ヘルガの言い分(2)
「……うッ……」
「あっ! 気がつかれました院長様!」
「おお! よかったこと。——神よ、御慈悲に感謝申し上げます」
全身が痛い。それにあちこちが鋭く痛む。
包帯が巻かれてるらしい感触と、湿布の匂い。
きっとひどい顔をしてるんだろうと思いつつ声のほうへ顔を向けた。
全体に生成り色(つまり脱色も着色もしてない貧しい色)の修道服をまとった修道女様がふたり。
お年を召した気品のあるおかたと、まだ若いおかただ。
「ご安心なさってくださいね。ここは女子修道院付属の施療院です。あなたは崖から落ちたようなのですが、憶えていらっしゃる?」
「……はい」
修道院……わたしがノア様と不貞を働いたのも聖堂の隣の男子修道院宿舎だった。
ノア様は崖から落ちたわたしを捕まえられなかったのね。
もう夜だったから……?
「全身を打っていますし、あちこち怪我をして傷もたくさんあります。しばらくはとても痛いでしょうし、動けないでしょう。焦らず、ここでゆっくり治してゆきましょうね」
「あ、あの修道女様! わ、わたし妊娠しているのです! こどもは……赤ちゃんは無事でしょうか?」
「はい。神の思し召しでしょう。お子は無事ですよ。その子が生きたいと神に祈ったのかもしれませんね」
赤ん坊はことばがわからないししゃべれないんだから、そんなことはないと思うけど、修道女様はまるで女神様みたいに優しいほほえみをくださった。
「うれしいです……」
じわっと涙が出た。
父親から堕ろせと……殺せと罵られた子だけど、わたしにとっては大事な子。
あんなおそろしい男だったけど、だまされただけだとしても一度はお慕いして生涯ついていこうと決めた相手だ。それに……アブラハムの子を身籠った時に感じた嫌悪とか諦めとか不安はなかった。
神様が産むことをお許しくださったんだと信じた。
「あなたのお名前を聞かせていただけるかしら?」
「あ、……ヘル……ミーネ、と……」
「そう、ヘルミーネさん。とてもよいお名前ですね。わたくしは修道女エリーザベト。この修道院の院長です」
「院長様……」
そんな高いご身分のかたが召使いみたいな粗末な服を着て、こんな行き倒れの世話をしてくださるなんて。
「修道女ヘルガ、飲み薬と白湯を」
「!」
「畏まりました院長様」
あのかたもヘルガだなんて。
どうしよう。とっさに嘘の名前を答えちゃったけど、もう絶対に本名は名乗らないほうがいいかも。
「ヘルミーネさん、お顔やドレスの胸にまで血がついていましたが、そこにお怪我はないようです。返り血を浴びたのでしょうか?」
「え、あの……返り血というか……その、わたしの召使いが……目の前で斬られたのです……それで……」
「斬られた。……物盗りですか?」
「わ、……わかりません……」
「そうでしたか。大変なことでしたね。その召使いのかたは女性ですか? それとも?」
「女性です」
「そうですか。では、きっとあちらのかたでしょう」
「えっ?!」
ざわりとした。
ラウラの死体が発見されたの?
「もうひとり、明け方に村人が発見し、こちらへ運びました。崖の途中の木にひっかかって、岩などに直撃せずに命拾いをしたようです」
「ええっ?! あ、あの、その人は生きているのですか?!」
「はい、命はまだ、あります。ただ傷が深く、出血が多かったようで、どこまでもつかどうかは……」
「お願いです院長様! その人に——ラウラに会わせてください!」
「お気持ちはわかりますが、まだ動かないほうがよろしいですよ」
「平気です、わたし——わたしの命の恩人をこのまま見殺しになんて……!」
「よろしいでしょう。修道女ヘルガ、修道女ヨハンナ、肩を貸してさしあげなさい」
「畏まりました」
左右からわたしの寝間着の下の下穿きの腰をつかんで持ち上げてくださる修道女様たちの肩へ腕をまわし、わたしは一歩また一歩と足を進めた。
施療院の部屋は大きく、いくつかの仕切りがあって、出入り口に近いところにそのベッドはあった。
ラウラ!
「ラウラ! ラウラ、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
修道女様たちの肩を借りたまま、わたしは恥も外聞もなく泣いた。
ざっくり斬られたように見えた胸から肩には分厚く包帯が巻かれ、崖の途中で打っただろうアザやすり傷が顔にも、きっと見えないところにもあるだろう。
「さ、お座りなさい」
院長様が小さな椅子をお持ちくださって、わたしは介助されながら腰かけた。
上体をまっすぐ立てておくだけで痛いけど、こんな重篤なラウラにすがるわけにはいかない。
「意識はありません。それに体温も下がっています。目覚めてなにか少しでも口にすることができれば、失った血を増やすこともできるでしょうが……」
「ラウラ……!」
そうだ。ラウラはこういう顔だった。
タリアからの移民の子で、ズーリーのユード人街のはずれでアブラハムが拾ってきたという女の子。
ユード教徒のブルクミュラー家に、新しく来た聖秘蹟教徒の後妻の召使いとしてアブラハムが雇った子だ。十六、だっけ?
タリアなまりで聴きづらいから、わたしの前ではあまりしゃべらないようにと横暴に言いつけたのは……わたし。
わたしの不貞を知りながらアブラハムに密告もしないで、恩もなにもないのにわたしを庇って殺されかけるなんて、なにがなんでもおかしい。
「ラウラ!……どうして? わたし、あなたになにもしてやれてないのに、どうして? どうしてわたしを助けるの……? わたし、あなたになにを返せばいいの?」
血の気がなくてまっしろなラウラの頬。青や赤のアザやすり傷もある。右腕から右胸、それに顎にも包帯が巻かれている。
どうすればいいの?
わたしはラウラの親もきょうだいも知らない。
アブラハムなら知ってた?
でもわたしはもうアブラハムに会って確認することはできない。
生き延びて、ノア様の追っ手からのがれたら、誰かからアブラハムに問い合わせてもらう? 誰に?
とりとめもないことでぐるぐるしていたわたしの肩に、そっと院長様の手が置かれた。
「ヘルミーネさん、あなたも怪我人です。あんな高い崖から落ちたのですよ。あなたまでここで倒れたら、わたくしたちの手が足りなくなるかもしれません。ここは任せて、お休みなさい、ね?」
「はい……申し訳ないことを……ご面倒をおかけいたします」
また二人の修道女様の腕を借りて立たせてもらい、ベッドに戻った。
「院長様、どうぞラウラを……お願いいたします。最期をわたくしにも看取らせてくださいますか」
「その時はそうしましょう。ですからヘルミーネさん、あなたはしっかり養生なさって回復だけをお考えになって。われわれがお手伝いしますからね」
「ありがとうございます。感謝申し上げます」
わたしは痛みをこらえながら横にしてもらい、皆様へ一礼した。
「あなたとラウラさんに神のお恵みが垂れますように。祈りましょう」
四日目の早朝、わたしは修道女ヘルガ様に起こされた。
「ヘルミーネさん、起きてください。ラウラさんの意識が戻りそうです」
ささやき声で肩を揺らされたわたしは、ラウラという単語に飛び起き、ようとしてうめいた。
「クッ……」
「ごめんなさいねヘルミーネさん、慌てず、ゆっくり起きてください」
「は、はい」
ラウラがまだ生きている、そう思うだけで泣きそうになるけど、まさか……命が助かることができるの……?
夢みたいなことを思いながら、わたしはラウラのところまでのろのろと移動した。もちろん修道女ヘルガ様ともう一人修道女アガーテ様の肩をお借りしている。
ベッド横には椅子と、院長様ほか数名の修道女様たち。
院長様はわたしだけを座らせ、ラウラの様子を教えてくれた。
「未明からうめいたり身動ぎしようとしています。恐らく痛みを感じているのでしょう。これまではまったく反応がなかったのに」
「え、えっ? あの院長様、ラウラは——ラウラは生きられるのでしょうか?!」
「まだわかりませんが、可能性は少し増しました。それにほら、ご覧なさい、まぶたが動いているでしょう?」
「ほんとだ……ラウラ! がんばってラウラ、ああ神様!」
わたしは思わずラウラの手を握りしめた。
冷たい手……傷だらけで、その前からきっと水仕事で荒れていた手。
わたしがあれこれ文句垂れながらのんきで贅沢でワガママに生きていた頃、新入り召使いのラウラは休む間もなく働いていたんだろうな。
それに移民というから、スィザーの帝国語も憶えなくちゃいけないし、お屋敷で働くならなおのこと。しかもワガママ奥様の不貞の片棒まで担がされて……。
わたしはなんてひどいことをラウラにさせてきたんだろう。
「……〜〜〜……」
「ラウラ!」
「ヘルミーネさん、大きな声を上げてはなりません。重傷患者なのですから」
「すっ、すみません……いまラウラがなにか」
「タリア語に詳しい者がいましたね? 確か——修道女イザベッラ?」
「はい院長様、お間違いございません」
「すぐ呼んでください」
「ただちに」
ラウラのそばに付いていた修道女カタリーナ様がさっと衣をひるがえした。
修道女イザベッラ様はすぐお越しになって、ラウラの枕元に立たれる。少しご年配のおかただ。でも院長様よりはちょっと下な感じ。
「〜〜〜〜◯◯◯、◯◯◯◯◯◯……」
またなにかラウラの悲鳴みたいな声が上がる。
「……『奥様』、『逃げて』と言っているようですね」
「ラウラ!」
もう涙が止まらない。こんなになってもまだラウラはわたしのことだけを案じているんだ。
逃げたのに。わたしはおまえを見殺しにして逃げたのに。
それにあんなにひどいことをたくさんさせた……。
「修道女イザベッラ、あなたはしばらくラウラさんに付いて通訳をお願いします。ほかにもタリア語がわかる者はいましたね?」
「修道女イポリータと修道女ミカエラが、タリアに近い地方出身でございますね」
修道女イザベッラ様がすぐお応えになる。
「ではその二人も交互に、あなたの代わりにここに詰めるように伝言を——修道女クリスティーナ、伝令を頼みます。ヘルミーネさん、朝餉の時刻になったらここに食事を運ぶので、あなたは長椅子に横になっておいでなさい。ラウラさんが目覚めたらすぐにお話しできるでしょう」
「感謝申し上げます院長様」
横になるよう声をかけられても、わたしはラウラの手を離せない。このまま離したら忘却の河のむこうへ連れていかれてしまうような気がして。
修道女様がたはわたしを無理に移動させたりせず、修道女イザベッラ様だけを残して散ってゆかれた。
修道女イザベッラ様は自ら椅子を運んでこられて、ラウラの反対側の枕元に腰をおろされる。
「ヘルミーネさん、おからだの痛みはどのような具合ですか? 少しは和らいでいますか?」
「……いえ、まだ、あまり変わりはないようで……」
「全身の打ち身ですからね、とにかく日が経てばゆっくりと癒えるものです。おなかや頭を強く打たなかっただけでも神のお恵みでしょう。神に感謝を。そしてラウラさんのために祈りましょう」
「はい。わたくしは不逞の輩でございますが、恩人への感謝を忘れるほどの人でなしにはなりたくございません」
修道女イザベッラ様は静かにうなずかれて、ラウラの額に当てられた手巾を取り上げ、枕元にあるたらいでしぼり、またラウラの額に乗せた。
血の気はないのに、傷だらけのラウラは熱を出しているらしい。
時折、さっきの『奥様逃げて』をうわごとで繰り返してる。
ラウラは本当にタリアの育ちで、タリア語に馴染んだ暮らしをしてたらしい。夢をタリア語で見てるんだろう。
「ラウラ、どうか——生きて、お願い」
「……オクサマ……」
「ラウラ!」
生きてる!
ああ、神様、ラウラが生き返りました!
「ヘルミーネさん、どうぞ大声をお出しにならないで。ラウラさんにはきっと苦痛です」
「は、はい、申し訳……ラウラ……ありがとう、生きててくれて」
「……オクサマ、ワタシ、オクサマノ、オヤクニタチタカッタ、デス……」
『おおラウラさん、どうぞお静かに。あなたの奥様はご無事です。あなたもどうか、お気を確かに持ってくださいね。ここは修道院の施療院です。あなたと奥様を脅かす者はおりません』
『……ありがとうございます……修道女様……』
『これも神の思し召しです。あなたはどうか生きてください、あなたの奥様のためにも』
「ラウラ……!」
なんて言えばこの感謝が伝わるの?
なんて言えば命の恩人に報いることが?
傷だらけの、顔色の悪い、声を出すのもやっとのラウラの手を握りながら、わたしは初めて神様に心からの感謝を捧げた。




