ヘルガの言い分(1)
「ノア様!」
「ヘルガ!」
お顔を見ただけで胸がいっぱいになるのに、抱きすくめられて、ああ……狂おしいくちづけまで……。
わたし、もう一生このかたのおそばにいるわ!
「後悔しないか?」
「しません! 決して!」
ノア様は凛々しくほほえんでくださった。
「ならば行こう! 私もそなたを離したくない」
そうおっしゃってノア様は、わたしの腰を抱きかかえるようにして馬車に乗り込んでくださった。
この立派な馬車に乗るのは二度目……。
初めての時、ノア様はわたしをかわいいとおっしゃって、そのままたくさんかわいがってくださった。
ああ、なんてしあわせなの。
あんな年寄りの金貸しと結婚させられて、こどもを産まされて、こんな不幸せな女は世界中どこにもいないくらい、みじめだったわたしの人生が開けたんだ!
お美しくて高貴なノア様は、東の大国エステルライヒ王国の伯爵様でいらっしゃる。
西の大国ランツァからの旅の途中だからとそれなりに身をやつしておいでだけど、お肌の白さ、つややかさ、若さ、それにたくましさ! ああ!
あの卑しい金貸しとなんか比べてはいけない高貴なおかただけど、どうしても比べちゃうわよね。
わたしが十五の時、家が破産したのよ。
お貴族様とも取引していた大きな軍馬の牧場を営んでいたわたしの両親は、山奥の田舎者だけどとっても裕福だったと思うわ。わたしと妹は『お嬢様』と呼ばれ、ドレスも靴も帽子だって村の娘たちとは雲泥の差の上等なものを与えられていた。
立派でたくましいお父さん、優しくてほがらかできれいなお母さん、それにおませでかわいい妹のハンナ。
そんなわたしたちのしあわせは、ある時突然に奪われたんだ。
恐ろしい死神がお父さんもお母さんも牧童たちも、みんなまとめてあの世へ連れていってしまった。
わたしと妹はほんの子供で、家業のことなんかなんにも知らなかった。教師はつけられていたけど、淑女っぽくなるための教養程度で、難しい商売のことなんてなんにも知らない。淑女っぽいっていうのも、どうせ平民は本物の淑女になんてなれっこないしね。淑女って貴婦人のことだもん。せいぜい成金ブルジョワの奥様になって淑女を気取るくらいよね。
そんなわが家に次々と借金取りがやってきて、家も土地も牧場もみんなよこせと怒鳴ったわ。あんな悪魔みたいな顔の男たち、はじめて見た。
こわくてこわくて、眠れない日が続いたっけ。
でも大都市から来た年寄りの金貸しと、外国の子爵だという年寄りの男の人がそういう問題にけりをつけてくれて、それで落ち着くと思っていたら、いつのまにか、わたしがその年寄りの金貸しと結婚することになっていたのよ!
悪夢ってこういうことだわ。
それに妹のハンナもまだたった十三なのに、二十三だという子爵の息子と婚約させられ、連れて行かれてしまった。
それでもハンナはまだいいわよ。その息子は十しか年上じゃないんだから。
なのにわたしはたった十五なのに、五十のおじいさんと結婚するのよ?!
あんまりじゃない!
家があったシュヴァイツ村から、金貸しの家がある大都市ズーリーに連れていかれる旅の間じゅう、わたしは泣いた。泣いて泣いて泣きじゃくったわよ。
だって、ステキな男の子と出会ったり、誰かを好きになったこともないのに! 十五の乙女を後妻にしようなんて、なんて悪どい金貸しなのよ!
残った牧童たちも、そのおかみさんたちも別れに泣いてくれてたっけ。だってシュヴァイツ村なのに、シュヴァイツ家の人間は誰もいなくなるんだから。
もうみんなと会うこともないんだろう。わたしはズーリーの異教徒の金貸しの女房にさせられるんだ。
異教徒の金貸しアブラハム・ブルクミュラーの家は、それは大きなお屋敷だった!
都市では集合住宅や小さな家に暮らすのがふつうだと聞いていたけど、お屋敷持ちもいるのね……。もちろんユード人はユード人街に住むという決まりがあるから、ズーリー市の外れに位置しているのね。
わたしはユード教徒と結婚させられるけど、絶対改宗なんかしないんだから!
ユード教徒の慣習だからとアブラハムとわたしは白の婚礼衣装を着せられて、もうはっきり顔をしかめちゃった。だってこれ死装束じゃない! ゾッとした。
だけどそれは贅沢な絹だった。それに同じ絹のレースのヴェール。それからとってもとーっても高価だろうってことしかわからない、長い真珠の首飾り。
それから整えられた贅沢な寝室、衣装室にも立派な服や靴や帽子や小物がずらり。
それってわたしのものってことよね?
やっぱり金貸しってすごく儲けてるのね。そりゃあ他人に貸すほどお金があるんだから、だから豪商なんて呼ばれるんだわ。
アブラハムは家族と家をなくしたわたしを、壊れ物を扱うみたいに接した。
ズーリーまでの馬車の中で泣き続けたせいもあるだろうけど、わたしが落ち着くまで初夜は日延べしようと言った。
初夜がまだでも、もう、わたしはユード人の金貸しの女房にされちゃったけど、お姫様みたいな暮らしは悪くないかもしれない気がしてきた。
ただ、アブラハムにわたしとあまり歳の違わない娘がいたというのにはびっくりしたわ。五十のおじいさんに十代前半の娘って、そうとう遅くに若い奥さんもらったのね?
上の子は十三でハンナと同じね。下の子は十一。
そんな歳の近い子供たちが、知らない女の子をいきなり母親だとか言われても、なかよくなれると思う?
姉のヨハネッテはまあ、おとなしくて物静かで、いかにもお勉強できますってかんじの子で、アブラハムのお手伝いなんかもしてるみたい。十三で商売の話がわかるの?
それより問題は妹のゴルトルーンよ。生意気にわたしをにらんでくるし、話しかけたらそのぶんの返事を短くしかしないから、なかよく? そんなの無理でしょ?
なんだかんだ日延べしていた初夜だけど、結局、半年くらいで床入りしたわ。
十六歳の誕生日の夜だった。その晩はずっと泣いた。
それからは、回数はそんなにしてないのに、気がついたら妊娠してた。
アブラハムの先妻のお輿入れに付いてきた侍女で、今は家政婦だという中年女ギーゼラが、わたしの月のものの管理をしてたみたいで、孕みやすい日がわかるんだとか。
いやだな、そんなの。キモチワルイ。魔女だったりするんじゃない?
でも、毎晩年寄りと寝るのもうれしいわけないから……妥協。
アブラハムの娘たちは子供だし、まあ仕事はそこそこできるかもだけど、こんな大きな商会をすぐに、になっていけるわけないし、ここでアブラハムにぽっくり逝かれちゃったらわたしが路頭に迷うってことよね? だってこどももいない、後ろ盾もいない、買われた後妻だもの。
だから妊娠したのはしかたない。わたしはわたしのためにアブラハムの子を一人は産まないと立場がないんだもの。だからおなかの子は大事にするわよ。
こどももいないのにアブラハムが死んじゃったら、ヨハネッテとゴルトルーンが遺産を相続して、商会はヨハネッテの婿が継ぐんじゃないかしら。
商会の執事の一番若いフィンセントが、ヨハネッテの婚約者だって。眼鏡をしててもっさりしてておじさんに見えたけど、それでも十二しか上じゃないって。異教徒ってヒゲがあるし変な帽子かぶってるし、老けて見えるのかしら。
出産はわたしが十七になってすぐ。しかも生まれたのは双子。
お産は痛くて苦しくて痛くて苦しくてアブラハムへのうらみつらみを口走った気がするわ……しかたないよね?
だって双子なんて聞いてない!
そりゃ大きなおなかだねと近所のおかみさんたちから言われたけど。
なのに……最初に生まれた子が息をしてないって!
ひどい! こんなに苦しんで産んだのに、神様はひどい!
それでよけいに泣き叫んで何人もでおさえつけられて、やっと次の子が生まれた。
わたしはもうぐったり疲れ果てていて、生まれた子がかわいいかどうかなんて思う余裕もなかったのよ。
とても大きな子だった。双子だなんて信じられないくらい、ふつうのこども並だと、産婆がにこにこ笑っていた。
それって、おなかの中で死んでしまった長男は二男のせいで大きくなれなかったってこと? それってひどくない? 一緒におなかの中にいたのに兄弟が嫌いだったの?
名づけて長男ゴルトベルト(死産だけど墓碑に刻むから名前はつけるの)、二男ジルバーベルトだってよ。まさに金貸しのうちの子って名前だわ。もちろんゴルトルーンもね。金と銀だなんて。もし次に娘が生まれたらジルヴィアとかかもしれないわ。
わたしの両親や牧童たちが死んだあの疫病で、アブラハムの先妻は亡くなったのね。そのひとは貴族で、ヨハネッテの名前は母親からもらったものだとか。しかも王家の血筋なのに没落して、ついに異教徒の平民金貸しに売り飛ばされたってことなのよね。その貴族、よっぽどアブラハムに借金してたのかしら?
お気の毒かもしれないけど、貧乏貴族のお嬢様が若い金貸しに売られるのと、ブルジョワの娘が年寄りの金貸しに売られるのと、どっちがマシ?
まあ若いといっても当時アブラハムは三十五の立派なおじさん、ヨハネッテお嬢様は十五だったらしいわ。
ジルバーベルトがまだハイハイもしないうちに、わたしはまた妊娠させられた。
年寄りのくせに、ほんとにこの的中率はどうなのよ?
いまいましいギーゼラめ。息子が後を継いだら絶対追い出してやるんだから!
それに乳母に乳やりをまかせちゃうと、次を妊娠しやすくなるって話もあとで産婆から聞いたのよ。
アブラハムもそれを狙ってたのかも。なるべく自分が歳をとらない(ったってもう五十過ぎの老人だけどね!)うちに、わたしにこども産ませとこうって?
ジルバーベルトはアブラハムと似てる。わたしと違って金髪じゃなくて、アブラハムよりは明るいけどくすんだ濃い麦わら色の髪、目の色もアブラハムの青。
そう思うとあんまりかわいく感じないわね。
次もアブラハム似だったらどうしよう。
次の子の臨月になる少し前、ブルクミュラー商会で騒動があった。
アブラハムから借りた多額の借金を返せる見込みがなくて、幼い娘を売ったという地主の男がアブラハムを短剣で襲ったんだけど、それを庇ったヨハネッテの婚約者フィンセントが殺されたのよ! その男はもちろん処刑されたけど。
こわい……金貸しってこんなにうらみを買ってるものなのね?
こわいわ……しかもわたしはアブラハムの息子を産んでる。がめつい金貸しの跡継ぎを産んだって逆恨みされるんじゃ……?
こわくて家に閉じこもるうち、わたしはアブラハムの三男を産んだ。
前の時は長い長い時間のたうったけど、今度は少しだけ苦しんだだけで生まれた、みたい。でも痛かったのに変わりはないのよ。
ジルバーベルトより小さいからかしら? それとも二度目のお産だから?
親孝行な子ね、おまえは。
アブラハムは泣いてよろこび、神に祈りを捧げ、わたしを賛美し、新しい息子にゲルディアンと名づけた。今度もお金なのね……。
ジルバーベルトの時と同じで、すぐに乳母が連れてこられたけど、わたしはしばらくは自分で乳を飲ませてみたいと『ワガママ』を言ってみた。
アブラハムはそれを許して、新しい乳母タマーラにはゲルディアンの雑用(おしめとか沐浴とか抱っことか)と夜の乳やりをしてもらった。
ジルバーベルトの乳母ハンナは、ブルクミュラー家の第二執事ヘルマンの女房で、アブラハムにとっても忠実。わたしより五つ上で、もともとこの家の召使い。詳しくは知らないけどアブラハムに助けられたことがあるんだとか。
それでアブラハムのところにこんなに若いわたしが嫁いだから、いつでも乳母ができるようにってヘルマンと結婚したみたい。わたしより後に結婚したのにもう三人目を産んだのよ? つまり三年続けて妊娠出産したのよ! わたしの場合は最初の半年は白い結婚だったから遅いのは当然だけど。
なんなのソレ? ただの仲好しならわからなくはないけど、忠実なのもそこまでいくと、おかしいんじゃない?
しかも『ハンナ』よ! 妹と同じ名前がアブラハムに忠実だなんて、不愉快でしかないわ。そりゃハンナなんて帝国周辺じゃありふれた名前だけど!
乳母ハンナは味方にできそうにないし、もうタマーラを味方にしないとね。それにタマーラは乳母ハンナと違ってユード教徒じゃないしね。
産後の肥立ちのためにとアブラハムを遠ざけ、体力の回復に努めたわ。
またすぐ妊娠なんて絶対イヤ!
だけど、ゲルディアンが生まれて四か月くらいの頃、わたしは神の日(日曜日)に祈りに行く聖堂でノア様と出会ったのよ!
ユード教徒のアブラハムは聖秘蹟教の聖堂には来ないの。そもそもユード教の安息日は神の日の前日だし、聖堂も違う。代わりに屈強な護衛のニコラスと侍女のレーベカが付いてくる。
でも二人は聖堂の中まではついてこない。ユード教徒だからね。
聖堂の礼拝堂の後列にいらしたノア様は、後から入っていったわたしが通りかかった時にハンカチを落としたの。
とっさにかがんで拾って差し出したわたしを見て、ノア様はにこっとほほえんで涼しいお声でありがとうとおっしゃったわ。
このかただわ!
わたしと出会うべき殿方はアブラハムじゃなくて、このかただったのよ! 間違いないわ!
お祈りとお説教が終わってから、出口に向かう途中ノア様にまた声をかけられたわたしは、迷いなく別の出口からノア様が逗留なさっている修道院の宿舎に向かったの。
そこで、もう、すばらしくすてきな経験をしたのよ。
ノア様ほどご立派でお美しい殿方を見たことがないわ。そのノア様が、こんな、しがない金貸しの女房のわたしを美しいとおっしゃる。
こんな夢みたいなこと、あっていいのかしら?
その日、聖堂からの帰りが遅くなったのは、礼拝中に体調を崩したので修道士様に介抱していただいたことにした。
もうそれからは毎週の神の日が待ち遠しくてたまらなかったわ。
いつも最後列にお座りで、礼拝の人々が去り、最後に帰るわたしを待っていてくださるノア様。
このかたはいつかは、いいえ、すぐにもこのズーリーを去っておしまいになる、わたしなんかとは遠くへだたりのあるご身分のおかた。
わたしはノア様との逢瀬に命をかけたわ。
だってわたしは人妻。ユード教でも聖秘蹟教でも世界の母なる女神様は不貞を許さないのよ。
不貞をはたらく男女なんて世間に山ほどいるだろうし、高位になればおカネでカタをつけられる。きっとアブラハムが妾を何人囲っても誰も罰しないわ。ユード教の教義がそのへんどうなってるのかは知らないけど。
だけどわたしはそうじゃない。お金も後ろ盾もない。不公平だけどわたしはアブラハムと同等じゃないんだもの。
聖堂には入らないレーベカの代わりに、聖秘蹟教徒の召使いラウラを連れて聖堂に入り、ノア様との逢瀬を誰にも邪魔されないようラウラに命じたわ。
ノア様の従者が聖堂の修道士を買収しているなんて、その頃はまったく気づかなかった。
そうしてわたしはノア様との逢瀬を繰り返した。
若くたくましいノア様はとっても情熱的でアブラハムなんかとは全然違う! ほんの短い時間しか逢えないからよけいに燃え上がるんだわ。
八回、九回かしら、そんな刹那的な逢瀬を続けたあと、ノア様はとうとう一緒に旅に出ないかとお申し出くださった!
天にも昇る心地ってこういうことなのね!
わたしはラウラとしめしあわせて荷づくりして、ブルクミュラー家からこっそり荷物を持ち出した。わたしの裁量に任されていたお小遣いや、アブラハムが買い与えた宝石。
さすがにドレスは持ち出せなかったけど、高貴なノア様と行くんだからどうにでもなるわよね。
ラウラが少しずつ持ち出して、ノア様の従者が馬車に積み込む。
それを何度か繰り返して、ようやくわたしはノア様のもとへ走ったわ。
毎日毎晩ゲルディアンは泣いてうるさいし、ジルバーベルトは走り回ってうるさかったわ。それに重いのよ。
あんなにしょっちゅう抱っこしてたら、わたしの腕が丸太になっちゃうでしょ!
その頃には月のものがしばらく来てないことに気づいてたし、わたしは妊娠を予感していた。
でもまだつわりは来ない。そんな時期なんだ。
ノア様のお子! そんな高貴なこどもがわたしの中にいるのね。
外出の口実は市内の貧民街への慰問。寄付のためにと食料や銀貨も持つ。屋敷を出る時はラウラを従えて、護衛のニコラスは外せないけど、なんたって馭者のジラースはノア様に買収されているからね!
貧民街からの帰り、用事を言いつけてニコラスをまいて馬車を飛ばし、わたしはズーリー市東門の外に停めた馬車で待った。偽の旅券はノア様が用立ててくださった。
夕暮れ時、門が閉じるぎりぎりにノア様は出てこられた。
馬車の扉を開いてわたしにうなずいてくださる。
ああ……わたしはこのおかたに選ばれたんだ!
そう信じていた。
その夜からわたしはノア様と同じ四頭立ての大きな馬車に乗り、ラウラは同乗を許されたけど遠慮して隅っこに寄ってる。従者の一人は馭者台に、もう一人が後ろの立ち台に乗った。
ジラースが馭すブルクミュラー家の小さな一頭立て馬車はほとんど空っぽ。ノア様のもう一人の従者はまた別の馬車を馭してる。ノア様のお荷物だけでなく従者のぶんもあるものね。
夜通し走ったのは最初だけ、次の日からは夕方前には宿場で宿を取る。
だけど何日も舗装されてない道を馬車で揺られたのがまずかったみたいで、酔ったように気持ち悪くなって馬車を停めてもらう。
つわりが始まったんだと感じた。
ギリギリ間に合って飛び降り、草陰で吐いちゃった。ラウラも飛び降りてわたしの背中をさすっている。
「酔ったか」
わたしを気づかってくださるノア様、なんておやさしいの。
「お見苦しいところをお見せしてしまいもうしわけなくぞんじます。あの……つわりのようでございまして……」
「つわり? まさか——妊娠しただと?!」
けわしい視線とともに降ってきた怒号に心臓がとまりそうになった。
「えっ……? は、はい、あの、いま二か月から三か月になるくらいかと……」
「堕ろせ!」
「は、……え?」
「下賤な女が私の胤を宿すなど許さぬ! すぐに堕ろせ!」
「ノ、ノア様……?」
目の前にいるのはもう、わたしがよく知ってると思ってた、わたしが憧れたノア様じゃなくなってた。
「貴様がいかに美しかろうが所詮は卑しいユード人金貸しの女であろう! 下賤な尻軽がこの私の子を産むなど決して許さぬ!」
「ひいいいっ」
「おくさまッ!」
ノア様が薙ぎ払ったレイピアの前にラウラが飛び出して、ザッという血しぶきを上げて斬られた。
どっと倒れるラウラを見ながら、わたしの顔にも血が飛んだと思う。
「きゃああああ!」
もうなにも考えられずにわたしは走った。
むかむかなんか忘れた。
わたしのために命をかけてくれたあわれなラウラを振り返ることもできなくて、ただひたすらに逃げた。
そして、石かなにかにつまずいて、なだらかだけど落差のある崖から転げ落ちた。
「アッ、きゃああああーっ!」
「チッ。フィーア、その下女を片付けよ! ツヴァイ、ドライはヘルガを追え!」
「「「はっ!」」」
遠く、ノア様の怒鳴り声と従者の応答が聞こえ、ずるずると崖をずり落ちながら、わたしを庇ったラウラの背中を思い、殺せと命じられたおなかの子を思い、もう遠くなり果てたアブラハムと息子たちを思った。
このまま落ちて死ぬのかな……なんだかもう、なにもかもどうでもいい気がする。
それきりわたしは気を失ったんだと思う。
数多の作品の中から奇跡的に発見してくださり、御礼申し上げます!




