155.弔いのみ-3
灰色しかなかった視界に、色が刺さる。
それは突然広がったわけではなかった。
最初に見えたのは、地平線の向こうに滲む、ごく薄い帯だ。
灰の濃淡しかなかった世界の端に、わずかに異質な色が混じる。色というより、温度の違いのようなものだった。
歩みを止めるほどではない。
目を凝らさなければ、見落とす程度の変化だ。
だが、身体のほうが先にそれを拾う。
エルディオの歩幅が、ほんの一瞬だけ乱れる。
止まらない。止まれない。
ただ、次の一歩が、これまでと同じ幅で出なかった。
胸元の袋を押さえる指が、わずかに強くなる。
力を込めた自覚が生まれるより早く、すぐに緩む。
守った。
そして、守りすぎないように、手を離した。
視線が落ちる。
花を見るためじゃない。
足元の色だ。
灰色だった地面が、ところどころ土の色を取り戻している。
黒でも白でもない、湿り気を含んだ茶色。
踏みしめた感触が、遅れずに返ってくる。
――ここは、もう灰の世界じゃない。
エルディオはそう考えたわけじゃない。
ただ、身体が理解した。
風が変わる。
これまで頬を撫でていた風は、軽すぎた。
音を運ばず、匂いを持たず、触れている感覚だけが先行する、薄い風。
今、吹き抜けていく風には、重さがある。
草の匂い。
湿った土の匂い。
どこかで水が残っている気配。
風音が、ちゃんと音になる。
空気が揺れる量に見合った、厚みのある音だ。
エルディオは歩き続ける。
歩幅はすぐに元に戻る。
一定に、一定に――感情が入り込まない速度へ。
その先で、色は少しずつ形になる。
灰が薄くなり、土が露出し、そこから生えているものが見える。
低い草。
その間に、点々と咲く花。
整えられていない。
並べられてもいない。
踏み固められた道もない。
柵もない。
誰かが「ここを花畑にしよう」と決めた形跡がない。
ただ、野に広がっている。
風に揺れ、倒れ、また起き上がる、小さな花たち。
白いもの。
淡い青。
光を透かす薄紅。
種類は混じっている。
群れの密度もまちまちだ。
その無秩序さが、逆に強く胸に引っかかる。
ここは癒しの場所じゃない。
整えられた庭でも、祈りのための場所でもない。
――奪われた日常の、断面だ。
エルディオは花を見ない。
見ないまま、そこへ向かう。
ステラは、半歩後ろでそれを見る。
追っていた足が、無意識に止まりかける。
止まりかけて、すぐに動く。
立ち止まれば、逃げになる。
逃げてしまえば、ここまで追ってきた意味が消える。
花畑を見た瞬間、彼女の表情は変わらない。
眉も動かない。
口元も引き結ばれたままだ。
ただ、喉が詰まる。
息を吸ったはずなのに、空気が途中で引っかかる。
胸まで届かない。
花は、生きている。
生きているという事実が、容赦なく戻ってくる。
現実。
責任。
奪ったもの。
返せないもの。
灰の世界では曖昧にできていた重さが、一気に輪郭を持つ。
それでも、彼女は歩く。
逃げない。
言葉も探さない。
ただ、背中を追う。
灰が完全に途切れ、花の間を風が抜ける。
朝の光が、花弁の薄さを透かす。
この場所は救いじゃない。
救いになるほど、優しくない。
だからこそ、エルディオはここへ来た。
そしてステラは、その背中の後ろで、何も言えないまま立ち続ける。
♢
花畑は、中心が一番うるさい。
色が濃くて、香りが濃くて、風が花弁を揺らすたびに――「ここは生きている」と主張する。
生きている主張は、今のエルディオには強すぎる。
だから彼は、中心へ行かない。
花の密度が少し落ちるほうへ。
草丈が低くなって、土が見えるほうへ。
それでも花は咲いていて、風は抜けて、遠くが見える。
畑の端。
端というより、少し高い場所だ。
丘と呼べるほどの高さじゃない。
ただ、足裏がわずかに上りを感じる程度。
その僅かな高低差が、視界を変える。
灰の世界が遠ざかっていく線。
そこを抜けてきた自分たちの足跡――付いたはずの形が、もう薄れている。
風が吹けば消える、という当然の現実が、今は妙に鋭い。
目印になる。
風が抜ける。
遠くが見える。
言葉にしなくても、身体が覚えられる場所だ。
エルディオはそこで止まる。
止まるのに、儀式みたいな間取りは作らない。
花の中心に立って、空へ顔を上げて、何かを誓うような動きはしない。
ただ、地面を見る。
見る目は感傷の目じゃない。
土を読む目だ。
掘れるか。
石はあるか。
草が邪魔をしないか。
戦場の墓の目だ。
道具はない。
鍬もない。
剣で掘るような真似もしない。剣は武器だ。武器を墓に使えば、意味が変わる。
意味が変われば、感情が立ち上がる。
感情が立ち上がれば、喉が壊れる。
だから――手だ。
エルディオは膝をつく。
この作品の中で、膝をつく動作は重い。
屈服にも見えるし、祈りにも見えるし、崩れにも見える。
それを、今の彼は選ぶ。
膝が土に触れた瞬間、痛みが来る。
戦いの最中には遅れていた痛みが、ここでは遅れない。
膝の関節が軋み、太腿の奥が張り、肋の下が引きつる。
痛みは身体の内側から、正確な位置情報を持ってやって来る。
――ここが壊れている、と。
彼は顔に出さない。
出せば、ステラが言葉を探してしまう。
「大丈夫か」でも「やめろ」でもない、何か余計な言葉を。
余計な言葉は役割を呼ぶ。
役割は鎧を呼ぶ。
鎧が戻れば、彼女は魔王に戻れる。
戻れることが、今は危険だ。
だから、痛みを沈める。
沈めて、作業に移る。
指先が土に触れる。
最初の一掻きは浅い。
表面の草を分け、根を避け、土の層を見つける。
土は湿っている。
湿り気が指腹にまとわりつく。
その重さが現実だ。
指先で土を抉る。
掻く。
掻いて、掌に溜めて、横へ避ける。
避けた土は雑に捨てない。
戻すために、置く。
――順番を崩さない。
丁重さではない。
丁寧に扱うことで優しさを示すのではない。
ただ、手順の正確さだけが彼の理性を保つ。
掘る。
掘って、土を避ける。
掘って、また避ける。
爪の隙間に土が入る。
爪の先が黒くなる。
指先の皮膚が擦れて熱を持つ。
熱が痛みに変わる前に、また次の一掻きが入る。
途中で、小石が当たる。
指が硬いものに弾かれ、鈍い痛みが走る。
止まらない。
止まると、その痛みが「失ったこと」と結びつくからだ。
彼は石を取り除く。
指先で土を掻き、石の縁を露出させる。
露出した石を、掌で掴んで引き抜く。
引き抜いた石は投げない。
横へ置く。
後で、使えるかもしれないから。
深さは、十分じゃない。
手で掘れる深さなど、たかが知れている。
時間も限られている。
指の皮膚も、痛みも、限界がある。
それでも――ここで妥協しない。
「それなり」でいい、と言ってしまえば終わる。
終わるのは救いのはずなのに、終わらせたくないものがある。
終わらせたくない執着を、彼は言葉にしない。
言葉にしない代わりに、作業に変換する。
掘る。
掘って、掘って、掘って――“それなりの深さ”に達するまで。
ようやく、掌が入るくらいの穴になる。
土の湿り気が増し、重さが増す。
指に残る重さが、ここが地面であることを確定する。
エルディオは一度だけ、息を吐く。
息は白くない。
ここは寒さじゃない。
白くなる代わりに、湿った土の匂いが喉に入ってくる。
そして――袋。
彼は袋を持ち上げない。
捧げるように掲げない。
両手で抱えて胸に寄せたりもしない。
そうすれば、それは「遺品」になる。
遺品になれば、感情が入る。
感情が入れば、名が出る。
名が出れば、彼はここで崩れる。
だから、袋は身体の中心に置いたまま。
中心線から外さず、ただ、穴の上へ位置を移す。
胸元から腹の境界へ。
身体の動きに合わせて、袋が滑る。
その瞬間、手が止まる。
止まる理由は、言語化されない。
止まった時間は短い。
短いのに、風が一つ吹き抜けた気がする。
エルディオは袋を開けない。
灰を撒かない。
撒けば、散る。
散れば、あの灰の世界が再来する。
足跡が消えるみたいに、ここでまた消えてしまう。
消えてしまうものを、もう見たくない。
だから、袋ごと埋める。
袋は音を立てない。
布は柔らかく、落としても「落ちた」という音がしない。
それでも、土に触れた瞬間の鈍い感触がある。
――重い。
持っているときの重さではない。
土に預けたときの重さだ。
預けた瞬間、袋は「物」になる。
物になるほど、戻れなくなる。
戻れないことに、彼は表情を変えない。
変えないまま、土を戻す。
掌で土をすくい、穴へかける。
一掬い。
二掬い。
土の湿り気が指に残る。
残る重さが、掌の線に沿って滑る。
滑って、袋の上に落ちる。
そのたび、風が花畑を撫でる。
花弁が一枚、落ちる。
落ちた花弁は、土に触れる前に揺れる。
揺れて、土の上に降りる。
土をかけるたびに、花びらが一枚落ちる。
偶然だ。
偶然なのに、数が揃っていくみたいで怖い。
淡々としている。
淡々としているほど、苦しい構造だ。
声も出ない。
涙も出ない。
ただ作業が進む。
土で穴が埋まる。
埋まりきったところで、掌で上をならす。
押さえつけるのではない。
整える。
整えることが、確定だ。
ここまでで、喪失は説明されていない。
説明がないのに、「埋めた」という事実だけが残る。
次は、石。
墓標の形が必要だ。
完璧な墓ではない。
ただ、崩れない形。
エルディオは立ち上がる。
膝がまた痛む。
痛むのに、顔に出さない。
そのまま、石を探しに歩く。
花畑の端のほう。
土の露出したところ。
草の根元。
大きな石は、すぐには見つからない。
だから探す。
探すことは、生きる作業だ。
英雄の目的ではない。
遺された者の義務だ。
石を拾う。
掌に載せて重さを確かめる。
軽すぎる。
置く。
もう一つ拾う。
形が歪すぎる。
置く。
繰り返す。
繰り返しているうちに、ステラが動く。
誰に言われたわけでもない。
「手伝う」と宣言しない。
宣言した瞬間、それは同行の誓いになってしまう。
誓いは今は要らない。
言葉は危険だ。
だから、黙って石を探し始める。
外套の裾が草を擦る。
その音が小さく戻っている。
彼女の指先が土に触れる。
触れて、石を拾う。
拾い方はぎこちない。
魔王の手は破壊の手だった。
今は、形を作る手になろうとして失敗している。
石を置きかけて、迷う。
どこに置けばいいか分からない。
分からないのに置いてしまうと、崩れる。
崩れれば、ここで作っているものが「偽物」になる気がする。
偽物にしたくない。
でも、本物にしていい資格があるのか分からない。
迷いが、そのまま指先の止まりになる。
エルディオは見ていないふりをして、位置を微調整する。
ステラの置こうとした石を、ほんの数センチずらす。
ずらし方は乱暴だ。
しかし正確だ。
石がぐらつく。
ぐらついた瞬間、エルディオの手が即座に押さえる。
押さえ方は、祈りじゃない。
保つためだ。
石を積む。
一つ。
二つ。
三つ。
完璧な墓標ではない。
形は歪だ。
高さも揃っていない。
それでも、崩れない。
崩れないという事実だけが大事だ。
祈りではなく、保つ。
供養ではなく、残す。
石がまたぐらつく。
エルディオが黙って直す。
直し方は速い。
速いのに、手順は崩れない。
ステラは石を支えたまま止まる。
止まる時間は短い。
短いけれど、確かに「共同作業の間」になる。
同じ石を、二人の手が支えている。
同じ重さを、一瞬だけ分け合う。
言葉はない。
視線も交わらない。
交わらないまま、石だけが落ち着く。
落ち着いた石の上で、風が花を揺らす。
花弁がまた一枚落ちる。
落ちた花弁は、積んだ石の隙間に引っかかる。
引っかかって、そこで止まる。
止まったものは、消えない。
それが今は――救いではなく、確定だった。
♢
石は積まれた。
整えられた、と言うには乱れている。
祈りの形、と言うには無骨すぎる。
それでも、崩れない。
崩れないという事実だけが、この場所に残った。
花の匂いと、湿った土の重さと、風の厚みと――その上に、石の重さが乗っている。
エルディオは、石の前に立つ。
立つ動作に、区切りを作らない。
息を整えない。
胸の奥の揺れを落ち着かせようともしない。
整えてしまえば儀式になる。
儀式にしてしまえば、言葉が逃げ場になる。
逃げ場にしたくない。
ここで言う言葉は、慰めでも救いでもなく、ただの確定だからだ。
彼の足は、墓に正対しているのに、目は墓を見ていない。
見たら崩れる。
崩れるのは感情じゃない。身体だ。
身体が崩れたら、喉が崩れる。喉が崩れたら、名が溢れる。
名が溢れた瞬間、袋ごと埋めたはずの灰が、また息をする。
息をさせたくないわけじゃない。
息をさせる順番を、まだ選びたいだけだ。
だから視線は、花畑の少し先へ落ちる。
空の縁。
朝焼けに触れかけている淡い線。
そこに何かがあるわけじゃない。
ただ、そこなら見ても崩れない、という距離だ。
彼は声を出す。
声は低い。
乾いている。
怒鳴らない。震えているとも言い切れない。
震えを隠すために低く落としているだけだ。
「ふたりは、僕の家族だった」
英雄の報告じゃない。
戦果の整理でもない。
誰かに理解してもらうための語りでもない。
ただ、事実の提出。
“僕”という一人称が、花畑の上に落ちる。
落ちた瞬間、風が花を揺らす。
花弁が数枚、同じ方向へ流れ、土の上に沈む。
沈む花弁は、灰のようには消えない。
消えないものの存在が、逆に胸を刺す。
エルディオは息を整えない。
次の言葉を準備しない。
準備すると、それは“言うための言葉”になる。
言うための言葉は、慰めになる。
慰めはここに要らない。
「妻と、娘だ」
短い。
短いのに、重い。
重いのに、彼の口はそれ以上の説明を足さない。
間が落ちる。
その間に、風がまた花を揺らす。
揺れた花の香りが濃くなる。
濃くなった香りが喉の奥を撫でて――撫でるだけで、痛い。
生活の匂いだからだ。
生活は、もうここにはない。
あるのは奪われた断面だけだ。
エルディオの喉が、一度だけ動く。
唾を飲み込む音は出ない。
出ないのに、飲み込むという行為だけが、首筋の筋で分かる。
それから、もう一つ。
彼の声が、ほんの僅かに遅れる。
遅れは躊躇ではない、と彼は思いたい。
思いたいのに、身体が遅れる。
「もう一人……腹に、子どももいた」
“胎児”と言わない。
“命”とも言わない。
抽象に逃げない。
腹。
生活の言葉だ。
食べて、笑って、眠って、抱えていた場所の言葉だ。
それを出した瞬間、花畑の色が一段だけ眩しく見える。
眩しいから救いになるのではない。
眩しいほどに、奪われたものが輪郭を持つからだ。
彼は墓を見ない。
見ないまま、次を落とす。
これが最後の一文になると、身体が知っている。
「お前たちが侵攻してきたせいで、失った」
責める声じゃない。
怒りを込めない。
それが出来ないわけじゃない。出来る。出来るのに、しない。
怒鳴れば、ステラは逃げられる。
逃げる理由が出来る。
「敵だ」と分類できる。
「敵だから殺す」へ戻れる。
戻らせない。
これは裁判じゃない。
赦しでもない。
事実を置く。
置いた事実から、逃げ道を奪う。
言葉が終わる。
終わったあとに残るのは、花の匂いと風の音と、湿った土の重さだ。
そして――沈黙。
ステラは動けない。
動けないのは凍りついたからではない。
次の役割が分からないからだ。
彼女の喉が、一度だけ鳴る。
言葉にならない音。
声帯を通りかけて、通れなかった空気の音。
咳にもならない。嗚咽にもならない。
それだけで、胸の奥がひどく痛む。
痛むのに、彼女は泣き声を出さない。
出したら終わる。
終わったら、次が分からない。
指先が外套を掴む。
掴んだ布がきしむ。
きしむ音は小さいのに、やけに生々しい。
生々しさが、現実だ。
掴む。
離す。
また掴む。
その反復が、彼女の中で何かを探しているのが分かる。
探しているのは言葉だ。
――過激派が勝手にやった。
頭の中に、その形だけが浮かぶ。
浮かぶのに、口は開かない。
開けば、それは弁明になる。
弁明は役割になる。
役割になった瞬間、彼女は“魔王として正当化する声”を得てしまう。
得てしまうのが怖い。
怖いから、言わない。
――謝っても意味がない。
その形も浮かぶ。
浮かぶのに、出せない。
出したら免罪になる。
「意味がないから言わない」という姿勢で、自分を守ってしまう。
守り方が綺麗すぎる。
ここに綺麗な免罪は似合わない。
似合わないものを口にした瞬間、花畑が嘘になる。
嘘になったら、今積んだ石まで嘘になる。
だから、言わない。
言葉が出ない代わりに、身体が反応してしまう。
目を逸らしそうになる。
逸らした瞬間に逃げられるからだ。
でも逸らせない。
逸らせば、エルディオの言葉が宙に浮く。
宙に浮いた言葉は、誰のものにもならない。
誰のものにもならない痛みは、ただ残酷なだけだ。
だから、見ている。
見ているのに、表情は動かない。
動かせない。
動かしたら、貼り直した仮面が剥がれる。
剥がれたところから、涙が落ちる。
落ちても、嗚咽は出ない。
出さない、ではなく、出せない。
肩だけが震える。
震えは小さい。
小さいのに、止まらない。
止められない震えが、初めて“罪”の形になる。
罪を告白する言葉はない。
謝罪もない。
言い訳もない。
ただ、震える肩と、落ちる涙と、外套を掴んで離してまた掴む指先。
沈黙が、ここで初めて役割になる。
魔王としての役割ではない。
逃げない者の沈黙。
返す言葉を選べない者の沈黙。
選べないまま立っている、という罪の沈黙。
エルディオは、彼女を見ない。
見ないまま、空の縁に視線を置いている。
置いたまま、息も整えず、何も続けない。
続ければ語りになる。
語りになれば、慰めになる。
慰めになれば、この墓は「耐えられるもの」になる。
耐えられるものにしたくない。
耐えられないまま、ここに置く。
置いたまま、風が花を揺らす。
揺れる花の音が戻っている。
戻っている音が、二人の沈黙を薄くしない。
薄くならない沈黙が、墓の形と同じ重さで残る。
――言葉が最小限であることだけが、逃げ道を作らない。
逃げ道がないから、刺さる。
刺さったまま、二人とも立っている。
♢
石の前で、エルディオは一度だけ動きを止めた。
止めた、と言っても、構えるような間ではない。
祈りに入るための沈黙でもない。
ただ――身体の中で「次へ行く」ための区切りを探すような、短い停止だ。
彼は墓を見ない。
石の積み上げも、土の盛り上がりも、花びらの落ち方も見ない。
見れば、そこに意味が生まれる。
意味が生まれれば、言葉が欲しくなる。
言葉が欲しくなれば、ここに留まってしまう。
留まりたいわけじゃない。
留まれる場所でもない。
だから、視線は相変わらず、花畑の先――空の縁に置かれたままだ。
エルディオは、ゆっくりと手を合わせる。
宗教的な仕草ではない。
祈りの型でもない。
指と指が合わさるのは、ただの“区切り”だ。
剣を納める前の所作に近い。
戦いを終わらせるための、最後の動作。
彼は祈らない。
感謝も言わない。
悔恨も並べない。
願いも置かない。
置いたら、ここが「戻る場所」になる。
戻る場所にしてしまえば、前へ進めなくなる。
だから、言葉はひとつだけだ。
「……また来るよ」
声は低い。
乾いている。
けれど、ほんの僅かだけ、さっきまでとは違う。
怒りでも、裁きでも、報告でもない。
命令でもない。
柔らかい、というほど温度は上がっていない。
それでも、“硬さ”だけは抜けている。
「来ます」ではない。
誓いにすると重すぎる。
「来るつもりだ」でもない。
予定にすると軽すぎる。
「来る」。
それだけで、事実にする言い方だ。
約束でもなく、希望でもなく、ただの現実として、未来に置く。
手を合わせたまま、数秒も経たない。
彼はすぐに手を下ろす。
祈りを引き延ばさない。
引き延ばすと、別れになる。
別れにしたくないわけじゃない。
別れを“終わり”にしたくないだけだ。
次へ行く。
行くこと自体が、ここを現実にする方法だから。
エルディオは、振り返らない。
振り返らないまま、背中側へ手を差し出す。
迷いのない動作だ。
誰かを導く手つきでもない。
慰めるための手でもない。
ただ、次の手順。
この場所から移動するために必要な、動作のひとつ。
差し出された手は、開かれている。
掴みに行かない。
引き寄せもしない。
取るか、取らないかは、相手に残されている。
ステラは、その手を見る。
見るだけで、すぐには動けない。
彼女の中には、まだ整理できないものが多すぎる。
沈黙も、涙も、震えも、全部が未処理だ。
ここまで見てきた。
ここまで立ち会ってしまった。
だからこそ、次に何をすればいいのか分からない。
「……なに?」
声は小さい。
掠れている。
媚びていない。
命令を待つ声でもない。
拒絶する声でもない。
ただの確認だ。
自分が今、どこに立っているのか。
何を求められているのか。
それを知らないままでは、動けない。
エルディオは振り返らない。
振り返って目を合わせれば、説明することになる。
説明すれば、理由が生まれる。
理由が生まれれば、ここまでの沈黙が壊れる。
だから、背中を向けたまま言う。
「手を取れ」
短い。
柔らかくない。
でも冷酷でもない。
命令形だが、英雄の号令じゃない。
誰かを救う声でもない。
処理だ。
この場を終わらせ、次へ進むための、必要最低限の言葉。
ステラは一瞬、躊躇する。
手を取るという行為が、何を意味するのかを考えてしまう。
同行なのか。
拘束なのか。
赦されたのか。
連れて行かれるのか。
どれも、しっくりこない。
それでも、拒めない。
拒めば、ここまで見届けたすべてが無意味になる。
花畑も、墓も、沈黙も、涙も、全部が宙に浮く。
宙に浮いたままでは、また自分は役割に戻る。
魔王という、分かりやすい仮面に逃げ込めてしまう。
それだけは、したくない。
ステラは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が震える。
震えは止められない。
止めなくていいと、自分に言い聞かせる余裕もない。
指が、エルディオの手に触れる。
冷たい。
袖が涙で湿り、その湿りが冷えている。
冷えた指先が、彼の手のひらに当たる。
だが、エルディオの手も温かくない。
血が回り切っていない。
疲労で感覚が鈍っている。
温度のない接触。
慰めにならない。
安心にもならない。
それでも、確かだ。
確かに、二人は今、触れている。
ステラは、指を絡めない。
握りしめもしない。
ただ、取る。
取る、という動作だけを成立させる。
その瞬間――
足元の影が、一拍だけ遅れる。
光が遅れるのではない。
影だけが、ほんの僅かに取り残される。
花畑の花が、一斉に揺れる。
揺れて――止まる。
止まるのは一瞬だ。
ほんの一拍。
風が止んだわけではない。
空気が、薄く押される。
圧迫感ではない。
世界が一度、呼吸をするみたいな感触。
次の瞬間。
二人の姿が、そこから消える。
音は置いていかれない。
風は続いている。
花の揺れも、すぐに再開する。
ただ、二つあった影が、なくなる。
残るのは――
朝焼けに染まり始めた空。
穏やかな風。
揺れる花畑。
そして、その端に積まれた、崩れない石。
名前を呼ばれなかった墓が、
風に揺れる花の中で、先に“現実”になっていた。
そこには、もう灰の世界の気配はない。
生きた世界の匂いだけが、静かに残っている。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この回は、喪失を「説明」ではなく「手順」で確定させることを一番大切にしました。
灰の世界から色が戻る瞬間、土を掘る指先の感触、袋を開けずに埋める選択、崩れない石を積む反復――そういう“行為”の重さだけで、エルディオが何を失って、何を落とさないまま生きているのかが伝わる形を目指しています。
そしてステラには、言い訳も謝罪も与えませんでした。
返す言葉を探せない沈黙、動けない身体、掴んでは離す指先。
「何も言えない」こと自体が、彼女の罪と現実を形にしていく――そんな章になっていれば嬉しいです。
次は、墓参りの旅が本格的に始まります。
エルディオが“見せる”ために進む先で、ステラが何を見届け、どこまで剥がれていくのか。
その過程を、引き続き見守ってもらえたら嬉しいです。




