第10話 アヤネと市場の朝
――ピチッ、ピチピチ。
どこか遠くで、小さな鳥がさえずる声が聞こえる。
屋根裏部屋の小さな丸窓から差し込む光は、少しだけ白っぽくて、まだ眠たげな色をしていた。俺は軋むベッドの上で、ゆっくりと身体を起こす。
二週間。この世界、ルヴェリアに来てから、それだけの時間が経った。
あの日、火山で死にかけたのが嘘みたいに、今の俺の日常は「さくら茶屋」の屋根裏部屋から始まる。
ワイルドベアとの戦いから数日が経ち、身体のあちこちに残っていた嫌な筋肉痛や、『剣士の怒り』によるダメージの残滓も、サクラさんの出してくれた薬草湯のおかげでようやく消えていた。
だけど、身体の奥底には、まだあの時の感触がこびりついている。
巨大な質量に叩きつけられた衝撃。ひん曲がった古剣の冷たさ。
そして、自分を自分じゃなくしていくような、あの赤黒い殺意の爆発。
「……はあ」
一つ、深いため息をついて、俺は寝癖のついた髪をくしゃっと掻き回した。
考えたって仕方ない。今は、ここで生きるしかないんだ。
階下からは、すでにお湯が沸くシュンシュンという音と、何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってきている。
「スイさーん! 起きてる? もう朝だよ!」
階段の下から、アヤネの元気な声が飛んできた。
あの日、泣きじゃくりながら俺を抱きしめていた少女は、今ではすっかりいつもの明るい「看板娘」に戻っている。
「うん、起きてるよ! 今行くね!」
俺は麻布の簡素な服に着替え、梯子のような急階段を降りていった。
◆ ◆ ◆
さくら茶屋を出て、エルモアの大通りへと向かう。
朝の空気はひんやりとしていて心地よく、石畳にはまだ夜露がキラキラと光っていた。地球の夏と比べれば随分と涼しいが、二つの太陽が昇り始めているせいか、日差しはそれなりに明るい。
大通りに近づくにつれて、ざわめきが次第に大きくなっていく。人々の話し声、荷車が石畳を軋ませる音、何かの動物が鳴く声。
「こっちこっち! はぐれないでね!」
俺の袖口を軽く引っ張りながら、アヤネがずんずんと人混みの中へと分け入っていく。
そして大通りに出た瞬間、俺は思わずその場に立ち尽くしてしまった。
「すごいな……」
俺の口から、感嘆のため息が漏れる。
そこは、文字通りの『ファンタジーのるつぼ』だった。
見渡す限りの広場と大通りを埋め尽くすように、無数の屋台やテントが所狭しと並んでいる。そして、そこを行き交う人々の多様性が、俺の脳の処理能力を軽くオーバーヒートさせた。
人間はもちろんのこと、俺の身長を軽く超える巨体に、ライオンや狼のような頭部を持つ獣人族の人たち。
尖った耳を持ち、どこか透き通るような肌をしたエルフ。
ずんぐりとした体型で、立派な髭を蓄えたドワーフ。
背中に小さな羽を生やした子供のような種族までいる。
色とりどりの民族衣装、金属の鎧、ボロボロのローブ。様々な姿をした者たちが、肩をぶつけ合いながら大声で商売をしているのだ。
「いらっしゃいいらっしゃい! 今朝獲れたての西の森の野ウサギだよ! 血抜きもバッチリだ!」
「オルガナ草、マナの実、揃ってるよー! ポーションの材料にいかが!」
「ドワーフ特製、鋼の長剣! ゴブリンの首くらいならバターみたいに斬れるぜ!」
飛び交う活気ある呼び込みの声。
そして、入り混じる強烈な匂い。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、むせ返るような香辛料の匂い、少し生臭い獣の匂い、そして甘ったるい果実の匂い。それらが渾然一体となって、俺の嗅覚を容赦なく刺激してくる。
「すごい……本当に、圧倒されちゃうね」
「ふふっ、びっくりした? これがエルモアの朝市だよ。近隣の村や森から、色んな種族の人たちが物を売りに来るの」
アヤネが、得意げに胸を張る。
「地球にも市場みたいなものはあるけど……規模が、というか、熱気が全然違う気がする」
「ちきゅう?」
「あ、ううん、こっちの話。……とりあえず、何を買うの?」
ごまかすように尋ねると、アヤネは手元のメモ書きみたいな羊皮紙をひらひらと振った。
「今日はお野菜とお肉、あとは香辛料と茶葉かな。よーし、まずはあっちの八百屋さんから行くよ!」
アヤネの買い物スキルは、控えめに言って凄まじかった。
彼女は目当ての屋台に辿り着くや否や、店主の恰幅の良いおばさんに満面の笑みで話しかけた。
「おばさん、おはよう! 今日の根菜、すごく色がいいね!」
「おや、アヤネちゃんじゃないか。おはよう。今日は何にするんだい?」
「えっとね、この赤カブを十個と、そっちのネギを束で欲しいんだけど……あと、このオルガナ草、もうちょっとだけ安くならないかなぁ?」
「オルガナ草かい? これは今日採れたばかりで新鮮だからねえ、銅貨八枚はもらわないと」
「えー、でもほら、こっちの葉っぱ、少しだけ虫食いあるし。それに今日はお肉もたくさん買わなきゃいけないから、予算がカツカツなの。おばさんのとこで安くしてくれたら、明日も買いに来るから! ねっ?」
「……まったく、アヤネちゃんには敵わないね。仕方ない、アヤネちゃんなら特別に銅貨二枚引いて、六枚でいいよ」
「わぁっ! ありがとうおばさん! 大好き!」
アヤネはパッと花が咲いたような笑顔を見せ、素早く銅貨を支払うと、ズッシリと重い野菜の束を俺の持っている籠に入れてくれた。
「はい、次行くよ!」
嵐のような手際だ。
その後も、アヤネは肉屋の厳ついドワーフのおじさん相手には「おじさんのお肉、サクラさんがいつも褒めてるよ」とおだてておまけを勝ち取り、香辛料屋のエルフのお姉さんには世間話で盛り上がって試供品をもらっていた。
(……すごいな。俺、本当にただの荷物持ちだ)
両手に野菜やら肉やらがパンパンに詰まった籠を下げながら、俺は苦笑するしかなかった。
俺の持っている『スキル』なんて、この活気ある平和な市場では何の役にも立たない。モンスターを倒す力も、高く跳躍する力も、ここでは全く必要のないものだ。
なんだか、アヤネの生きる力みたいなものをまざまざと見せつけられた気がして、少しだけ自分がちっぽけに思えた。でも、それが嫌な気持ちかと言われれば、そうではない。
誰も傷つけず、血を流すこともなく、ただ笑い合って生活を営んでいる。その光景が、ひどく眩しかった。
「あっ、アリシアちゃん!」
薬草や干した不思議な植物などを売っている屋台の立ち並ぶ区画を歩いていると、アヤネがふいに前方を指差して声を上げた。
人混みの中から振り返ったのは、先日ギルドでポーションを売っていた、あの小柄で大人しい雰囲気の少女だった。灰色のローブを着て、手には小さな籠を持っている。
「あ……アヤネさん。ヒムロさんも、おはようございます」
アリシアは俺たちに気づくと、パッと表情を明るくして小走りで駆け寄ってきた。
「おはよう! アリシアちゃんも買い出し?」
「はい。祖母の薬の材料が少し足りなくなってしまって。お二人は茶屋の仕入れですか?」
「うんっ。スイさんに荷物持ちしてもらいながら、市場を案内してたところなんだ」
アヤネが俺を指差すので、俺は重い籠を少し持ち上げてみせてから、軽く頭を下げた。
「おはようございます。あの、おばあさんの具合はどうですか?」
俺が尋ねると、アリシアは少しだけ安堵したような、柔らかい笑みを浮かべた。
「おかげさまで、以前よりはずっと落ち着いています。でも、まだ完全に良くなったわけではないので……近いうちに、また月光花を採取しに行こうと思っているんです」
「月光花……あの、満月の夜にしか咲かないっていう花ですよね?」
「はい。ギルドで依頼を出してもいいんですが、自分で採りに行った方が確実なので。危険な場所ではないですし」
「月光花かぁ。大変だね……私たちも、この間森でワイルドベアに遭ったばっかりだから、アリシアちゃんも本当に気をつけてね」
アヤネの言葉に、アリシアは俺の顔をじっと見つめた。
「はい、スイさん……あの時は本当にありがとうございました。……私、もっと魔法を練習して、いつか恩返しができるようになりますから!」
真っ直ぐな、汚れのない瞳。
「……ううん、気にしないで。俺も、たまたま運が良かっただけだからさ」
俺の言葉に、アリシアさんは首を振った。
「じゃあ、私、行きますね! また茶屋にも遊びに行きます!」
アリシアさんはぺこりと頭を下げ、人混みの中へと消えていった。
「アリシアちゃんも、頑張ってるよねぇ」
アヤネが独り言のように呟く。
「あの子、一人でお婆ちゃんを養ってるんだよ。健気だよね。……スイさんも、あの日助けてあげて、本当によかったと思う」
「……うん。そうだね」
自分の手が血に染まったことへの嫌悪感は消えないけれど、こうしてアリシアさんが笑っていられるのなら、あの暴力的で不快なスキルの行使にも、少しは意味があったのかもしれない。
一通り目的のものを買い揃え、俺の腕がそろそろ重さに悲鳴を上げ始めた頃。
市場の端、大通りの喧騒から少しだけ外れた噴水広場の隅で、アヤネがふと足を止めた。
「あ、ヨシュアさんだ」
アヤネの視線の先。
石畳の上に折りたたみ式の小さな木製スツールを置き、大きな画板を立てて座っている老人の姿があった。
年齢は七十代くらいだろうか。真っ白な髪を後ろで無造作に束ね、着古した、しかし清潔なリネンのシャツとズボンを身につけている。目尻には深く穏やかな皺が刻まれ、その手には細い絵筆が握られていた。
彼は、目の前に広がる朝市の喧騒を、静かな眼差しで見つめながら、キャンバスに向かって筆を走らせていた。
「ヨシュアさーん! おはよう!」
アヤネが両手を振って駆け寄ると、老人は絵筆を止め、ゆっくりと振り返った。
「おや、アヤネちゃんじゃないか。今朝も買い出しかい? 精が出るね」
老人の声は、まるで使い込まれた楽器のように深く、そして驚くほど穏やかで温かみがあった。
俺もアヤネの後を追って老人に近づく。
「うんっ。サクラさんに頼まれて。……あ、紹介するね。この人、ヒムロ・スイさん。最近、うちのお茶屋の屋根裏部屋に住み込みで働くことになったの。冒険者なんだよ!」
「ヒムロ・スイです。よろしくお願いします」
俺が軽く会釈をすると、老人は細めた目を少しだけ見開き、俺を上から下まで静かに観察した。
嫌な視線ではなかった。ただ、何かを値踏みするような、それでいて深い慈愛を含んだような、不思議な目だった。
「ほう……初めまして、スイさん。私はヨシュア。ただの絵描きさ」
ヨシュアと名乗った老人は、柔らかく微笑んだ。
「ヨシュアさんはね、もう三十年以上も前からエルモアに住んでるんだよ。街のあちこちで、こうやって絵を描いてるの」
「三十年……すごいですね。俺なんてまだ数日なんで、右も左もわかりませんよ」
「ふふ、焦ることはないさ。エルモアは良い街だ。若者が居場所を見つけるには、悪くない場所だよ」
そう言って、ヨシュアは再び画板に向き直った。
俺は、ふと気になってそのキャンバスを横から覗き込んだ。
「……っ」
息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、たった今俺たちが歩いてきた、エルモアの朝市の風景だった。
だが、ただの風景画じゃない。
差し込む朝日の角度、屋台のテントが落とす影の濃淡、行き交う人々の服の皺、獣人の毛並み、そして何より、そこにいる人々の『活気』が、キャンバスの中から音が聞こえてきそうなほどの圧倒的なリアリティで描き出されていた。
まるで写真みたいに正確なのに、写真よりもずっと温かく、感情がこもっている。
素人の俺が見ても、これがとんでもない傑作だということは一瞬で理解できた。
「すごく綺麗な絵ですね……なんだか、生きているみたいだ」
俺が素直な感想を漏らすと、ヨシュアは嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。最高の褒め言葉だよ」
ヨシュアは絵筆を絵の具のパレットに置き、キャンバスに描かれた群衆の姿を、愛おしそうになぞった。
「この街を、この時間を、覚えておきたくてね。……いつか、失われるかもしれないから」
その言葉の響きに、俺は一瞬、心臓が冷たくなるような奇妙な違和感を覚えた。
いつか、失われる?
どういう意味だろう。街がなくなってしまうということだろうか? それとも、彼自身の寿命の話か?
だが、振り返ったヨシュアの目は、相変わらず穏やかで、そこには何の悪意も悲壮感もなかった。ただの老人の、ちょっとした感傷。あるいは冗談めいた響きすらある。
気のせいか。俺が最近、死にかけたりしたせいで、少し神経過敏になっているだけだろう。
「ヨシュアさん、そんな寂しいこと言わないでよ! エルモアはずっとこのままだよ!」
「ははは、そうだね。アヤネちゃんがそう言うなら、きっとそうだろう。……おっと、引き止めてしまったね。買い物の邪魔をしてすまなかった」
「ううん、大丈夫! ヨシュアさん、また茶屋にお茶飲みに来てくださいね! サクラさんも会いたがってたよ!」
「ああ、近いうちに行くよ。サクラさんにもよろしく伝えておくれ」
ヨシュアがひらひらと手を振るのを見送り、俺たちは再び市場のメインストリートへと戻った。
◆ ◆ ◆
「ねえスイさん、お腹空かない? 私、ちょっと小腹減っちゃった」
買い出しの荷物を持ち直しながら歩いていると、不意にアヤネが立ち止まった。
彼女の視線の先には、屋台の並びの端っこで、もうもうと白い煙を上げている小さな店があった。何かを鉄板でジュージューと焼いているらしく、焦げた醤油のような、たまらなく食欲をそそる匂いが漂ってきている。
「あ、いい匂い。何焼いてるんだろう」
「ふふーん。あれはね、エルモア名物『火竜の卵焼き』だよ!」
「……えっ? 火竜……?」
俺はギョッとして足を止めた。
火竜。あの、俺がこの世界に落ちてきて最初に遭遇し、神楽圭にバラバラにされていた巨大な化け物、レヴァンテス。あんな恐ろしい生物の卵を食べるのか、この街の人たちは。
「えっと、ちょっと待って、火竜ってあの竜……?」
「あはは! 違う違う! 名前だけだよ! 普通のコッコドリっていう鳥の卵に、辛いスパイスと特別な魔力で味付けして焼いてるの。食べたら口の中から火が出るくらい熱くて辛いから、そういう名前がついたんだって」
「もう、びっくりさせないでよ……」
ホッと胸を撫で下ろす俺をよそに、アヤネは小銭入れから銅貨を取り出すと、屋台のおじさんに渡して、串に刺さったソフトボールくらいある巨大な卵焼きを二つ受け取った。
表面には赤い香辛料のようなものがびっしりと塗られており、見るからに辛そうだ。
「はい、スイさんの分! 食べてみて、絶対好きだから!」
「ありがとう」
俺は籠を片手に持ち替え、受け取った串の先にある卵焼きに、恐る恐るかぶりついた。
「……んっ!?」
口に入れた瞬間、爆発的な旨味が広がった。
地球の卵焼きのような甘さは全くない。出汁のような深いコクと、舌を刺すような鮮烈な辛味。そして、中からトロリと溢れ出してくる半熟の黄身が、その辛味をマイルドに包み込んでいく。
熱い。辛い。でも、すごく美味しい。
「……美味しい、これ。すごく美味しい……!」
「でしょー! 私もこれ大好きなんだ!」
俺が目を丸くして食べるのを見て、アヤネは満面の笑顔で自分の卵焼きを頬張った。
辛さで額に汗を滲ませながら、二人でハフハフと卵焼きを食べる。
ただの屋台の買い食い。地球にいた頃、紬と一緒に駅前のコンビニで肉まんを買い食いしていたのと同じような、他愛のない時間。
こんな異世界で、モンスターに殺されかけて、自分でもよくわからない力に振り回されているのに。
「美味しい」と感じる味覚は、確かに俺が人間として生きている証拠だった。
買い物を終え、重い籠を両手に抱えながら、俺たちはさくら茶屋へと続く緩やかな坂道を登っていた。
太陽はすっかり高くなり、エルモアの街全体が明るい光に包まれている。
「ふー、重かったぁ。スイさん、助かったよ。ありがとうね」
「これくらい、全然平気だよ。あの森を逃げ回るのに比べたら、ただの散歩みたいなものだし」
「あはは、そうだね」
隣を歩くアヤネが、ふと俺の顔を見上げて、嬉しそうに目を細めた。
「……ねえ、スイさん」
「ん?」
「スイさん、なんだかもう、すっかりエルモアの人っぽくなってきたね」
「……え?」
俺は思わず足を止めた。
エルモアの人。
俺は、異邦人だ。地球という、この世界とは全く違う法則で動いている場所から、ある日突然放り出された迷子。
帰らなきゃいけない。紬が待っている、あの平和で退屈な日常に。両親が心配しているはずの、あの世界に。
そう思っていたはずなのに。
「だって、朝市のおばちゃんたちと普通に話してたし、火竜の卵焼きも美味しそうに食べてたし。……私、スイさんがこの街に馴染んでくれて、すごく嬉しいよ」
「そう、かな……」
俺は少し俯いて、再び歩き始めた。
嬉しいような、怖いような、複雑な感情が胸の奥で渦巻いていた。
ここに馴染むということは、地球の日常から遠ざかるということなんじゃないか。
俺の居場所は、ここなのか、あそこなのか。
◆ ◆ ◆
その日の夜。
さくら茶屋の営業も終わり、静まり返った屋根裏部屋で、俺はベッドの上に胡座をかいて虚空を見つめていた。
「……ステータス」
小さく呟くと、視界の端に半透明のウィンドウが浮かび上がる。
NAME: ヒムロ・スイ
LEVEL: 7
JOB: 黒鷲の簒牙
そして、その下。
装備枠 5/6
1. 棍棒殴打
2. 剣士の怒り
3. 跳躍
4. 咆哮
5. 恐慌の目
6. [空き]
俺の今の全てだ。
あの火山地帯で、ゴブリンを殺して奪い取った五つのスキル。
見ているだけで胸がムカムカする。忌まわしい。だけど、これがないと俺はこの過酷な世界で生きていけない。
六つあった装備枠は、あと一つしか空いていない。次に何かを奪えば、もう枠は埋まる。その先どうなるのかは、わからない。
奪ったものを抱え込んだまま、俺は今日、アヤネと一緒に朝市を歩いた。笑って、驚いて、卵焼きを食べた。
「……地球の市場には、もう行けないのかな」
天井の木目を見つめながら、ポツリと呟く。
駅前のスーパー。休日の商店街。紬と一緒に歩いた、見慣れた景色。
それはもう、手の届かない遠い場所にあるような気がした。
「でも……」
俺は、今日買ってきたばかりの青いリンゴのような果実を手に取った。
かじると、少し酸っぱくて、でもみずみずしい甘さが口の中に広がる。
「……ここにも、生活があるんだよな」
朝市の喧騒。アリシアの優しい笑顔。ヨシュアの描いた美しい絵。
そして、アヤネの明るい声。
俺は、どうやって帰るかもわからないまま、この『エルモア』という街で、少しずつ自分の場所を作っていくのかもしれない。
それが正しいことなのかどうかはわからないけれど。
今はただ、明日もあの市場の匂いを嗅ぎたいと、素直にそう思っていた。
◆ ◆ ◆
広場の片隅。
夕闇が街を染め、市場が店を畳み始める時間。
ヨシュアは、まだ画板の前にいた。
人影もまばらになった広場で、彼は静かに筆を走らせている。
キャンバスに描かれた、活気あふれる朝市の絵。
その色彩の奔流の、一番端の人混みの中に。
二人の後ろ姿が、密かに描き込まれていた。
籠を背負った青年と、その隣を元気に歩く三つ編みの少女。
「…………」
ヨシュアは筆を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
彼の穏やかな瞳が、今しがた描き入れた青年の背中を見つめる。
「……新しい子だね」
誰に聞かせるでもない、静かな呟き。
「サクラさんが、あれほど必死に匿うとは。よほどの何かを、抱えているのだろう」
老人は、小さく微笑んだ。
それは慈愛に満ちたようでもあり、あるいは、深淵から獲物を見守るような、底知れない冷徹さを孕んでいるようでもあった。
「楽しみだよ。この街が、どう変わっていくのか」
彼の手は、相変わらず絵具で汚れ、皺だらけのままだった。
だけど、筆を持つその指先は、一寸の狂いもなく、次の色彩を選び取ろうとしていた。
エルモアの夜が、静かに幕を開けようとしていた。




