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誠眼の彼女 -Seigan no Kanojo-  作者: 南雲 燦
弍の幕
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玉髄

「断るってどういうこった!」


 障子を突き破り、外にまで木霊した大きな声に驚いたのか、庭の木にとまっていた鳥が慌てて羽ばたく音がした。


「平助、声がでけえ」

「あ、ああ、ごめんって……」


 浮かせた腰を下ろし、平助が再度近藤に


「どういうことだよ、近藤さん」


 と、訊ねた。


「俺達、幕臣ばくしんになれるってことだろ!」


 幕府から禄位を貰うとはすなわち、幕臣になるということである。それを近藤は断り、浪人のままでいると言っているのだ。

 新選組に禄位を授けようというのは恐らく、江戸の新徴組が禄位を賜った、その流れであろう。


「貰えるもんは貰っちゃえば?」


 端で眠そうに寝転がる爽葉が言うが、近藤は首を横に振るばかり。


「いいのか? 徳川に士官しかんするのが夢だったろ?」

「それはそうなんだがな……」


 原田の問いに、むむっと額に皺を寄せ、近藤は困り顔になる。


「俺達は尽忠報国の志士であり、最前線で戦い御奉公することこそ、心からの願い。しかしだ、俺達はまだ、何のお役にも立てていないじゃないか」


 近藤の言葉に、さっきまで湧き立っていた皆も、一様にしんと静まり返った。


「俺ぁどっちだっていいぜ」


 土方が言う。


「この先どうしたって俺等は幕臣になるさ。それが遅いか早いか、それだけの話だ」


 その自信に満ちた台詞はいかにも土方らしいもので、皆に申し訳のなさを感じていた近藤は、少し微笑む。


「おうよ! 俺ぁ感動したぜ、近藤さん!」


 先程とは打って変わって、大きな瞳をうるるとさせた藤堂が叫ぶ。


「そうだよなあ、功績を上げたときに晴れて幕臣になる! それでこそ新選組の武士よ!」


 続いて、永倉や原田も、賛同とばかりに頷く。山南や井上はといえば、近藤の話に感極まって涙を拭う始末。


「あらあら」


 猫をあやすように、転がる爽葉の頭を撫でながら、沖田が苦笑する。

 こうして、近藤は禄位辞退の旨を上書にしたためる為、山南と共に自室へと戻っていった。他の者も稽古指導やら巡察やら、当番やらで退席。その場には土方と爽葉、そして沖田、斎藤が残った。


「そうだ、斎藤。近藤さんに、容保公に先生のことを願い出るよう、伝えておいてくれ」

近藤こんどう周斎しゅうさい殿のことでしょうか」


 土方が頷く。


「周斎って誰だ」


 爽葉が尋ねた。


「近藤さんの養父ですよ。今は中風ちゅうぶう*を患っているんですが、天然理心流剣術三代目宗家として、名を馳せていたんです」


 沖田が答える。

 近藤周斎、かつての名を近藤周助。代を近藤勇に譲ると、名を周斎と改めた。


「口上願書を書くことに、近藤さんがぐだぐだ言っていたら、俺に知らせろ」

「承知」


 斎藤がすっと部屋から出ていく。


「近藤さん、私欲だ禁物、って遠慮しそうですからねえ」

「自分勝手なんじゃないか、とかどうとか言って落ち込むだろうな」


 そんな彼等の予想は、この後、しっかり的中することとなる。


「周斎先生はなかなかぶっ飛んだお人ですから、爽葉のことは気に入ると思いますよ」


 沖田がくすくすと笑う。


「どうぶっ飛んでるんだ」


 爽葉が訊くと、土方と沖田が代わる代わる、


「女好き」

「それも取っ替え引っ替え」

「妻が九人、妾が七人」

「四六時中目合(まぐわ)ってばかり」

「その上、酒狂い」

「しかも酔い癖は最悪」


 と言った。


「ちなみに、彼は一日に二升*は飲みます」

「二升!?」


 目が点になっていた爽葉も、すぐに腹を抱えて笑い出した。


「とんでもないお騒がせ野郎だな!」

「しかもですよ、やーっとご隠居なされたと思ったら、隠居先に女が四人」

「ひゃひゃひゃひゃ」

「よほど隠居生活が暇なんだろうよ」


 土方が呆れ口調で言う。

 沖田が更に身を乗り出して、「それでですね」と続ける。


「忙しい近藤さんに代わって、土方さんと源さんが見舞いに行ったときがあるんですよ」

「ほう」

「案の定、先生が随分と色欲に溺れた生活をしてたみたいでさ。土方さんの第一声が、『女色の過ぎるのはお身体に障りますよ』だったって!」

「あははははっ!」

「お前が言うなって話ですよねえ!」

「そりゃそうだ! あはははっ、あっ、腹痛い、いたたた……」

「おい、総司」


 爽葉は笑い過ぎて涙を浮かべている。沖田もお決まりのにやにや笑いが止まらない。土方もこの話には文句も言えない。


「いいなぁ、試衛館。楽しそうだ」

「楽しかったですよ。あ、爽葉に試衛館の時の思い出を認めたものを見せてあげましょう」

「何だ何だ」


 雲行きの怪しい話の流れに、土方が組んでいた腕を解くも、沖田はその数段上を行っていた。


「もともと、爽葉とおやつでも食べながら見ようと思って、持ってきていたんです。『豊玉発句集ほうぎょくほっくしゅう』」

「お前っ、いつから!」


 慌てて取り返そうと伸ばした手を、バチンッと音が鳴るほど強く叩いた沖田は、清々しい笑顔で、


「土方さんの詩集です!」


 と、声高らかに言い放った。


「ほうぎょく、ほっくしゅー?」

「爽葉、いい子。そのまま押さえておいて」


 爽葉は、詩集に手を伸ばした土方の、無防備な背後に回り込んで、羽交い締めにしていた。


「くそっ! 退けっ、ちび助!」

「土方殿、まだまだですな」


 相手は爽葉と言えど、背後を取られれば抜け出すのは難しい。

 沖田が湛える悪い笑いに、般若の相の土方が吠える。


「総司、早く見せろ」

「ふふ、覚悟は良いですか」

「どんと来い」

「覚悟決めんな!」


 それからすぐに、げらげらと腹を抱えて笑う爽葉と沖田の声が、屯所中に響き渡った。


「てめえら……。殺されてぇのか」


 土方が珍しく顔を少し赤らめて脅すものだから、悪戯小僧二人には火に油を注ぐようなものである。


「だってトシィ、これ単純……、いや直球すぎて……ひい」

「何度見ても笑えますね、本当っ、あははははは」

「いやこれ……面白……し、死ぬっ、笑い過ぎて死ぬっ」


 土方を固めたまま、げらげらと遠慮なく笑う爽葉。その横で、沖田は息も絶え絶えになりながら、目尻に溜まった涙を指で拭った。そして、変に畏まった素振りで、


「いやあ、土方さんの実は実直、という隠れた内面が現れていて趣深いですねぇ」


 と批評家ぶった台詞を言うと、


「文学とは人の本当の姿を顕す道具なのですね。結構結構」


 と爽葉が沖田を真似する。


「悪夢か……」


 大はしゃぎする爽葉を背中で好きにさせたまま、土方は成す術なく額に手を当てた。






 朝から秋寒が酷い日だった。最近通り過ぎていった野分のわき*によって、頭痛に悩まされたばかりだと言うのに、晴天も束の間、またすぐに天候は悪くなった。


「頭痛ったぁー……」


 気候が悪いと、頭の奥がずくずくと傷んだ。そうなってくると痛みに敏感になって、その延長か、顔の傷も眼の奥もなんだか痛くなってくる。


「気を紛らわそう」


 まだ日の昇らない空の下、爽葉は散歩に出掛けた。小さな川を渡り、道沿いに北に上った。騒めく風の中で、川の音だけは柔らかく、耳が気持ち良かった。暁闇あかつきやみの齎す不思議な高揚感は、今日の爽葉の胸を簡単にすり抜けて行ってしまう。湿った風の所為だろうか、荒ぶる林の音の所為だろうか。不躾なまでに、不快感が爽葉の中に入ってくる。

 その時、びゅうと吹き抜けた風に乗って、誰かの声が聴こえた気がした。立ち止まるも、気配はない。


「気の所為?」


 で、済ます爽葉ではなかった。野生の勘というものだ。根拠はない。

 懐刀を取り出した。続いて脇差も。鞘をかなぐり捨て、ゆっくりと道を進む。

 そして、爽葉は走った。

 同時に、怖気おぞけが追いかけてきた。

 おかしい、おかしい、おかしい。どこかが、おかしい……!

 住居犇めく通りを抜けた。林を通り過ぎ、大通りを横切った。石段を駆け上がる。泥が跳ねる。


 ——爽葉。


 ドカァァンと、一際大きな雷が轟くなか、その声はやけにはっきりと響いた。

 沛然はいぜんと雨が降り始める。

 爽葉の身体に、天をくような衝撃が走った。痺れが残るほどに、強い。


「会いたかったぜ」


 瞬間、足が鉛にでもなったかのように重くなった。柄を握る手が強張った。身体が言うことを聞いてくれない。

 皮膚が天露あまつゆに濡らされていく。

 感情に押し潰された肺は、上手く空気を取り込めず、爽葉は浅い呼吸を繰り返した。


「俺のいない間、随分とお気楽に生きていたようだなぁ」


 嘲るような口調、間延びした語尾、偽物じみた笑い癖。

 蘇る、忌々しい記憶。


「どうだったよ、人間の真似ごとは」


 はえの羽音のように、総毛立つ気配と音が耳を掠めた。

 爽葉は脇差を思い切り後方に振り回す。

 耳元で囁いた彼はもう傍におらず、少し後方でにやにやとした笑みを浮かべて立っていた。人を嘲弄ちょうろうするその笑い方は、爽葉の記憶の蓋を容易にこじ開ける。


「……」


 柄を握る手がみっともなく震えている。感覚が鈍り、二本の刀、四肢や心に至るまで、全てが離れ離れになっていくのが分かった。

 爽葉は何度か大きく息を吐くと、両手に刀を携え、静かに腰を沈めた。


「二度と現れてくれるなよと、何度願ったことか……」


 笑顔の男の眉が、僅かにひくついた。


「仕方ない、ここで死んでくれ。盧漠——!」


 ふふっ、と小さく穏やかな声が、男、盧漠の口から零れた。


「殺す……?」


 意地の悪い笑いが洩れた。そして、ついには腹を抱えて哄笑する。


「この、俺を?」

「僕はあの日誓ったんだ。この命捧げても、必ずお前を殺してやるってな!」


 魯獏はひとしきり笑うと、「はぁ、笑えるぜ」と溜め息を吐く。

 彼は長身の男だった。体の線は細めだが、その分動きは俊敏で、身体能力の高い天才型だ。機敏な動きを得意とする爽葉も、覚えている限りでは、彼の足元にすら及ばなかった。


「相変わらず堪んねえな。なぶり殺してやりたくなるぜ」


 盧漠が一歩、また一歩と爽葉との距離を縮める。鯉口を切る音が、静かに響く。狙いを定めた剣光が、爽葉の喉元を焼く。


 おもむろに、刃と刃がはげしく交わった。

 脇差が盧漠の腕を掠った。同時に盧漠の太刀が爽葉の太腿を切り裂く。

 二人の斬撃が篠突しのつく雨をも弾き返していた。

 互いの刀が、血脂に濡れていた。流れる水が紅く染まっていく。

 盧漠の刃が爽葉の右のてのひらを貫いた。爽葉が痛みに反応が遅れたが、彼の追撃を逃れ、一太刀浴びせる。盧漠はそれを凌ぐも、体勢を崩して大きく後退した。


 やれる——!

 数年前は全く太刀打ちできなかった。でも今なら、相討ち覚悟で殺せるかもしれない。


 そう感じた爽葉は、一気に踏み込もうと、片脚に力を入れようとした。


「あれ……?」


 がくん、と身体が傾いた。足が地に縫い付けられたように、爽葉は動けなくなった。

 震える身体も、歯の根の合わぬおとがいも戦慄く唇も、何もかも。

 認めたくなかった。でも、もう……自分でもわかる。

 怖いんだ。


「く、来るな……」


 必死に取り繕っていた、爽葉の無表情の仮面が剥がれ落ちた。それは明らかに、恐怖に支配された敗北者のそれだった。


「ハハッ! 震えてやがらぁ、小心者め。剣士の真似事したところで、所詮ただの小娘」


 爽葉は歯を食いしばる。

 《《魯漠》》という恐怖の前に未だ屈する自分が実に惨めで、腹立たしかった。


「違うっ……もう僕は小心者なんかじゃない!」

「何が違うっていうんだ」

「大切な人達を守るって決めた!」

「決めたからなんだってんだ」


 瞬時に間を詰めた盧漠は、爽葉の脚を蹴って倒すと、掌の傷に再度刀を突き刺した。爽葉が痛みに叫ぶ。

盧漠は爽葉の鳩尾に膝をのせると、そのまま体重をかけた。土にめり込んだ爽葉は息が詰まって、呼吸ができなくなった。


「昔はさぁ、俺のことあんなに慕ってくれていたのになあ?」


 ぐりぐりと鳩尾をえぐった盧漠の膝の力が、僅かに緩む。


「……おえっ……」


 ほとんど真水の液体が、爽葉の口から出た。横を向いて、爽葉は何度か嘔吐えづく。朝起きてから水しか飲んでいなかったお陰か、胃液しか出てこなかった。

 空気が入ると同時に、空いている左手で盧漠を狙う。が、呆気なく抑え込まれる。


「……今度は、何を、しでかすつもりだ!」

「なんだって良いだろう? 気にする必要はない。お前は幕府の犬なんかじゃあないんたから」

「新選組を、侮辱するな」

「新選組を侮辱してるんじゃねえよ、……てめえのことを笑ってんだよ」


 盧漠の大きな手が爽葉の目元に延ばされた。するりと包帯が解けて、一線を描いた傷跡が晒される。

 盧漠は指先で、その傷を慈しむかのようになぞった。


「お前には失望させられた。あんなに可愛がってやったってのに、つまらねえもんに成り下がったなぁ」





 中風……脳卒中や脳血栓などの脳血管疾患

 野分……台風

 二升……約三.六㍑

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