決意
5
まどかは気を失っている時田を、ぼんやりと見つめる。
どれくらい、そうしていただろうか。
ふと、風が頬をなでた。
まどかはしゃがんで、顔を近づけてみる。
何がどう、かはわからない。
けれど、わかる。
本物だ。
本物の時田だ。
それはうれしいというよりも、安堵だった。
巻きこんでしまった、という思いが、少なからずあった。
彼方の言うとおり、自分の立場も考えず、安易に引き受けることじゃなかったのかもしれない。
「……ん」
まぶたが、震える。
ゆっくりと開かれていくのを、まどかは待った。
いつもの彼の瞳、まなざしだ。
「……よく寝た」
のんきな声に、まどかは小さく笑う。
ほっとしたのと安心と両方だった。
「あれ? つーかおまえ、何してんの?」
今気がついた、といった様子で、まどかを見た。
息をつきつつ、あきれたようなまなざしを送る。
「……あんたがいないから、捜しに来たの。一応、まだ彼女ですから」
初めて自分から、そう言った気がした。
胸の奥が、ちくりと痛む。
押さえようとしたけど、とっさに手を戻した。
「それはそれは、ご苦労なことで」
時田が苦笑した。
彼の声は明るくて、今度は胸が弾んだ。
まどかはごまかすように目を伏せて、立ちあがる。
「ね、時田」
同じように、彼も立った。
その後で、まどかの顔を伺うように見る。
その表情を、瞳をまどかは直視することができなかった。
見てしまえば、言えなくなるような気がしたからだ。
今から、彼に伝えようとしていること。
怯んでしまうような気がしたからだ。
「――終わりにしよう、あたしたち」
空気のにおいが、色が、一瞬にして変わる。
まどかはやはり、俯いたままだった。
散歩から宇佐神が戻ると、台所にいる彼方の元へ顔を出した。
もちろん、いいにおいがしたからだ。
「今日の夕飯はなんだい?」
「ふろふき大根ですよ」
もうじきまどかも帰ってきますし、と、彼方は鍋の中をのぞく。
「おいしそうだね」
宇佐神は味が染みていく大根を、物欲しそうに見る。
「だめですよ、まだです」
あっさり蓋をしめられた。
肩をすくめつつ、思い出したように口を開く。
「あ、そうそう、彼方。私はこれに行きたいのだが」
着物の袖から、宇佐神はあるものを出した。
「はあ、なんです?」
一枚の印刷物。
書かれているのは、花火大会についてだった。
「近所で催されるらしくてね」
花火の写真と、日時と場所が記されている。
「……行けばいいじゃないですか」
宇佐神に、ため息と印刷物を返しながら言った。
「いいのかい?」
「行くなって言っても、行くでしょ、どうせ」
「ふむ。その通りだね」
彼方から受け取ったそれを、宇佐神はじっと見つめる。
鍋から視線を外さないようにして、彼方は口を開いた。
「……最近、考えることがあって」
宇佐神は返事の代わりに首をかしげる。
「宇佐神さまの本当の目的は、何なのかって」
「うむ」
「なんとなくこれかなって、思うものはあるんですけど」
湯気がふんわりと漂った。
お互いの顔が、一瞬だけ見えなくなる。
「……答え合わせするかい?」
その言葉に、彼方はまばたきをくり返した。
けれどすぐに苦笑して、
「……やめておきます。今はまだ」
再び視線を交わしあう。
「残念だね。けれど、うれしいよ」
宇佐神はにっこりと微笑んだ。
「……花火大会、おれと、それからまどかもご一緒していいですか?」
「ああ、もちろん」
「あいつに、浴衣を着せてやりたいんですよ」
花火だったらちょうどいいでしょ、と、彼方は奥の部屋へ目を向けた。
「風流だねえ」
宇佐神が口にしたとたん、玄関の戸が開く。
足音で、まどかだとすぐにわかった。
「ただいま」
気配を感じたのだろうか。直接台所まで来て顔を見せると、
「もうすぐ夕飯できるから、着がえてこい」
「あ、うん。その前に報告」
まどかは鞄を持ったまま、口を開く。彼女にしては珍しく、抑揚のない声だった。
「例の幽霊――っていうか、狐の件、片づいた」
気づいているのか、そうじゃないのか、まどか自身にもわからなかった。
「よかったじゃん」
「よくやったね」
まどかは小さく笑う。
大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように、軽く頷いた。
「時田の姿になってたんだけど、まあ、なんとか」
「彼氏は無事だったのかい?」
「大丈夫です」
着がえてくる、と、まどかは背を向けた。
ああ、そうだ。
けれど一度、気がついたようにふり返って、
「それから、もう彼氏じゃない――別れたの」
あっさり言って、今度こそ自室に向かう。
宇佐神の手から、ひらりと花火が舞った。
翌日は、朝から騒がしかった。
学校に着けば、行き交う人たちに、好奇の視線を向けられたからだ。
慣れているつもりだったものの、気にならないかと言われれば、嘘になる。
まどかは息をつきつつ、教室へ向かった。
「おはよう、まどか」
葉子はいつもどおり接してくれた。そのことにほっとし、席へ着く。
となりを見れば、時田はいなかった。
代わりにやってきたのは、クラスの女子たちだ。
まどかの身体が、一瞬こわばる。
「林原さん――ちょっといいかしら」
案の定、前のように呼び出された。
予想はしていたものの、面倒なことに変わりはない。
まどかは、できるだけ手短に、と、つぶやくように言った。
「……時田君と、別れたってホント?」
やっぱり、と思う。
息をつきつつ、まどかは口を開く。
「ホントです」
意外にすんなり、言葉になった。
「なんで? どうしてそうなったの?」
責められるような口調に、まどかのほうが目を見開く。
「……いろいろ、あって」
嘘は言ってない。
けれど違和感はある。
目の前の、彼女たちにだ。
なんだろう。
気のせいかもしれないが、少し残念そうな表情を浮かべているように見える。
「……やっぱりホントなのね」
肩を落とす少女を見ながら、思わずまどかは尋ねた。
「あなたたちにとっては、うれしいことじゃないの?」
願ったり叶ったりでは? と、まどかは首をかしげる。
すると、一番前にいた女生徒が息をついた。
「最初はね、そのほうが、別れたほうがいいって思ってたのよ」
実際、まどかもそう思われているだろうと感じていた。
「でも、悔しいけど、あなたは人として魅力的っていうか……外見だけじゃなくて、中身も――ちゃんと芯がある」
それは人じゃないから、と言いかけてやめておく。
「こっちが何をしても大して動じないし。最近は佐々木さんと一緒にいることが多いけど、別に一人だって平気でしょ」
腕を組んで、もう一度息をつく。
いや、つかれている、と言うべきか。
「だからもう、降参してたっていうか……」
「じゃあ、肝試しの時は?」
「あれで目が覚めたの。あなたがいつも通りだったから、もうやめようって」
なんだか、バカバカしくなったという。
けれど、それだけじゃない、と、彼女は続ける。
「何より、あなたといる時田君、すごく自然で、楽しそうだったから」
まどかはなんだか、妙な気分だった。
付き合っている時は別れろと言われ、実際にそうしたら、今度はその事を疑問に思われる。
難しい、というか、簡単ではない。
「何があったのか知らないけど、ちゃんと彼のこと、見ててあげて」
最後には、手を握られてしまった。
やっぱり、複雑だ。
人間だからなのか。
それとも、恋をしているからなのか。
まどかには、まばたきをくり返した。
その日、時田は休みだった。
担任の話だと、風邪らしい。
まどかにとっては、正直ほっとしていた。
「じゃあ時田くん、やっぱり了承してないの?」
「いや、わかってるとは思うけど……」
昼食を取りながら、葉子と昨日の出来事を話す。
律のことは伏せながら、別れ話をしたことだけ、かいつまんで説明した。
「昨日の時田くん、何かおかしかったもんね。もしかしたらなんとなく感じ取ってたのかな。まどかからそう言われること」
それについては、何も言えない。
「けど、驚いた。まどかに他に好きな人がいたなんて」
「……叶わないってわかってたから」
言いにくかったのだ、とまどかは俯く。
時田には、昨日こう言ったのだ。
やっぱり好きな相手に誤解されたくない。
だから、別れてほしい、と。
それだけ言って、屋上を出てきてしまった。
なんとなく、顔を見ることができなかった。
「そっか。だからってわけじゃないけど、ねえ、まどか。時田くんのことって、どう思ってるの?」
「どうって……」
同じことを、宇佐神にも聞かれた。
「いい奴だと思うよ。ただそれ以上は聞かれても、なんて答えたらいいかわからない」
だからだ、と思った。
だから、ああしたのだ。
自分でも、ようやくわかった。
時田のためじゃない。
自分のために、ああしたのだ。
「……まどか?」
「ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
葉子が伺うようにこちらを見る。
「そっか。じゃあ私もこれ以上は、何も聞かない」
お昼を終えると、思い出したように言った。
「そういえばまどかは、花火大会行く?」
「あ……」
今朝のことだ。
食事の時、彼方に言われた気がする。
浴衣を用意するから、早く帰ってこい、と。
「うちは毎年家族となんだけど、まどかはどうなのかなって」
「……うちも、家族で行く」
今までだってそうだったのに、あたりまえのことなのに、なんだかとても特別な響きに聞こえた。
「じゃあ、向こうで会えるといいね」
葉子が笑う。
同じだ、と思った。
葉子も、それから自分も。




