後編
彼はジッと机上のコップを見つめていた。何も喋ろうとしない。再び訪れてしまった気まずい沈黙の中、私はひたすら自分に言い聞かせる。
彼の服が乾くまで。この居心地の悪い空間だって、この先の人生に比べたら一瞬だ。
「……初めて見た」
「え?」
まさか、水を? そんなバカな。ついさっきまで雨に打たれて、シャワーだって元々は水で……
「お姉さんみたいな、優しい人」
「……あ、ああ、そういう……別に、大したことしてないですよ」
仔犬みたいに頼み込んできたのはそちらでしょうに、今更何を言っているのやら。調子狂う。
「それに私、泊めることはできませんから……服が乾いたら、ちゃんと自分の家に……」
「うん、分かった」
「……そう」
てっきりまた頼み込まれると思ってたから身構えていたのに、拍子抜けした。どうしても一晩だけ、とか言いかねないって覚悟してたのに。そんなにあっさり折れるなんて、ますますよく分からない。
「えっと……差し支えなければ、ですけど」
「うん」
「呼びづらいから、名前とか……あだ名とか……あ! 別にその、どこから来たのとか、聞かないので!」
「リク。大陸の、陸」
あまりにも簡単に教えられたから、偽名なんじゃないかと思った。もう、それでも構わない。
乾燥機、あと何分で止まってくれるかな。
「お姉さんは?」
「へっ?」
「名前」
「ふうか……風の香り、って書いて、風香です」
「かわいい」
「あ、ありがとう……」
迷わなかったわけじゃない。しかし、名乗ってもらったから私も名乗らなくては、という妙な平等主義が働いた。
結果的にありふれた褒め言葉を賜り、無駄に照れる羽目になったのだけれど。
ああ、早くしてよ乾燥機! 私もうこの展開に色々と付いていけないし、限界なんだから!何が楽しくて初対面(且つ恐らく年下)の男性とぎこちない会話しなくちゃいけないの。
「風香さんは、恋人いる?」
「えっ!?」
唐突に何を言い出すのかと思えば……見るからに仕事しかしてない雰囲気かもし出してる私に、そんな質問するなんて……!
そうか、最近の子は空気読めないってこの事ね……十代と二十代の差なのね。
別段答える義務もないし「ノーコメント」で通そうと思ったけど、気付いたら口が動いていた。
「し、仕事が恋人かなっ」
ちょっと待って私! 丁寧語抜けてた! ああ、何でこんなアホみたいな、いかにも「恋人なんていませんけど今は仕事が大事だから別にいらないですし寂しくもないです」アピールするような返答を……
「じゃあ……仕事が恋人だと、楽しい?」
「……へ?」
陸くんは、水道水の入ったコップを持って、その中の液体の動きを目で追いながら尋ねた。一方の私は、されたことのない返しに不意を突かれて、唖然。
楽しいか、楽しくないか……そんな風に聞かれたら、困る。仕事が嫌いなわけじゃない。でも、心の底から楽しいとか、天職だとかは思えない。今晩だって、疲れた体に鞭打って残業して……
「……分からない」
出した答えは、マルでもバツでもなく。
「今の仕事は嫌いじゃないよ、経験が増えていくのも実感するし。……でもね、ピッタリ合ってるパートナーじゃない、かな」
いつか何処かで、そんな言葉を聞いた。自分にピッタリ合う仕事は、世界中を探せばきっと見つかる。でも、人間にはそんな時間はない。出会えたら、それこそ奇跡なのだと。
「多分、ちゃんとした人間の恋人がいる人も、同じよ。そりが合うところと、合わないところがあって、ピッタリ合うパートナーに出会えたら、奇跡」
乾燥機の音が鳴る。「あ、乾き終わったよ」と、私はすっかり丁寧語に戻すタイミングを失い、陸くんに帰る準備をするように言った。
私ッたら、何をしんみりと語ってしまったんだろう。バカみたい。奇跡なんて、私のような凡人には起こらない。起こり得るとしても、凡人における奇跡遭遇率は限りなくゼロに近いだろう。
自分にそう言い聞かせながら、私は陸くんのロングTシャツとダメージ加工されたデニムを乾燥機から取り出した。
「その傘、あげる。いらなかったら売っちゃって」
「……返しに来るから」
「いいって、気にしないで」
「会いに来る、絶対」
へらへらと適当な笑みで送り出そうとした私に、陸くんは真剣な眼差しで宣言した。
「今夜は、たくさんありがとう。俺、風香さんに、必ずまた会いに来るから」
意を決したような強かさに圧倒され、何も返すことができなかった。そんな私の腕を引いて、再び抱きしめる陸くん。エントランスでは冷え切っていたその身体は、すっかり元の体温を取り戻していた。
「風香さん、――――――――――」
「えっ?」
去り際に見せられた陸くんの笑顔に、やっぱり仔犬みたいだと、半ば場違いな感想を抱く。同時に、緩やかな紐に巻きつかれたようなほろ苦さが、心の奥を走っていった。
***
「あそこのおじいちゃん、こないだ脳梗塞で……」
「まぁ……お孫さんいなかったかしら」
「やっと見つかってねぇ、施設に送られるそうよ。まだ中学生ですって」
「ご両親もいないんでしょう? いやだわ、可哀想に……」
「本当にねぇ……」
雨の中、歩道橋で陸くんと出会った日から、二日後。
勤めている本社からそう遠くない訪問先からの帰り道、街角のおばちゃん達の会話を小耳に挟んだ。難しい人生を強いられる子もいるんだな、と陳腐な同情を頭の片隅に過らせて、ふっと前方にある人混みに目を向ける。
……幻かと思った。
「陸くん……?」
近所の児童養護施設が所有する車に、今まさに乗り込もうと歩みを進めているのは、雨の中で出会った彼だった。あのクセっ毛と背丈、間違いない。
でもどうして? そう言えば、優しい人を初めて見たとか……それって、こういうことだったの? 身一つで、家出したみたいに歩道橋にいたのは、保護者がいないと、預けられてしまうから……?
頭の中がパニックを起こして、その場に立ち尽くす。そんな私を遠目に見つけたらしく、陸くんは、二日前の別れ際に見せたのと全く同じ笑顔を向けた。
---「お水、おいしかった。今度また注いで」
抱きしめられた時に囁かれた最後の言葉が、よみがえる。その瞬間、私の頬を生温い滴が滑り落ちた。一体どんな感情が働いて、そんな生理現象が引き起こされたのか、見当もつかない。
その時の私には、今日の営業報告をするために本社への道を戻りゆくことしかできなかった。
― 終わり ―
読破ありがとうございました。
「水も滴るいい男」という言葉から「いい男」の「いい感じ」の話を書いていくつもりでしたが、背景が(無駄に)ビターになってしまいました…。後味悪かったかも知れません、すみません。そんな重苦しい背景があったとしても、人間には温かさを交換する力があるという小さなメッセージを込めて。
陸くんと風香さんの再会を願って。いつか後日談を書くかもしれないという可能性だけ置いていきます。
拙い後書きにまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




