欲しくなる。

 言葉が欲しくなれば、ここに留まってしまう。


 留まりたいわけじゃない。

 留まれる場所でもない。


 だから、視線は相変わらず、花畑の先――空の縁に置かれたままだ。


 エルディオは、ゆっくりと手を合わせる。


 宗教的な仕草ではない。

 祈りの型でもない。


 指と指が合わさるのは、ただの“区切り”だ。

 剣を納める前の所作に近い。

 戦いを終わらせるための、最後の動作。


 彼は祈らない。


 感謝も言わない。

 悔恨も並べない。

 願いも置かない。


 置いたら、ここが「戻る場所」になる。

 戻る場所にしてしまえば、前へ進めなくなる。


 だから、言葉はひとつだけだ。


「……また来るよ」


 声は低い。

 乾いている。

 けれど、ほんの僅かだけ、さっきまでとは違う。


 怒りでも、裁きでも、報告でもない。

 命令でもない。


 柔らかい、というほど温度は上がっていない。

 それでも、“硬さ”だけは抜けている。


「来ます」ではない。

 誓いにすると重すぎる。

「来るつもりだ」でもない。

 予定にすると軽すぎる。


「来る」。


 それだけで、事実にする言い方だ。


 約束でもなく、希望でもなく、ただの現実として、未来に置く。


 手を合わせたまま、数秒も経たない。


 彼はすぐに手を下ろす。

 祈りを引き延ばさない。

 引き延ばすと、別れになる。


 別れにしたくないわけじゃない。

 別れを“終わり”にしたくないだけだ。


 次へ行く。


 行くこと自体が、ここを現実にする方法だから。


 エルディオは、振り返らない。


 振り返らないまま、背中側へ手を差し出す。


 迷いのない動作だ。

 誰かを導く手つきでもない。

 慰めるための手でもない。


 ただ、次の手順。


 この場所から移動するために必要な、動作のひとつ。


 差し出された手は、開かれている。

 掴みに行かない。

 引き寄せもしない。


 取るか、取らないかは、相手に残されている。


 ステラは、その手を見る。


 見るだけで、すぐには動けない。


 彼女の中には、まだ整理できないものが多すぎる。

 沈黙も、涙も、震えも、全部が未処理だ。


 ここまで見てきた。

 ここまで立ち会ってしまった。


 だからこそ、次に何をすればいいのか分からない。


「……なに?」


 声は小さい。

 掠れている。

 媚びていない。


 命令を待つ声でもない。

 拒絶する声でもない。


 ただの確認だ。


 自分が今、どこに立っているのか。

 何を求められているのか。

 それを知らないままでは、動けない。


 エルディオは振り返らない。


 振り返って目を合わせれば、説明することになる。

 説明すれば、理由が生まれる。

 理由が生まれれば、ここまでの沈黙が壊れる。


 だから、背中を向けたまま言う。


「手を取れ」


 短い。

 柔らかくない。

 でも冷酷でもない。


 命令形だが、英雄の号令じゃない。

 誰かを救う声でもない。


 処理だ。


 この場を終わらせ、次へ進むための、必要最低限の言葉。


 ステラは一瞬、躊躇する。


 手を取るという行為が、何を意味するのかを考えてしまう。

 同行なのか。

 拘束なのか。

 赦されたのか。

 連れて行かれるのか。


 どれも、しっくりこない。


 それでも、拒めない。


 拒めば、ここまで見届けたすべてが無意味になる。

 花畑も、墓も、沈黙も、涙も、全部が宙に浮く。


 宙に浮いたままでは、また自分は役割に戻る。

 魔王という、分かりやすい仮面に逃げ込めてしまう。


 それだけは、したくない。


 ステラは、ゆっくりと手を伸ばす。


 指先が震える。

 震えは止められない。

 止めなくていいと、自分に言い聞かせる余裕もない。


 指が、エルディオの手に触れる。


 冷たい。


 袖が涙で湿り、その湿りが冷えている。

 冷えた指先が、彼の手のひらに当たる。


 だが、エルディオの手も温かくない。


 血が回り切っていない。

 疲労で感覚が鈍っている。


 温度のない接触。


 慰めにならない。

 安心にもならない。


 それでも、確かだ。


 確かに、二人は今、触れている。


 ステラは、指を絡めない。

 握りしめもしない。


 ただ、取る。


 取る、という動作だけを成立させる。


 その瞬間――


 足元の影が、一拍だけ遅れる。


 光が遅れるのではない。

 影だけが、ほんの僅かに取り残される。


 花畑の花が、一斉に揺れる。


 揺れて――止まる。


 止まるのは一瞬だ。

 ほんの一拍。

 風が止んだわけではない。


 空気が、薄く押される。


 圧迫感ではない。

 世界が一度、呼吸をするみたいな感触。


 次の瞬間。


 二人の姿が、そこから消える。


 音は置いていかれない。

 風は続いている。

 花の揺れも、すぐに再開する。


 ただ、二つあった影が、なくなる。


 残るのは――


 朝焼けに染まり始めた空。

 穏やかな風。

 揺れる花畑。

 そして、その端に積まれた、崩れない石。


 名前を呼ばれなかった墓が、

 風に揺れる花の中で、先に“現実”になっていた。


 そこには、もう灰の世界の気配はない。


 生きた世界の匂いだけが、静かに残っている。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


この回は、喪失を「説明」ではなく「手順」で確定させることを一番大切にしました。

灰の世界から色が戻る瞬間、土を掘る指先の感触、袋を開けずに埋める選択、崩れない石を積む反復――そういう“行為”の重さだけで、エルディオが何を失って、何を落とさないまま生きているのかが伝わる形を目指しています。


そしてステラには、言い訳も謝罪も与えませんでした。

返す言葉を探せない沈黙、動けない身体、掴んでは離す指先。

「何も言えない」こと自体が、彼女の罪と現実を形にしていく――そんな章になっていれば嬉しいです。


次は、墓参りの旅が本格的に始まります。

エルディオが“見せる”ために進む先で、ステラが何を見届け、どこまで剥がれていくのか。

その過程を、引き続き見守ってもらえたら嬉しいです。

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