玉髄
「断るってどういうこった!」
障子を突き破り、外にまで木霊した大きな声に驚いたのか、庭の木にとまっていた鳥が慌てて羽ばたく音がした。
「平助、声がでけえ」
「あ、ああ、ごめんって……」
浮かせた腰を下ろし、平助が再度近藤に
「どういうことだよ、近藤さん」
と、訊ねた。
「俺達、幕臣になれるってことだろ!」
幕府から禄位を貰うとはすなわち、幕臣になるということである。それを近藤は断り、浪人のままでいると言っているのだ。
新選組に禄位を授けようというのは恐らく、江戸の新徴組が禄位を賜った、その流れであろう。
「貰えるもんは貰っちゃえば?」
端で眠そうに寝転がる爽葉が言うが、近藤は首を横に振るばかり。
「いいのか? 徳川に士官するのが夢だったろ?」
「それはそうなんだがな……」
原田の問いに、むむっと額に皺を寄せ、近藤は困り顔になる。
「俺達は尽忠報国の志士であり、最前線で戦い御奉公することこそ、心からの願い。しかしだ、俺達はまだ、何のお役にも立てていないじゃないか」
近藤の言葉に、さっきまで湧き立っていた皆も、一様にしんと静まり返った。
「俺ぁどっちだっていいぜ」
土方が言う。
「この先どうしたって俺等は幕臣になるさ。それが遅いか早いか、それだけの話だ」
その自信に満ちた台詞はいかにも土方らしいもので、皆に申し訳のなさを感じていた近藤は、少し微笑む。
「おうよ! 俺ぁ感動したぜ、近藤さん!」
先程とは打って変わって、大きな瞳をうるるとさせた藤堂が叫ぶ。
「そうだよなあ、功績を上げたときに晴れて幕臣になる! それでこそ新選組の武士よ!」
続いて、永倉や原田も、賛同とばかりに頷く。山南や井上はといえば、近藤の話に感極まって涙を拭う始末。
「あらあら」
猫をあやすように、転がる爽葉の頭を撫でながら、沖田が苦笑する。
こうして、近藤は禄位辞退の旨を上書に認める為、山南と共に自室へと戻っていった。他の者も稽古指導やら巡察やら、当番やらで退席。その場には土方と爽葉、そして沖田、斎藤が残った。
「そうだ、斎藤。近藤さんに、容保公に先生のことを願い出るよう、伝えておいてくれ」
「近藤周斎殿のことでしょうか」
土方が頷く。
「周斎って誰だ」
爽葉が尋ねた。
「近藤さんの養父ですよ。今は中風*を患っているんですが、天然理心流剣術三代目宗家として、名を馳せていたんです」
沖田が答える。
近藤周斎、かつての名を近藤周助。代を近藤勇に譲ると、名を周斎と改めた。
「口上願書を書くことに、近藤さんがぐだぐだ言っていたら、俺に知らせろ」
「承知」
斎藤がすっと部屋から出ていく。
「近藤さん、私欲だ禁物、って遠慮しそうですからねえ」
「自分勝手なんじゃないか、とかどうとか言って落ち込むだろうな」
そんな彼等の予想は、この後、しっかり的中することとなる。
「周斎先生はなかなかぶっ飛んだお人ですから、爽葉のことは気に入ると思いますよ」
沖田がくすくすと笑う。
「どうぶっ飛んでるんだ」
爽葉が訊くと、土方と沖田が代わる代わる、
「女好き」
「それも取っ替え引っ替え」
「妻が九人、妾が七人」
「四六時中目合ってばかり」
「その上、酒狂い」
「しかも酔い癖は最悪」
と言った。
「ちなみに、彼は一日に二升*は飲みます」
「二升!?」
目が点になっていた爽葉も、すぐに腹を抱えて笑い出した。
「とんでもないお騒がせ野郎だな!」
「しかもですよ、やーっとご隠居なされたと思ったら、隠居先に女が四人」
「ひゃひゃひゃひゃ」
「よほど隠居生活が暇なんだろうよ」
土方が呆れ口調で言う。
沖田が更に身を乗り出して、「それでですね」と続ける。
「忙しい近藤さんに代わって、土方さんと源さんが見舞いに行ったときがあるんですよ」
「ほう」
「案の定、先生が随分と色欲に溺れた生活をしてたみたいでさ。土方さんの第一声が、『女色の過ぎるのはお身体に障りますよ』だったって!」
「あははははっ!」
「お前が言うなって話ですよねえ!」
「そりゃそうだ! あはははっ、あっ、腹痛い、いたたた……」
「おい、総司」
爽葉は笑い過ぎて涙を浮かべている。沖田もお決まりのにやにや笑いが止まらない。土方もこの話には文句も言えない。
「いいなぁ、試衛館。楽しそうだ」
「楽しかったですよ。あ、爽葉に試衛館の時の思い出を認めたものを見せてあげましょう」
「何だ何だ」
雲行きの怪しい話の流れに、土方が組んでいた腕を解くも、沖田はその数段上を行っていた。
「もともと、爽葉とおやつでも食べながら見ようと思って、持ってきていたんです。『豊玉発句集』」
「お前っ、いつから!」
慌てて取り返そうと伸ばした手を、バチンッと音が鳴るほど強く叩いた沖田は、清々しい笑顔で、
「土方さんの詩集です!」
と、声高らかに言い放った。
「ほうぎょく、ほっくしゅー?」
「爽葉、いい子。そのまま押さえておいて」
爽葉は、詩集に手を伸ばした土方の、無防備な背後に回り込んで、羽交い締めにしていた。
「くそっ! 退けっ、ちび助!」
「土方殿、まだまだですな」
相手は爽葉と言えど、背後を取られれば抜け出すのは難しい。
沖田が湛える悪い笑いに、般若の相の土方が吠える。
「総司、早く見せろ」
「ふふ、覚悟は良いですか」
「どんと来い」
「覚悟決めんな!」
それからすぐに、げらげらと腹を抱えて笑う爽葉と沖田の声が、屯所中に響き渡った。
「てめえら……。殺されてぇのか」
土方が珍しく顔を少し赤らめて脅すものだから、悪戯小僧二人には火に油を注ぐようなものである。
「だってトシィ、これ単純……、いや直球すぎて……ひい」
「何度見ても笑えますね、本当っ、あははははは」
「いやこれ……面白……し、死ぬっ、笑い過ぎて死ぬっ」
土方を固めたまま、げらげらと遠慮なく笑う爽葉。その横で、沖田は息も絶え絶えになりながら、目尻に溜まった涙を指で拭った。そして、変に畏まった素振りで、
「いやあ、土方さんの実は実直、という隠れた内面が現れていて趣深いですねぇ」
と批評家ぶった台詞を言うと、
「文学とは人の本当の姿を顕す道具なのですね。結構結構」
と爽葉が沖田を真似する。
「悪夢か……」
大はしゃぎする爽葉を背中で好きにさせたまま、土方は成す術なく額に手を当てた。
朝から秋寒が酷い日だった。最近通り過ぎていった野分*によって、頭痛に悩まされたばかりだと言うのに、晴天も束の間、またすぐに天候は悪くなった。
「頭痛ったぁー……」
気候が悪いと、頭の奥がずくずくと傷んだ。そうなってくると痛みに敏感になって、その延長か、顔の傷も眼の奥もなんだか痛くなってくる。
「気を紛らわそう」
まだ日の昇らない空の下、爽葉は散歩に出掛けた。小さな川を渡り、道沿いに北に上った。騒めく風の中で、川の音だけは柔らかく、耳が気持ち良かった。暁闇の齎す不思議な高揚感は、今日の爽葉の胸を簡単にすり抜けて行ってしまう。湿った風の所為だろうか、荒ぶる林の音の所為だろうか。不躾なまでに、不快感が爽葉の中に入ってくる。
その時、びゅうと吹き抜けた風に乗って、誰かの声が聴こえた気がした。立ち止まるも、気配はない。
「気の所為?」
で、済ます爽葉ではなかった。野生の勘というものだ。根拠はない。
懐刀を取り出した。続いて脇差も。鞘をかなぐり捨て、ゆっくりと道を進む。
そして、爽葉は走った。
同時に、怖気が追いかけてきた。
おかしい、おかしい、おかしい。どこかが、おかしい……!
住居犇めく通りを抜けた。林を通り過ぎ、大通りを横切った。石段を駆け上がる。泥が跳ねる。
——爽葉。
ドカァァンと、一際大きな雷が轟くなか、その声はやけにはっきりと響いた。
沛然と雨が降り始める。
爽葉の身体に、天を衝くような衝撃が走った。痺れが残るほどに、強い。
「会いたかったぜ」
瞬間、足が鉛にでもなったかのように重くなった。柄を握る手が強張った。身体が言うことを聞いてくれない。
皮膚が天露に濡らされていく。
感情に押し潰された肺は、上手く空気を取り込めず、爽葉は浅い呼吸を繰り返した。
「俺のいない間、随分とお気楽に生きていたようだなぁ」
嘲るような口調、間延びした語尾、偽物じみた笑い癖。
蘇る、忌々しい記憶。
「どうだったよ、人間の真似ごとは」
蝿の羽音のように、総毛立つ気配と音が耳を掠めた。
爽葉は脇差を思い切り後方に振り回す。
耳元で囁いた彼はもう傍におらず、少し後方でにやにやとした笑みを浮かべて立っていた。人を嘲弄するその笑い方は、爽葉の記憶の蓋を容易にこじ開ける。
「……」
柄を握る手がみっともなく震えている。感覚が鈍り、二本の刀、四肢や心に至るまで、全てが離れ離れになっていくのが分かった。
爽葉は何度か大きく息を吐くと、両手に刀を携え、静かに腰を沈めた。
「二度と現れてくれるなよと、何度願ったことか……」
笑顔の男の眉が、僅かにひくついた。
「仕方ない、ここで死んでくれ。盧漠——!」
ふふっ、と小さく穏やかな声が、男、盧漠の口から零れた。
「殺す……?」
意地の悪い笑いが洩れた。そして、ついには腹を抱えて哄笑する。
「この、俺を?」
「僕はあの日誓ったんだ。この命捧げても、必ずお前を殺してやるってな!」
魯獏はひとしきり笑うと、「はぁ、笑えるぜ」と溜め息を吐く。
彼は長身の男だった。体の線は細めだが、その分動きは俊敏で、身体能力の高い天才型だ。機敏な動きを得意とする爽葉も、覚えている限りでは、彼の足元にすら及ばなかった。
「相変わらず堪んねえな。嬲り殺してやりたくなるぜ」
盧漠が一歩、また一歩と爽葉との距離を縮める。鯉口を切る音が、静かに響く。狙いを定めた剣光が、爽葉の喉元を焼く。
徐に、刃と刃が烈しく交わった。
脇差が盧漠の腕を掠った。同時に盧漠の太刀が爽葉の太腿を切り裂く。
二人の斬撃が篠突く雨をも弾き返していた。
互いの刀が、血脂に濡れていた。流れる水が紅く染まっていく。
盧漠の刃が爽葉の右の掌を貫いた。爽葉が痛みに反応が遅れたが、彼の追撃を逃れ、一太刀浴びせる。盧漠はそれを凌ぐも、体勢を崩して大きく後退した。
やれる——!
数年前は全く太刀打ちできなかった。でも今なら、相討ち覚悟で殺せるかもしれない。
そう感じた爽葉は、一気に踏み込もうと、片脚に力を入れようとした。
「あれ……?」
がくん、と身体が傾いた。足が地に縫い付けられたように、爽葉は動けなくなった。
震える身体も、歯の根の合わぬ顎も戦慄く唇も、何もかも。
認めたくなかった。でも、もう……自分でもわかる。
怖いんだ。
「く、来るな……」
必死に取り繕っていた、爽葉の無表情の仮面が剥がれ落ちた。それは明らかに、恐怖に支配された敗北者のそれだった。
「ハハッ! 震えてやがらぁ、小心者め。剣士の真似事したところで、所詮ただの小娘」
爽葉は歯を食いしばる。
《《魯漠》》という恐怖の前に未だ屈する自分が実に惨めで、腹立たしかった。
「違うっ……もう僕は小心者なんかじゃない!」
「何が違うっていうんだ」
「大切な人達を守るって決めた!」
「決めたからなんだってんだ」
瞬時に間を詰めた盧漠は、爽葉の脚を蹴って倒すと、掌の傷に再度刀を突き刺した。爽葉が痛みに叫ぶ。
盧漠は爽葉の鳩尾に膝をのせると、そのまま体重をかけた。土にめり込んだ爽葉は息が詰まって、呼吸ができなくなった。
「昔はさぁ、俺のことあんなに慕ってくれていたのになあ?」
ぐりぐりと鳩尾をえぐった盧漠の膝の力が、僅かに緩む。
「……おえっ……」
ほとんど真水の液体が、爽葉の口から出た。横を向いて、爽葉は何度か嘔吐く。朝起きてから水しか飲んでいなかったお陰か、胃液しか出てこなかった。
空気が入ると同時に、空いている左手で盧漠を狙う。が、呆気なく抑え込まれる。
「……今度は、何を、しでかすつもりだ!」
「なんだって良いだろう? 気にする必要はない。お前は幕府の犬なんかじゃあないんたから」
「新選組を、侮辱するな」
「新選組を侮辱してるんじゃねえよ、……てめえのことを笑ってんだよ」
盧漠の大きな手が爽葉の目元に延ばされた。するりと包帯が解けて、一線を描いた傷跡が晒される。
盧漠は指先で、その傷を慈しむかのようになぞった。
「お前には失望させられた。あんなに可愛がってやったってのに、つまらねえもんに成り下がったなぁ」
中風……脳卒中や脳血栓などの脳血管疾患
野分……台風
二升……約三.六㍑




