第16話 紬と月読
――ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
真っ白な病室に、心電図のモニター音が一定のリズムで響き続けている。
無機質で、感情の欠片もないその電子音を聞くたびに、私の心臓はヤスリで削られるみたいに嫌な音を立ててすり減っていく気がした。
「……彗」
パイプ椅子に浅く腰掛けたまま、私はベッドで眠り続ける幼馴染の名前を口にした。
返事はない。
当たり前だ。あの日からもう三週間、彗は一度も目を開けていない。
綺麗な寝顔だった。少し長めの前髪が額にかかっていて、今にも「うっせえな、もうちょっと寝かせろよ」とか言って、不機嫌そうに寝返りを打ちそうなのに。
点滴の管が繋がれた細い腕も、規則正しく上下する胸の動きも、いつもと何も変わらない。窓から差し込む夕日に照らされた横顔には、ちゃんと血の気が通っている。
生きている。ちゃんと生きているのに。ただ、意識だけがすっぽりと抜け落ちてしまったみたいに、彗は帰ってこない。
あの日。
東京ドームで開催された『アストラ・フェス』。
私が、無理やり引っ張っていったんだ。
「VRなんて興味ない」「ゲームとかやらないし」って渋る彗の、大きめのパーカーの袖を無理矢理掴んで、私の趣味に付き合わせた。隣で一緒にモニターを見て、適当に相槌を打ってくれていた彗が、ふと横を見たら、まるで電池が切れたみたいにパイプ椅子に深くもたれかかって目を閉じていた。
最初は寝てるのかと思った。「こんなうるさい所でよく寝れるな」って笑おうとした。
でも、揺すっても、叩いても、彗は起きなかった。
気が狂いそうになる。
なんで私、誘ったんだろう。なんで私じゃなくて、彗が。
病院に運ばれて、精密検査を何度もやった。
MRIも脳波も血液も、ありとあらゆる検査をして、お医者さんが何度も何度も、壊れた機械みたいに繰り返した言葉は『原因不明です』。
外傷はない。毒物もない。脳波も心電図も正常。栄養と水分さえ与えていれば、髪も爪も伸びる。ただ、目覚めない。
「……紬ちゃん。今日も、来てくれたのね。ありがとう」
病室のドアが静かに開いて、彗のおばさん——お母さんが入ってきた。
手には、新しい着替えとタオルの入った紙袋。
たった三週間で、おばさんは信じられないくらい痩せ細ってしまっていた。目の下には酷い隈があって、無理に作ってくれた笑顔が、今にも崩れ落ちそうに歪んでいる。私を見る目が、少しだけ怯えているように見えて胸が痛い。
「おばさん……私、今日も何にも、できなくて……」
「いいのよ。紬ちゃんが学校帰りに寄ってくれるだけで、彗も寂しくないわ。……おじさんもね、今夜は仕事を早めに切り上げて来るって言ってたから。みんなで、彗が起きるの待とうね」
震える手で彗の髪を撫でるおばさんの横顔を見ていたら、また涙が溢れてきそうになって、私は慌てて俯いた。
ごめんなさい。ごめんなさい。私が誘わなければ。私が、変なゲームにハマっていなければ。彗は今頃、教室のあの席で退屈そうに頬杖をついていたはずなのに。
学校では、彗の担任の先生が『原因不明の病気で長期療養』とだけ説明した。
クラスの空気が、日を追うごとにぎこちなくなっていくのが分かった。彗の空席を見るたびに、みんなが目を逸らす。腫れ物に触るみたいな、あの空気が息苦しくて、私は逃げるように毎日、放課後のチャイムと同時に病院へ通い詰めていた。
でも、ただ泣いてるだけじゃ駄目だ。
私が、彗をこんな目に遭わせたんだから。私が、なんとかしなきゃ。
夜、自分の部屋のベッドで、私はスマホの画面を血眼になって睨みつけていた。
『特発性嗜眠症候群』『星堕ち』『原因』『治療法』。
検索窓に思いつく限りの言葉を打ち込んで、情報の海を泳ぎ回る。
ネットの世界は無責任な情報で溢れかえっている。
世界中で、同じように眠り続ける若者が急増しているというニュース。
共通項は『長時間のVRゲームプレイヤー』。特に、あの『ASTRA-RECORDA』——AROのプレイヤーに多いという噂。
でも、おかしい。彗はゲームなんて全然やらない。私のアカウントでAROを数時間触ったことがあるくらいだ。ヘビープレイヤーなんかじゃない。
何が原因なんだ。どうして彗が。
いくら調べても、出てくるのは「脳の不可逆的な損傷」だの「新種のウイルス」だの、意味不明な憶測ばかり。陰謀論者のブログや、オカルトめいた掲示板の書き込みを見るたびに、頭がガンガン割れそうに痛くなる。スマホのブルーライトで目が焼け付くように熱い。
でも、やめられない。やめたら、彗が本当にこのまま死んでしまうような気がして。
ふと、最近見る夢を思い出した。
『……紬……』
暗闇の中で、誰かが私を呼ぶ声。
掠れていて、必死で、どこか遠くから響いてくるような声。
あれは、彗の声だった。絶対に彗の声だ。
私のただの願望が生み出した幻? 都合のいい妄想?
でも、あの声を聞くたびに、彗はどこかで生きてるんじゃないかって、そんな馬鹿げた感覚が胸の奥から離れなかった。あの抜け殻みたいな体の中に取り残されているんじゃなくて、どこか別の場所で、必死に私を呼んでいるような……。
◆ ◆ ◆
その日の夕方。
いつものように病院の自動販売機で冷たいブラックコーヒーを買って、彗の病室に戻ろうと薄暗い廊下を歩いていた時だった。
「——藤宮、紬さんですね」
背後から、不意に声をかけられた。
ビクッと肩を跳ねさせて振り返る。
そこには、長い黒髪を後ろで一つに無造作に束ねた、背の高い男が立っていた。季節外れの黒いロングコート。少しの無精髭。縁なし眼鏡の奥の目は細く、底知れない色をしている。
年齢は三十代の後半くらいだろうか。
明らかに、この病院の医者でも関係者でもない。異質な気配がプンプンしていた。
「……誰ですか」
私は警戒感を隠さず、コーヒーの缶を強く握りしめた。もし変な動きをしたら、この缶を顔面に投げつけて逃げるシミュレーションを脳内で走らせる。
「怪しい者じゃありません。……いや、怪しいか。すみませんね、こんな所で待ち伏せみたいな真似をして」
男は苦笑いしながら、コートのポケットから一枚の名刺のようなものを取り出し、私の目の前にスッと差し出した。
「月読、と申します。元・シャンバラ社の研究員。今はフリーの……そうですね、独立調査員みたいな真似事をしてましてね。少しだけ、お話してもよろしいですか? 氷室彗君の、その『星堕ち』の本当の原因について」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
シャンバラ社。『ASTRA-RECORDA』の開発・運営を行う、世界最大のVR企業。
なんで、そんなところの元社員が、私に?
「……どういう、ことですか。彗の原因って……」
「ここでは何ですから、中庭へ行きましょう。誰かに聞かれると、ちょっと厄介な話なので」
月読は、私の返事も待たずに、ヒラヒラと手を振って中庭へ続くドアの方へと歩き出した。
ついていくべきじゃない。頭の警報がガンガン鳴っている。誘拐犯かもしれないし、ただの狂った陰謀論者かもしれない。マスコミのゴシップ記者って線もある。
でも。
『彗の原因』。
その言葉が、私を強力な磁石のように引き寄せた。私は、気づけば月読の背中を追って中庭へと足を踏み出していた。
夕暮れ時の病院の中庭は、人影もなく、冷たい風が枯れ葉をカサカサと鳴らして転がしていた。
月読はベンチにどっかりと腰を下ろし、私には座るように勧めることもなく、口を開いた。
「単刀直入に言いましょうか。紬さん」
月読は、急に温度の消えた、ひどく冷たい目で私を見据えた。
「シャンバラ社が提供している『ASTRA-RECORDA』……あのゲームの中の世界、ルヴェリア。あれは、架空のデータなんかじゃありません。我々のいるこの地球とは別の次元に実在する、別の惑星です」
「……は?」
頭が真っ白になった。
何言ってんの、この人。
別の惑星? 実在する?
「馬鹿な話だと思うでしょう。でも、事実なんですよ。シャンバラ社は、ルヴェリアという本物の異世界と次元を繋ぎ、その環境データを観測・変換して、ゲームという形で我々の世界に投影しているに過ぎない。君たちがVRゴーグル越しに見ているあの世界は、プログラマーが作った箱庭じゃなく、本物の世界の観測データなんです」
「ちょ、ちょっと待ってください! 意味が分かりません! ゲームの世界が本物!? そんなの、ありえないでしょ!? ファンタジー小説の読みすぎじゃないですか!?」
私は思わず声を荒げた。
こいつ、やっぱりただの頭のおかしいオカルトマニアだ。彗のことを心配している私をからかっているんだ。怒りで手が震えてきた。
「ええ、常識で考えれば荒唐無稽な話です。……でも、氷室彗君の今の状態は、常識で説明できますか?」
月読の静かな声が、私の怒鳴り声をピシャリと封じ込めた。
心電図の異常もない。脳の異常もない。ただ、意識だけがない。
医者すら匙を投げた、現代医学の敗北。
「彗君の昏睡は、ただの偶然でも病気でもありません。シャンバラ社が——正確には、あの会社のトップである有栖川彗心が極秘裏に行っている『特異転送実験』によるものです」
「……転送、実験……?」
「ええ。世界中で眠り続けている『星堕ち』の被害者たち。彼らの意識は、強制的にルヴェリア——あの異世界へと転送されてしまったんです。肉体はこっちに置いたまま、意識だけが向こう側に飛ばされている。だから、いくら地球の病院で検査したって異常が見つかるわけがない」
ガクガクと、膝が震え始めた。
転送。異世界。
待って。待って。頭が追いつかない。
じゃあ、彗は? 彗は今、どうなってるの?
「彗君の意識は今、ルヴェリアにあって……生きている可能性が高い」
生きている。
その言葉が、私の脳みそをガンッと殴りつけた。
「嘘だ……嘘ですよね……? だって、彗はAROなんてほとんどやってなかったんですよ!? なんで彗がそんな目に……」
「それは、現在私も調査中です。本来、転送の対象になるのはシステムの奥深くに同調していたプレイヤーのはず。彗君が巻き込まれたのは、何らかのイレギュラーか……彼自身に何か特別な波長があったのかもしれない」
月読はそう言いながら、眉間に深いシワを寄せた。その目に一瞬だけ、ゾッとするような暗い炎が宿った気がした。
「有栖川のやっていることは、狂ってる。あの男の実験を、これ以上好き勝手にさせるわけにはいかないんですよ。……個人的な、落とし前をつけるためにもね」
月読がポツリと漏らしたその言葉には、ただの正義感とかじゃない、もっとドロドロとした私情のようなものが混じっているように聞こえた。でも、そんなことは今の私にはどうでもよかった。
「私が今日、あなたに接触したのは、あなたが彗くんの友達だからじゃありません。藤宮紬さん」
月読の細い目が、私を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたはAROのトップ層のプレイヤーだ。Lv.287、上位数パーセントに入る同調率の持ち主。そして何より、彗君と最も長い時間を過ごし、精神的な波長が極めて近い。……シャンバラ社の内部データに、あなたは『夢越し通信』の被験者候補としてリストアップされていたんですよ」
「夢越し、通信……」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、あの夢がフラッシュバックした。
暗闇の中で、私を呼ぶ声。
『……紬……』
「ルヴェリアとこちらの世界は、特殊なデバイスを使えば、無意識下——つまり夢の領域で微弱な通信を確立できる可能性がある。君と彗君の脳波の同期率は異常なほど高い。もし君が協力してくれるなら、君の夢を通じて、向こう側にいる彗君とコンタクトを取れるかもしれない」
息が詰まった。
あの夢は、やっぱり。
「……信じろって、言うんですか。そんな……ゲームの世界が本物の惑星で、彗の意識がそこに飛んでるなんて、そんなSF映画みたいな話……」
私は、自分の腕を強く抱きしめた。
怖い。この男が言っていることがもし本当なら、彗は今、あのモンスターがうろつく過酷な世界で、たった一人で生身で放り出されているということだ。
平和ボケした普通の高校生が。痛いのも怖いのも大嫌いな、あの彗が。
そんなの、耐えられるわけがない。
「すぐに信じろとは言いません。無理もない。だが、今の君にはこれしか道がないはずだ。お医者様のお祈りや、ネットのオカルト記事に縋るよりも、ずっと現実的なアプローチだと私は思っていますがね」
月読はそう言って、さっき見せた名刺を、私のコートのポケットにスッとねじ込んだ。
「デバイスの準備にはもう少し時間がかかります。それまでに、腹を決めておいてください。やるか、やらないか。……ただし、これは君の精神にも多大な負荷をかける危険な行為だ。最悪、君の意識も向こうに引っ張られて戻ってこられなくなるリスクがある。よく考えて」
「……」
私は、何も答えられなかった。
やります、と即答できるほど、私の頭はまだこの異常な話を咀嚼しきれていなかった。
もし失敗したら? もし私が死んだら? いや、そもそもこの男がシャンバラ社の回し者で、私までモルモットにするつもりだったら?
疑念と恐怖が渦を巻いて、声が出ない。
「……連絡を、待っていますよ」
月読は小さく肩をすくめると、枯れ葉を踏む乾いた音を立てながら、夕闇の中へと歩き去っていった。
私は、その後ろ姿をただ呆然と見送ることしかできなかった。
◆ ◆ ◆
病室に戻ると、おばさんは給湯室に行っているのか、部屋には彗と私だけだった。
私はフラフラとした足取りでベッドに近づき、パイプ椅子に崩れ落ちるように座った。
ポケットの中の名刺が、やけに重く、熱を持っているように感じられる。
ルヴェリアが実在する?
彗の意識は向こうにあって、生きている?
夢越し通信?
頭の中がぐちゃぐちゃだ。あんな怪しいおっさんの言うこと、信じられるわけがない。
でも。
「……彗」
私は、シーツの上に投げ出された彗の右手を、両手でそっと包み込んだ。
温かい。
生きてる人間の、確かな熱。
脈拍が、私の手のひらにトクン、トクンと伝わってくる。
この体の中に彗がいないなんて、そんなこと信じたくない。
だけど、あの夢。暗闇の中から私を呼ぶ、必死な声。
もし、あれが本当に彗のSOSだとしたら?
「……馬鹿な話だよね」
私は、彗の手に自分のおでこをこすりつけた。
「でもさ……彗。あんたが一人でそんな訳分かんないところで泣いてるなら」
あの男が、有栖川とかいう奴がどんな悪党だろうと。
この話がどんなに狂った罠だろうと。
彗を取り戻せる可能性が一ミリでもあるなら。
私は、悪魔とだって契約してやる。
私のせいで、彗から日常を奪ったんだ。だから、私の命を懸けてでも、あんたを引っ張り戻す。
「……待ってて」
声には出さず、心の中でだけ、強く誓った。
彗の手の温もりが、私に勇気をくれているような気がした。




