エピローグ-2 朧の祈り
神殿に一人取り残され、どうせ誰も来ないだろうと高を括っていたのに。
こういう時に限って〝招かれざる客人〟はあるもの。
裏口の方で鐘の鳴る音に息を呑むと、咄嗟に厚い眼鏡を外し、急ぎ不審な来訪に応じる。
背はあの娘よりも自身の方がかなり小さかったけれど、今は同じ修道服だし、恐らく問題など起きようがない。そう自分を励まして。
「な………何か、御用でしょうか?」
恐らく農耕騎士らも逐一顔までは覚えていないだろう。
勇気を振り絞って扉を開けてみると、眼前に現れたのは、例の〝信者〟と思しき胡乱な男だった。
薄汚れた黒の外套を纏い、フードを目深に被って、右手には小さな歩行杖を携えている。
「――――今日は、君だけか?」
その嗄れた声に強い不快感を覚え、身体が強張ってしまったものの、出来るだけ冷静に努め、頷いておく。
朝方に帰ってしまったあの老練の騎士より更に老いて見えたこの男は、お世辞にも矍鑠とは言い難い、弱々しい雰囲気だった。
バレないよう眼鏡を外してきてしまったため、少し見上げた位置にある顔立ちまでは能く分からなかったけれど、何だか意識の片隅に引っ掛かるものがある。
以前遠くから見た時とは、随分印象が違っていた。
「ユメリーという女性は、明日は来るだろうか」
「……彼女は先日、別の修道院に異動となりました。私が後任の者ですが、如何されましたでしょう?」
心臓が跳ね回りつつ、平静を装い、成る可く堅そうな言い回しで用件を聞き出そうと試みる。
「そうか……それでは今年の寄付だ。神殿長辺りに渡しておいて欲しい」
お礼を言い、差し出された革袋を丁重に両手で受け取ろうとしたところで、白髪交じりの信者の男が前髪の隙間から一瞬だけこちらを睨め付けてきたように感じられた。
恐怖で小さな悲鳴が口を衝きそうになったけれど、男はそのまま何も言わず、ゆっくりと踵を返す。
そうして右手に持った杖を頼りに、左足を引き摺りながら去っていく。
――その姿はまるで、土の底から這い出た屍のようだった。
彼の背を見て少し安堵するも、未だ両手にすっぽりと収まっているそれは、金貨にしては重量と質感が少しおかしい気がする。
危険な物でないか、中身を検めようと、レナリアは黒装束の男が完全に居なくなっているのを確認し、扉をしっかり閉じてから、恐る恐る革袋の中を覗き込んでみる。
(…………宝……石?)
そこには亡者のような男からは想像も付かない、華やいだ沢山の輝きがあった。
一見して、相当価値の有る物ばかりと分かる。
まさか盗品の類では、と一瞬疑念が過ぎったものの、直後、折り畳まれた一片の小さな紙が入っているのが目に入った。
いけない、とは思いつつ、好奇心に負けて紙を開いてしまう。
そこに記されていたのは、入っている宝石の明細に加え、意外な事に、自身への予言めいた言葉だった。
〝大変申し訳無いが、寄付は今年で最後とさせていただきたい。なお、近々十七を迎えるという星の子は、間も無く星の導きが示されるであろう。出来ればその際、この半分をその子に託しておいてはいただけないだろうか――〟
先の口調とは裏腹に、少しだけ慇懃めいた書信を目の当たりにし、応対した時よりもずっと、心臓が早鐘を打ち始めていた。
震える指で急ぎ紙を戻し、何も見なかった事にしようと努める。
しかし、不意に見てしまったあの言葉、心の奥に焼き付いてしまったそれを消す事など、幾ら目を緊く閉じて深呼吸しようとも、不可能だった。
――――何故。
――――どうして。
錫色の髪に覆われたレナリアの頭の中は、良くない想像と動揺だけが渦巻き、他に何も考える事が出来なくなってしまっていた。
あの妖しげな男は、一体何者なのだろう。
何故私に導きが示される事を知っているのだろう。
ひょっとして、占星術士か何かなのだろうか。
しかも、どうして寄付の半分を私に渡そうとするのか。
まさか私は、売られてしまったのだろうか。
果たして私は、どの家に迎え入れられるのだろう。
他にも、あの男に何か邪な考えがあるのかもしれない。
夕暮れ時、信者の帰った裏口から出るのは気が引けたため、かつて自身が置かれていたという神殿の正面から出て、しっかりと施錠をしておく。
受け取った小さな革袋は、何だか呪われた品のように思えてしまったため、このまま離れには持ち帰りたくなかったけれど、他に安全そうな場所も思い当たらない。
仕方なく持ち帰って自室の机に置き、出来る限り視界に入れないよう努めた。
(こんなもの、明日出来るだけ早く神殿長様に渡してしまおう。ああでも、私から直接渡しちゃったら、彼女が途中で帰った事まで分かってしまう。どうしよう……どうしよう……)
床に就くまでの間、少女は自分が何処でどう行動したかを思い出す事が出来なかった。
そうして渦巻く思考から解放され、何とか眠りに落ちるまで、とても長い時間を要してしまった。
その夜レナリアは、不思議な夢を見る。
まるで身に覚えはないのに、とても懐かしく感じられる――長くて短い、不思議な夢を。
* * *
明くる朝、彼女は夙に目覚めると、寄付の革袋の事もすっかり忘れ、薄い寝間着のまま、一心不乱に駆け出していた。
目指すべき先は、例の信者が住まうという墓地。
以前修道騎士の一人が事故で急逝してしまった時、葬送に立ち会う必要があり、一度訪れた事があったから、場所は大体分かっている。
足元はまだ昏く、覚束無い。
それでも気が気では無くて、只管急ぐ外無かった。
どんなに一生懸命に走ってみても全然足りなくて。
呼吸が上擦り、胸がはち切れそうで。
皆よりずっと虚弱な自身の体躯が、より一層恨めしく思えた。
それでもこの胸の痞えと苦しみは、限界以上に身体を動かそうとしているからだけではないと、心の何処かで悟っていた。
「はぁ、はぁっ…………ま、待ってください! レルゼアさんっ!」
墓地の最奥。
窪んだ大地の壁に凭れ掛かるような荒ら屋の前で、大きな荷物を携えながら、今にも遠くに出立しようとするその男を見咎めた。
周囲が仄明るさを纏う中、緩やかに世界が滲み始めている。
無論、それは弱い視力の所為ではなかった。
「…………昨日の君か。どうした?」
平然と、冷然と、まるで突き放すかのように、彼は素知らぬ振りを続けていた。
黒装束の男の向こう側には、最盛期を大幅に過ぎたと思われる小型の乗用飛竜が、こちらを見ていた。
かつての名を呼ばれて否定しない男の元へ、意を決し、再び全力で駆け出す。
あと十歩、五歩、半歩。
そうしてようやく彼にしがみ付く事が出来たところで、男は老体ながら右足と杖で器用にバランスを取って彼女の事を受け止めた。
ただ、このままでは、少しだけ距離が足りない。
見知った顔の詳細まで、きちんと確認する事が出来ない。
相手の片足が悪いとはいえ、自身の力が弱く、体格の差も有り過ぎたため、錫色の髪をした少女は無意識に心の中で祈りを捧げていた。
(――――シルフさん……お願い!)
微かな旋風が男の軸足を絡め取る。
彼は携えていた大袋を傍らに落とし、その場に尻餅を搗く。
小さな少女も一緒になって倒れ込み、少しだけ攀じ登って、何とか顔同士を近付けた。
そうして鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで迫ってから、いつの間にか大量に零れ出していた涙を大雑把に拭い、じっと彼の顔を見定める。
「痛いな…………悪戯にしては、度が過ぎる」
信者たる男の落ち着いた吐息と、少女の酷く乱れた吐息が触れ合う程の、ぼやけた世界がやっと綺麗に映る位の近さで、二人は視線を交わす。
深く刻まれた憂苦の皺に加え、そこかしこに染みや爛れこそあれ、それは間違いなく昨日の夢に見た、以前僅かな旅を共にした、〝例の鉱石術士〟だった。
彼の衣服には、この地に繋がれて以来湿気った腐臭が色濃く染み付いてしまっていたものの、レナリアは終ぞそれに意識を割く事は無かった。
「どうして……っ! どうして私は、ここに居るんですかっ?」
無我夢中で問い詰める。
もう今朝からずっと、〝リテュエッタとしての記憶〟と〝レナリアとしての意識〟が、色の無い水同士が混ざりゆくように、ゆっくりと同化し始めている。
「…………君がここに来た理由なら、私の方が先に何故だと尋ねただろう?」
そう言いつつも、黒き術士は明らかに視線を泳がせている。
その白ばっくれて連れない態度こそが、偽りの無い証明であり、彼女への答えだった。
部屋着のままの少女は、元来肌の色素も薄い方だったけれど、襟元を握り締める指先に力を込め過ぎて、更に青白く染まってしまっていく。
「今朝目が覚めてから私……もう何が何だか分からなくて……一体どうして……」
お気に入りだった綺麗な浅葱色の服は、土埃や道中の生い茂っていた草木を擦った跡で、酷く汚れてしまっている。
しかし今はもう、そんな事、どうでも良かった。
「――そろそろ退いてはくれないだろうか」
伸し掛かってくる彼女は羽根のように軽かったものの、それでも今は引き剥がし、飛び立たせてやらねばならない。
そんな老いた男の思惑とは裏腹に、彼女は彼の胸元に顔を埋め、必死になって大きく首を振り、抵抗してみせた。
あの時とは違い――ほんの一瞬だけ躊躇ってから、レナリアの錫色の髪に触れ、混乱し切った彼女を宥め賺す。
骨張ってしまったその指で、一頻り撫で続けて――。




