エピローグ「辺境の砦で誓う、温かくて甘い永遠」
石造りの窓枠から差し込む光が、かつての凍てつくような白さから、微かな黄金色を帯びた温かな色合いへと変わっている。
分厚い石壁の向こうからは、もはや風が刃のように吹き荒れる音は聞こえない。
代わりに耳を撫でるのは、雪解け水が軒先から落ちる軽やかな水音と、遠くの森で目を覚ました小鳥たちのさえずりだった。
長かった辺境の冬が終わり、世界が柔らかい命の息吹を取り戻す春。
この暖かな季節の訪れと共に、アカリとクロードは、今日という特別な日を迎えていた。
砦の一室に用意された鏡の前に座り、アカリは自分の姿を信じられない思いで見つめていた。
身にまとっているのは、この最前線の砦にはおよそ似つかわしくない、純白の絹で仕立てられた美しいドレスだった。
クロードが南方の交易都市から特別に取り寄せたというその布地は、触れると指先が滑り落ちるほどに滑らかで、真珠のような上品な光沢を放っている。
装飾は決して華美ではない。
しかし、首元から胸元にかけて施された繊細なレースの刺繍は、氷の結晶が春の陽光に溶けていく様を表現した見事な職人技だった。
「アカリさん、とっても綺麗です! まるで本物の女神様みたい……」
アカリの背後に立ち、艶やかな黒髪を丁寧に編み込んでくれているのは、砦で働く唯一の女性のふもと村の娘だった。
彼女は感極まったように鼻をすすりながら、アカリの髪に、今朝中庭で摘んできたばかりの淡い青色の小花をいくつも飾り付けていく。
冷たい雪山に捨てられ、ボロボロのリクルートスーツ姿で震えていたあの日からは、想像もできない自分の姿。
「ありがとう。でも、なんだか私じゃないみたいで……落ち着かないわ」
「そんなことありません! 団長様が見たら、きっと言葉を失って倒れちゃいますよ」
娘の言葉に、アカリは頬を薄く染めて視線を伏せた。
足元では、ルルが短い尻尾をパタパタと振りながら、アカリのドレスの裾にじゃれついている。
ルルの首にも、今日のために特別に編まれた銀色のリボンが結ばれており、白い毛並みによく映えていた。
ルルを抱き上げると、ふかふかの体毛から石鹸の爽やかな香りがした。
「ルルもおめかしして、可愛いね」
ルルは嬉しそうに喉を鳴らし、アカリの顎にスリスリと顔を擦り付けてくる。
その温かい感触に、緊張でこわばっていたアカリの肩の力が少しだけ抜けた。
身支度を終え、アカリは一人で部屋を出た。
向かったのは、いつも自分が立っている厨房だ。
結婚式の日くらいは休むようにと皆からきつく止められていたが、どうしても気になって足が向いてしまったのだ。
厨房の重い扉を少しだけ押し開けると、中から凄まじい熱気と、大きな男たちの怒号のような声が漏れ聞こえてきた。
「おい、火が強すぎるぞ! 肉の表面が焦げちまう!」
「スープの塩加減はどうだ!? アカリさんのレシピ通りに量ったはずなのに、なんか味が違う気がする!」
「粉をもっと練れ! パンが膨らまなかったら、団長に斬り捨てられるぞ!」
視界に飛び込んできたのは、鎧を脱いで前掛け姿になった屈強な騎士たちが、大粒の汗を流しながら調理台とかまどの間を右往左往している姿だった。
茶髪の青年騎士が、顔に白い小麦粉をべったりとつけながら、必死に生地をこねている。
年配の騎士は、大鍋のスープを味見しては首を傾げ、また別の香草を放り込んでいる。
彼らは、今日という日のために、アカリに代わって祝宴の料理を作ろうと奮闘してくれていたのだ。
鼻を突くのは、少し焦げたバターの匂いと、不格好に切られた野菜の青臭さ。
アカリが毎日作っている料理の洗練された香りとは程遠い。
それでも、厨房を満たしているのは、彼らの不器用で真っ直ぐな愛情だった。
胸の奥が熱くなり、視界がじんわりとぼやける。
用済みだと捨てられた私を、彼らはこうして全力で祝い、喜ばせようとしてくれている。
アカリは音を立てないようにそっと扉を閉め、廊下の壁に寄りかかって、あふれる涙を指先で拭った。
嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだった。
◆ ◆ ◆
砦の重厚な鐘の音が、春の青空に高く響き渡った。
それを合図に、アカリは中庭へと続く大扉の前に立った。
冷たい石畳の上を歩くたび、絹のドレスが衣擦れの微かな音を立てる。
扉の前に、彼が立っていた。
漆黒の礼装に身を包んだクロード。
普段の無骨な鎧姿とは全く違う、洗練された王侯貴族のようなたたずまいだった。
肩から掛けられた銀糸の飾りが、彼の広い肩幅と引き締まった長身をさらに際立たせている。
黒髪は後ろで整えられ、鋭い青い瞳だけが、いつものように深い光を宿していた。
クロードがゆっくりと振り返り、アカリの姿を視界に捉えた瞬間。
彼の呼吸が、完全に停止したのが分かった。
青い瞳が見開かれ、その奥で激しい感情の波が渦を巻く。
彼は無言のまま、吸い寄せられるようにアカリの前へと歩み寄ってきた。
長靴が石畳を鳴らす音が、ひどく大きく聞こえる。
アカリの前で立ち止まった彼は、震える大きな手を伸ばし、アカリの頬にそっと触れた。
「……息をするのを、忘れそうになった」
掠れた、ひどく低い声だった。
剣ダコのある硬い指先が、アカリの頬から耳元、そして髪に飾られた小花へと優しく滑っていく。
触れられた肌から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
「綺麗だ。……俺の目を潰して、この姿を永遠に脳裏に焼き付けてしまいたいほどに」
「クロードさん、そんな恐ろしいこと言わないでください」
アカリが苦笑しながら彼の手の上に自分の手を重ねると、クロードは眉間にしわを寄せ、ひどく苦しそうな顔をした。
「本気だ。この姿を、外にいるあいつらに見せたくない。今すぐお前を抱え上げて、俺の部屋の奥深くに閉じ込めてしまいたい衝動と戦っている」
相変わらずの、常軌を逸した独占欲。
だが、その言葉の裏にある不器用な愛情が、アカリには痛いほどに分かっていた。
アカリはつま先立ちになり、クロードの耳元に唇を寄せた。
「誰に見られても、私はクロードさんだけのものです。……だから、行きましょう?」
甘く囁きかけると、クロードの喉仏が大きく動いた。
彼は深くため息をつくと、諦めたようにアカリの腰に腕を回し、自分の側に強く引き寄せた。
「……覚悟しておけ。宴が終わったら、明日の朝まで一睡もさせないぞ」
耳元に落とされた熱い吐息と、危険な響きを持った言葉に、アカリの顔が一瞬で林檎のように赤く染まる。
クロードは満足げに唇の端を歪めると、アカリの手を自分の腕に絡ませ、大扉を力強く押し開けた。
眩い春の陽光が、二人を包み込む。
中庭には、砦の騎士たちが整列して待っていた。
彼らは普段の汚れた防具をピカピカに磨き上げ、色とりどりの春の花を手に持っている。
クロードとアカリの姿が現れた瞬間、空気を震わせるほどの凄まじい歓声が上がった。
「団長! アカリさん! おめでとうございます!」
「アカリさん、女神みたいに綺麗だ! 団長にはもったいないぞ!」
「馬鹿野郎、団長に聞こえたら斬られるぞ!」
口々に祝福の言葉を叫びながら、騎士たちが二人の頭上に花びらを振りまく。
赤、青、黄色。
鮮やかな花びらが春の風に舞い、二人の歩む道を祝福の絨毯へと変えていく。
祭壇として用意されたのは、雪割草が群生する古い石の台座だった。
神父も、堅苦しい誓いの言葉もない。
ただ、この辺境の地で生きる者たち全員が、二人の愛の証人だった。
台座の前に立つと、ルルが短い羽を羽ばたかせながら飛んできた。
ルルの口には、小さな木の箱がくわえられている。
クロードがその箱を受け取り、中から二つの指輪を取り出した。
それは、王都の宝石店にあるような豪華なものではない。
辺境の鉱山で採れた銀を、砦の鍛冶師が丁寧に打ち延ばして作った、武骨だが温かみのある銀の指輪だった。
クロードがアカリの左手を取り、薬指にゆっくりと指輪をはめる。
ひんやりとした銀の感触が、肌にピタリと馴染んだ。
それは、不器用で真っ直ぐな彼の愛情そのもののように思えた。
「俺の命も、剣も、俺という存在のすべてを、お前に捧ぐ」
クロードの青い瞳が、アカリを真っ直ぐに射抜く。
そこにあるのは、永遠に変わることのない絶対の忠誠と、狂おしいほどの愛。
「俺の傍から離れることは、死が二人を分かつ時であっても絶対に許さない」
誓いの言葉すらも、彼らしい強引な独占欲に満ちていた。
アカリはこぼれ落ちそうになる涙を堪え、満面の笑みで頷いた。
クロードの大きな手からもう一つの指輪を受け取り、彼の節立った左手の薬指にはめる。
「私の作る温かいスープも、私の居場所も、すべてクロードさんのものです。……永遠に、あなたの傍で笑っています」
誓いの言葉が終わると同時に、クロードの大きな手がアカリの後頭部を引き寄せた。
降り注ぐ春の陽光の下、重なり合う二つの唇。
それは、周囲の歓声すらも遠くへ押しやってしまうほどに、深く、甘く、熱い口づけだった。
唇から伝わる彼の体温が、アカリの全身を甘い痺れで満たしていく。
もう、どこにも逃げる必要はない。
ここは、世界で一番安全で、温かい場所なのだから。
◆ ◆ ◆
誓いの儀式の後は、食堂に場所を移しての盛大な祝宴が始まった。
長机には、騎士たちが奮闘して作り上げた料理が所狭しと並べられている。
少し焦げ目のついた巨大な肉の丸焼き。
形はいびつだが小麦の香りが強い焼き立てのパン。
そして、具材が不揃いに刻まれた大鍋のスープ。
「さあ、アカリさん! 俺たちの傑作を食べてみてください!」
青年騎士が自信満々に差し出したスープを、アカリは木製のスプーンで一口すする。
野菜の切り方が大きすぎて火の通りが甘かったり、塩気が少し強かったりするが、その荒削りな味の奥には、彼らがアカリのために注いでくれた愛情がたっぷりと溶け込んでいた。
「……とっても、美味しいです。今まで食べたスープの中で、一番美味しい」
アカリが涙ぐみながら微笑むと、騎士たちは一斉に歓喜の雄叫びを上げ、互いの肩を叩き合って喜んだ。
クロードも無言で肉を口に運び、一度だけ悪くないと短くつぶやいた。
その一言で、食堂の熱気は最高潮に達する。
樽からエールが注がれ、木のジョッキが激しくぶつかり合う音が響き渡った。
宴の最中も、クロードはアカリの腰にしっかりと腕を回し、片時も自分の側から離そうとしなかった。
アカリに話しかけようとする騎士がいれば、鋭い氷の視線で射抜いて追い払う。
そのあからさまな威嚇行動に、アカリは困ったように笑いながらも、彼に寄り添う心地よさに身を委ねていた。
窓の外を見ると、雪が完全に溶け去った大地に、柔らかな緑の草が芽吹き始めている。
あの冷たく暗い石室で絶望していた日々が、今では遠い幻のように感じられた。
用済みだと捨てられた私が、こんなにも温かい居場所を見つけ、こんなにも誰かに深く愛されている。
ルルがアカリの膝の上で丸くなり、幸せそうに喉を鳴らしている。
クロードの大きな手が、アカリの髪を優しく撫でる。
「疲れたか」
「ううん。すっごく楽しいです」
アカリが見上げると、クロードは微かに口角を上げて笑い、アカリの額にそっと口づけを落とした。
その仕草は、猛獣が自分の宝物を慈しむように、ひどく甘く、優しかった。
宴の喧騒は、夜更けまで続いた。
暖炉の火が赤々と燃え、人々を温かく照らし出している。
王都の権威も、魔物の脅威も、今のこの砦には届かない。
アカリの料理と、クロードの絶対的な武力。
その二つが重なり合ったこの辺境の地は、もはや誰にも侵すことのできない、永遠の楽園となっていた。
冷たい雪の果てで見つけた、最強の竜騎士との出会い。
それは、私の平凡な日常を、とびきり甘くて温かい、永遠のスローライフへと変えてくれた、世界で一番幸せな奇跡だった。




