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連なる短編(図書館より)

水底のバス

作者:壱宮 和
 コトトン、コトトン、
 ガタン、ガタッ、

 揺れる風景は、目に優しいものではなかった。それでも私は見つめていた。ただひたすら、ガラス越しの真夏を。


 【水底のバス】


 出会った日のことは、気持ち悪いほど鮮明に覚えている。

 一年前。この町に越してきてから二週間と四日、残暑を感じる九月下旬だった。自宅から一番近いバス停から、このバスで六駅行ったところにある図書館に、初めて足を踏み入れた。
 緊張していた。部外者が町民限定の憩いの場にお邪魔する気分、とでも言えばいいかしら。そうっと自動ドアをくぐる。気分転換に読む本が欲しくて、けれど買うのは勿体ない……そんな動機。
 インターネットは便利なもので、先週のうちに借りたい本を予約して取り置いてもらっていた。プリントアウトしてきた予約伝票を入れたお財布、それを握りしめて、カウンターへと足を運ぶ。
(ああ、やっぱりダメ)
 あまりの緊張に、足が勝手にルートを変えた。真っ直ぐにカウンターへと進んでいた筈なのに、立ち止まって見れば、目の前には『新書コーナー』の本棚。
 伝票を見せて、本をもらうだけ。どうしてそんなこともできないのかしら。何て不甲斐ない。引っ越し先ではきちんと胸を張って振舞おうと決めていたのに。さあ、カウンターへ向かわないと。
 自分に言い聞かせていると、「あのー」と声をかけられた。呼びかけられたのが私でないといい、などと、またも決意にそぐわない願望を過らせ、恐る恐る振り返る。
「新書で何かお探しですか?」
 呼びかけられたのは、私だった。声を出すこともできず、お財布を持つ指を震えさせる。
 深緑色のエプロンをした、すらりと背の高い青年だった。何も言わず『新書コーナー』の前に突っ立っていた私を見て、変に思ったに違いない。
 声をかけられても応答しないのでは、また不信感を与えてしまうのでは……
「こちらに並んでいるのは九月の十六日以降に入った本ですので、九月初旬に発行された本をお探しなら、あちらにあります検索機をお使いください」
「あ、ち、違い、ます……」
「えっ、では十六日以降の……?」
「いえ……よ、予約を……して、きました……」
 どうしていつもこうなの、私。この言葉はカウンターで言うために用意してきたのに。『新書コーナー』の前に出来上がってしまった奇妙な空間が恥ずかしくて、俯いて目を瞑る。お財布に爪痕がついてしまうんじゃないかと思った。
「あっ、そうでしたか! すみません、僕、勘違いして……本日、ご予約の伝票はお持ちですか?」
「あ、は、はい……」
「でしたらこちらです。どうぞ、ご案内します」
「どうも……」
 後光が差しているように見えた。大げさだと笑われそうだけれど、その時の私は確かに、その青年に神さまのような輝きを見た。

「えっと……森野さん、でお間違いないですか?」
「だ、大丈夫です」
「ではこちらに受け取りのサインをお願いします」
「はい……」
 出された受け取り確認書に漢字で氏名を書いてから、カタカナでフリガナ欄を埋める。〝モリノ サナ〟と。
「サナさん、って読むんですね」
「えっ」
「あ、すみません!」
「い、いえ……」
 青年は申し訳なさそうに目を逸らした。確かに、私の名前は初見で確信を持って読むのが難しい部類に入ると思う。これまでの人生でも、恐る恐る読み当ててもらうといった場面が何度もあった。
「ありがとうございました」
「こ、こちらこそ……」
 小さく素早く一礼して、私はカウンターを後にした。そのまま自動ドアへと足を進め、早くバス停へ……

「も、森野さんっ!」
 罪を暴かれた犯人のように、肩を震わせてしまった。はっきりと通る声が、大きく私の姓を呼んだのだ。追いついた青年は、間に合って良かった、と呼吸を落ち着かせながら言う。
「落としましたよ、このハンカチ」
 差し出された薄桃色の布を見て、私は咄嗟にスカートのポケットに触れた。無い。膨らんでいるはずのポケットは、ぺたんこ状態だ。
「あっ……すみませんっ! その、ご迷惑おかけして……」
「いえ! 迷惑だなんて全然……てゆーか、僕の方こそ、すみません……」
 私の後方に一瞬目をやり、視線を落とす青年。意味が分からないまま首を傾げると、彼は頬をかきながら「僕が引きとめたせいで、バス、行っちゃいました……」と。
 言われて初めて気がついたけど、彼に非は無いと思った。私がハンカチを落とさなければ良かっただけの話。それに、次のバスが来るまでの十五分足らず、別段急いでなどいない私にとっては惜しくもない。
「あの、お気になさらなくても……私は大丈夫なので」
 ハンカチを受け取り、一礼して歩き出した。いつもより少し早めに足を動かして。
 とてもあつくて、倒れてしまいそうだった。


 ***


「いるよ、好きな人くらい」
 茉莉さんの返事を聞いた瞬間、私の背筋は反射的にピッと冷たく固まった。
 学校でも無所属で、グループワーク以外に友人たちとあまり会話をしない私だけれど、見当くらいはついていた。茉莉さんが想いを寄せている異性は、茉莉さんのもう一つの職場の人だと。
「茶奈さんは?」
「いえ、私は特に……今は研究のことで頭がいっぱいですし……」
「えっ、もったいないよ! 茶奈さん可愛いのに……院とかゼミとかで、誰かいないの?」
 お皿を洗いながら「そんな、いませんよ」と返す。茉莉さんはいささか腑に落ちないというような表情で「そう?」と一言。
「……どんな方、なんですか?」
 沈黙があまりにも気まずくて、私はゆっくり問いかけた。カシャカシャとお皿がぶつかり合う音が一瞬だけ止まる。
「とってもかっこいいの。人に元気を与えられるっていうか……太陽みたいな人。ふふ、ちょっとベタかな」
「いえ、素敵だと思います」

 大学院に通いながら始めたのは、飲食店のバイトだった。さげられた食器を延々と洗い続ける、裏方作業だ。始めは次々と回される仕事に立ちくらみすることもあったけれど、最近はこうして談笑しながらこなせるようになった。四ヶ月の経験は大きいと思う。
 菅野茉莉さんとは、このバイト先で知り合った。大学を卒業して図書館司書として働きながら、夜は飲食店の裏方。歳が近いこともあって、私と茉莉さんはよく話すようになった。
 他愛ない話をしながらひらすらお皿を洗う日々。彼女が免許合宿に行くためのお金を貯めていること、図書館司書は意外と大変だということ、そして、その職場にどんな人がいるかなど、様々なことを聞かせてもらった。
 そして、目を逸らしたくなるような事実に気付かされたのだ。


 ***


 神様、私は何か悪いことをしましたか?

「あっ、森野さん、」
 どうして彼は、私の名前を覚えてしまったのか。いくら考えても答えは出ずに、ただ彼の質問にぼそぼそと答える日々。
「今日はどんな本をお探しですか?」
「えっと……また、予約をしてきたので、受け取りに……」
「そうでしたか。ではご予約伝票をお預かりします」
「ありがとう、ございます……」
 私から予約伝票を受け取った彼がカタカタとキーボードを叩くと、すぐに受付カウンターの後ろにある部屋から一人の職員が本を持ってくる。それを図書館専用の貸出袋に丁寧に入れ、私に手渡す彼。
「十月二十四日までです」
「はい」
 一礼して去ろうとする私を見送るように、彼はカウンターを離れてドアへと向かう。決して職務放棄などではなく、当然のことだった。元々彼は、受付カウンターの担当ではないのだ。
 あの日、私が真っ直ぐに受付に向かわなかったから。彼に声をかけられてしまったから。

 松山さん、という名字は、彼の名札を見て知った。正確には、二回目に図書館を訪れた時、「僕は松山コウキっていいます」と名札を指差しながらの説明をされたのだけれど。
 彼は大学卒業後に数年間出版社に勤めていた。しかし上司からパワハラを受け転職、卒業時に取っておいた図書館司書の資格を活かして今の職に就いたという。一人暮らしを始めて既に十年以上、大好きな本に囲まれて、現在がこれまでの人生の中で最も幸せだとも言っていた。

 何故私がこんなにも詳しくなってしまったのか。松山さんに会うのは図書館だけだと思っていたのに、ある日偶然、大学院から帰る途中にスーパーで出会ってしまったことが主な原因だと思う。「一緒にお茶でも」と誘われ、断れないままハーブティーとスコーンをご馳走になってしまった。
「本当に、ごちそうさまでした。今日は、その……お話しできて楽しかったです」
「良かった、僕だけ楽しかったらどうしようかと思ってたんで」
 彼は、どうして私のような人間に、こんなにも快く話しかけてくれるのだろう。ずっと、進んで人に関わることを避けてきた、私のような引っ込み思案な弱虫に。温かい言葉をかけられるたびに、目頭が熱くなる。
 二度と、こんな優しい人に巡り会えないと思った。閉じこもりがちな私の心を、言葉を、引っ張り出してくれる……そんな、陽だまりのような人に。
「ではまた、図書館にいらしてくださいね」
「……はい」

 その日から現在に至るまで、あまり時間は掛からなかった。松山さんが、私のことを〝茶奈さん〟と親しみを込めて呼ぶようになるまで。
 思えば、同じ頃だった。私と同じく飲食店で働く菅野茉莉さんが、あの図書館の職員だと知ったのは。


 ***


 あの光景さえ見なければ、ここまで苦しくなることもなかったのかも知れない。

「えっ! 松山さんって、出版社に勤めてらしたんですか?」
 驚いてすぐ、茉莉さんは手で自らの口を押さえた。二階の貸出カウンター付近にて、顔なじみの二人が小さく会話しているのを、見つけてしまったのだ。
「そんな大層なことじゃないですよ、すぐに辞めて、こっちに来たんですから。逃げ出したようなもんです」
 松山さんは、はにかみ笑いを見せる。
「でも採用されたってことがすごいと思います」
「菅野さんは、大卒後すぐこちらに?」
「はいっ。私、こう見えても本が大好きで、こうして本に囲まれた職場に行きたいなーって……」
 茉莉さんがその時どんな考えをもって松山さんと話していたのかは、分からない。ただ、私は直感的に思ったのだ。
 〝茉莉さんに、私と松山さんが時々お茶をする仲だと知られたくない〟……と。

 私は、弱虫のままだった。これは、どうにも直らない性分なのだろう。けれど、だからこそ、一時(いっとき)だけでも錯覚させてくれた彼に、松山さんに、感謝している。
 同じように、バイト先で仲良くしてくれている茉莉さんにも。どんな相談にも乗ってくれた。絶え間ない愚痴を聞き続けた時は泣いて喜ばれた。
 どちらも、私には二度と巡り会えないような奇跡みたいな存在なの。私といて楽しい、って、言ってくれたの。

 ……だから、終わらせなくちゃ。
 不安定な現状を打ち破ることこそ、神様が私に与えた最初で最後の大きな使命……そうでしょう?


 ***


 伝えるのだ、抱く気持ちと相反する言葉で。あの日からこれまでの全てを棄てて、告げるために来たのだ。
 それが私の正義だと、私の理性だと、信じている。誰に文句を言われようと、野次を飛ばされようと、揺らぐことなどない。揺らいではいけない。
(大丈夫、言える)

 目当てのバス停で降りると、太陽が槍で私を刺した。幾度も、何箇所も、貫いた。眩しくて、痛い。日傘を差さなくちゃ。新品の白を広げると、薄い空色になった。
 深呼吸を一つ。今日の私には、本がない。予約伝票もない。用があるのは図書館ではないんだ。今更だけれど、きちんと分かったの。とうの昔に、図書館に用なんてなくなっていたこと。
 次のバスの時間を確認する。方面はどこでも構わない。私を連れていってくれる、連れ出してくれる、次のバスは……ああ良かった、七分後に来てくれるのね。
 歩みは軽く、極力軽く。でないと、優しい彼はすぐに気付いてしまうから。
「あれ? 茶奈さん、」
 嬉しいな、最近会えなかったから、と駆け寄って来る松山さんに笑顔を見せてもらうのは、今日でおしまい。
「今日も、暇つぶしのための本ですか?」
「……いいえ、今日は違うんです」
 がくがくと、膝が折れてしまいそうな緊張。柄を握る左手にも力が入るから、強張った右手で包んでみた。意味が無いような気もするけれど。
「どうしたんですか? 院の方、忙しくなったとか……」
「ええ、そうなんです。最近、なかなか読む時間もなくて」
 驚いた。私はこんなに流暢に会話することもできたのね。
「それは大変ですね……僕、先日入った新書の中に、茶奈さんが好きそうなの見つけたんですが……」
 だめよ、だめなの。はにかんで見せないで。今日でおしまいにする、揺らいではいけないんだから。
 ……次のバスが来るまで、あと何分かしら。
「松山さん、あの……」
「さ、茶奈さん!?」
 募った想いが溶けだして、流れていく。何ヶ月分かの、想いが。
 ああ、とてもしょっぱいわ。帰りにチョコレートを一箱買っていかなくちゃ。生クリームがたくさん乗ったドーナツでもいいわ。舌が焼けてしまうくらい、甘いものが食べたい。

「……もう――――」

 私が終わりを言う前に、次のバスがやって来て、大きな音を立てながらドアを開けた。解き放たれた涼しい空間。日傘を畳んで迷いなく足を進ませた私は、もしかすると、待っていたのかもしれない――

 いいえ、待っていた。力強い彼の掌を、待っていた。あの瞬間、きっと私は誰よりも身勝手だった。これで良かったのに。
 バスはタイヤを転がし始める。一体、どこ行きなのかしら。途中までは、普段のバスと同じルートのようだけれど。車内はがらりと空いていて、私は一番後ろの席へと歩き、ぽとりと腰を下ろした。
 小刻みに揺れる街並に、眩暈がする。おかしいわね、まるで海の中みたい。涼しくて、よく見えない。

 そうだ、甘いものが食べたいんだったわ。
 二つ目のバス停で降りなくちゃ。
読破ありがとうございました。
本当は続編があったのですが、データが消えました。
⇒8月15日、データ見つかりました!

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