第25話
それは硝子の砕ける音に似ていた。
魔力の残滓が千々に舞い散り、いっそ幻想的に見える光景。その中心で結界を突破した魔獣の姿が間近に見えた。
(――ッ)
心のどこかで予感はしていた。
結界は生活魔力を流用しており、いくらラプラス型とはいえ、軍用炉心に比べると瞬発的な出力は劣るのだ。現にガストンも言っていた。
『中型や小型魔獣の攻撃は充分防げるはずだ』
それはつまり、大型魔獣の全力の体当たりは、防ぎきれない。
それを理解するイグナの前で魔獣は体勢を崩しながらも、こちらを睨みつけ。
魔獣が、こちらに向かって近づいてくる。
首をこちらに向け、口を大きく開き。
乱杭歯が、間近まで迫ってきて。
「イグナさん!」
横から響いた声と共に、身体が後ろに突き飛ばされた。前に女性の姿が見えた。黒髪を揺らしながら彼女はイグナの前で、魔獣に立ちはだかり――。
直後、凄まじい轟音と衝撃で身体が後ろに吹き飛ばされた。
生臭い風が、身を揺らした。
「――ぐ……」
喉から妙な声が漏れた。口の中が鉄臭く、喉に何か詰まっている。
咳き込むと、喉の奥の熱い何かも共に噴き出た。手で押さえると、真っ赤な液体が掌に広がっていた――血だ。それを見た瞬間、思考が再び動き出す。
(……どうなった? どれくらい、気を失って――)
その思考は、前で響き渡る振動と遮られた。生温かく風に土埃が舞い上がる。その中で 顔を上げ――思わず絶句する。
薄暗い視界に飛び込んできたのは、魔獣の巨大な口腔だった。視線を少し上げれば、不気味な乱杭歯が釣り下がっている。足元には下顎の牙が地面から生えているようにそびえている。
生臭い風は、この魔獣の吐息だ。
そして――イグナと魔獣の間、魔獣の口の前に一人の女性が膝をついていた。
「……ご無事、ですか。イグナ、さん……」
「ロゼリカさん……」
振り返った彼女の手には一本の槍があった。その穂先が魔獣の上顎に突き立ち、石突きは割れた床に突き立てられている。
どうやらロゼリカは魔獣の突進を受けながら、槍を突き放っていたらしい。
それが上手く上顎に突き刺さったことで、つっかえ棒のような役割を果たしたようだ。それがなければ恐らく、イグナとロゼリカも竜の口の中で潰れていただろう。
だが、そのロゼリカも満身創痍であり、額から血を流している。
「……すみ、ません……踏ん張るのが、精一杯、でした」
「いえ……それだけでもすごいですよ……」
「ただ、これもここまでです――この魔獣が意識を失っているようですが、それが回復すれば……我々はおしまいです。ですから……」
そう告げるロゼリカの瞳に揺るぎない眼差しをしていた。視線を魔獣に向けながらはっきりとした口調で続ける。
「イグナさんは、逃げて下さい」
「ロゼリカさんは……」
「私は時間稼ぎです。この体勢ならあわよくば、魔獣を倒せるかもしれません」
「……そんな……」
ロゼリカが力持ちだからといっても、それは無理なのが分かる。
槍は辛うじてつっかえ棒の役割を果たしており、今にも折れそうになっている。そんな槍で魔獣の上顎が貫けるとは思えない。
そうなれば――確実に彼女は、死んでしまう。
それを思ったとき、脳裏にラヴィリエの無邪気な笑顔が蘇った。
ロゼリカに親しげに話す彼女はいつも楽しげだ。数日前、彼女が楽しそうに話していた言葉を思い出す。
『ロゼリカはね、私にとって姉みたいなものなの。幼い頃から面倒を見てくれて、一緒に遊んでくれて――だから、お父様や兄様と同じくらい、大事な人』
そんな人を失ったらどんな顔をするのか――想像もしたくない。
(だけど、どうやって二人で生き延びれば……)
二人で逃げる。その考えが頭に過ぎり、思わず首を振った。
(ダメだ、それは一番の愚策だ)
仮に二人でこの場を逃げられたとしても、魔獣は生きたまま放置されることになる。その状況で暴れられれば、この結界塔は確実に崩壊する。
それが意味することは、この第一結界の崩壊。
よしんば二人で逃げ切れたとしても、都市は犠牲になってしまう。
それはイグナもロゼリカも望むところではない。
つまるところ、結論は一つ――魔獣を確実にここで仕留めねばならない。
魔獣が気絶し、無防備な喉を晒している今、ここで。
(けど、どうやって――)
イグナは戦士でも、魔術師でもない――魔技士だ。
ここには武器はなく、あるのは自分の工具だけ。
魔獣に対する知識もない。あるのは魔導技術に精通した知識だ。
魔石を弄ることなら誰にも負けない。だが、戦いに関しては一切――。
(――待て……魔石……)
視線を動かし、炉心の残骸を見やる。思考に今までの経験が蘇る。
行けるだろうか。
否。
(やるしか、ない……)
イグナは奥歯を噛みしめると、軋む身体に鞭打って立ち上がり、ロゼリカに背を向ける。彼女の安堵する気配が伝わるが、それを無視して炉心の残骸に近づく。
そして、その中心に転がっていたそれを拾い上げた。




