第49話 苦労をかけた忠臣(2)
◆氏真姫の瞳が揺れた理由──悪役令嬢の仮面の裏側
俺が深々と頭を下げた瞬間──
氏真姫は、扇子の影で隠していた瞳を、ほんの一瞬だけ揺らした。
その揺れは、怒りでも傲慢でもない。
まるで……胸の奥にしまい込んだ《《何か》》が漏れたような、そんな揺れだった。
だが次の瞬間には、いつもの《《駿府の悪役令嬢》》の仮面が戻る。
「……許しますわ、人質殿。次は避けなさいませ?」
甘く刺すような声音……
挑発的で、意地悪で、どこか寂しげで──俺を試すような響き……。
だが俺は知らなかった。
その言葉の裏に、氏真姫の胸の内で渦巻いていた《《別の感情》》を……。
◆氏真姫・内心
──どうして避けないのよ、竹千代。
蹴鞠を蹴った瞬間──氏真姫は自分でも驚くほど強い力を込めていた。
狙ったわけじゃない。
でも、当たってほしくないわけでもなかった。
胸の奥がざわついていた。
(尾張の吉法師姫……あの子のことを、また思い出していたのでしょう?)
竹千代が尾張で過ごした日々……
吉法師姫──織田信長の少女時代の姿……。
彼女と竹千代が仲睦まじく育ったという噂は、駿府にも届いている。
氏真姫は、その噂を聞くたびに胸がちくりと痛んでいた。
(……人質のくせに。どうして、そんな顔で笑うの?)
竹千代が数正と楽しそうに話す姿……
未来を語る姿……
自分の知らない世界を知っている瞳……
その全部が、胸の奥をざわつかせる。
(……わたくしの前で、他の姫のことを思い出さないで)
蹴鞠を蹴った瞬間、心の奥でそんな声がした。
だから、手毬は竹千代の頬に向かって飛んだ。
──ほんの少しだけ、当たってほしかった。
当たれば、竹千代は自分を見る。
自分の名前を呼ぶ。
自分にだけ向けられる表情を見せる。
(……わたくし、こんなにも……)
だがその感情を、氏真姫は絶対に表に出さない。
駿府の悪役令嬢は、弱さを見せない。
恋心など、もっと見せない。
だから扇子で口元を隠し、挑発的に笑う。
「まあ……人質殿。避けられぬとは、鈍いのですね?」
その言葉は、恋心の裏返しだった。
◇◇◇
◆竹千代視点──気づかぬまま、すれ違う恋
俺は正座したまま、氏真姫の言葉を聞いていた。
挑発的で、意地悪で、悪役令嬢らしい。
でも──
(……なんでだろう。怒ってるようで、怒ってないような……)
氏真姫の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ見えた“影”……
あれは何だったんだろう。
痛む頬を押さえながら、俺はふと思う。
(吉法師……)
尾張で一緒に育った少女……
俺の幼馴染……
信長になる勝ち気な《《尾張の悪役令嬢さま》》……。
氏真姫の蹴鞠が飛んできた瞬間──
俺は確かに吉法師のことを思い出していた。
(……まさか、それで怒った?)
いやいや、そんなわけ──
と思いながらも、俺の胸の奥がざわつく。
氏真姫は、扇子を閉じて俺を見下ろす。
その瞳は、挑発的で、意地悪で──
でもどこか、寂しげだった。
(……氏真さま、もしかして)
俺は気づかないふりをした。
気づいてはいけない気がした。
たぶん俺の気のせいという奴……。
駿府には、俺の将来の嫁──《《瀬名姫》》、《《築山殿》》がいるわけで、氏真姫とは別人だから。
だが俺の胸の奥で、何かが小さく芽を出した。
◇◇◇
✨第27話 苦労をかけた忠臣(2)
俺が正座したまま頭を下げていると──
氏真姫は、扇子の影からそっと俺を覗き込んだ。
その瞳は、さっきまでの《《悪役令嬢の鋭さ》》とは違う。
ほんの一瞬だけ、柔らかく揺れていた。
まるで──
「……痛かった?」
とでも言いたげな、そんな表情……。
だが氏真姫はすぐに気づいたように、慌てて扇子をぱんと閉じ、ツンと顔を背けた。
「……人質殿が謝る必要などありませんわ。わたくしが、少し……強く蹴っただけですもの」
駿府の悪役令嬢さま声は冷たい。
でも、耳の先がほんのり赤い。
(……え? 今、優しい顔した?)
俺は思わず目を瞬かせた。
氏真姫は、俺にだけ見せた“素の表情”を、誰にも悟られないように隠した。
だが──
その一瞬を、見逃さない男がいた。
◆数正、恋と陰謀を悟って溜息をつく
「……はぁ」
数正の兄ちゃんが、俺の横で大きな溜息を漏らした。
「えっ、数正の兄ちゃん? どうしたの?」
「いえ……若君。まさか、ここまでとは……」
数正の兄ちゃんは、なぜか額に手を当て、心底呆れたように俺と氏真姫を見比べる。
「氏真さま……若君の前であれほど《《ツンツン》》して……。はぁ……」
「えっ? ツンツン?」
「若君はお気づきでないのですか。氏真さまは……その……」
数正兄ちゃんは言い淀む。
だが、あの日の──数正の兄ちゃんの目は、完全に《《恋を見抜いた大人の目》》だった。
「……義元公より、氏真さまの将来のことは伺っております。若君と氏真さまの関係は、いずれ……」
「いずれ……?」
「……はぁ。若君、覚悟しておかれませ」
数正の兄ちゃんは肩を落としながら、俺の背をぽんと叩いた。
(えっ……何それ? 何それ!?)
《《あの時》》の俺は、頬の痛みも忘れて、心臓が跳ねるのを感じた。
◆氏真姫、嫉妬の影を隠しきれない
氏真姫は、数正の兄ちゃんの溜息に気づいたのか、扇子で口元を隠しながらこちらを睨む。
「……石川殿。余計なことを、その御方に吹き込まないでくださる?」
「いえ、氏真さま。余計ではなく……むしろ必要なことでございます」
「必要ではありませんわ!」
氏真姫はツンと顔を背ける。
だがその瞳は、俺の頬をじっと見ていた。
(……やっぱり心配してる?)
その視線は、怒りでも傲慢でもない。
どこか、胸の奥がざわつくような──
そんな優しさが混じっていた。
だが氏真姫はすぐに表情を引き締め、扇子をぱんと閉じる。
「……それに、人質殿は尾張で吉法師姫と仲睦まじく育ったのでしょう? わたくしなど、気にする必要はありませんわ」
その言葉は、明らかに刺々しい。
でも──
声が震えていた。
(……あれ? 嫉妬してる?)
俺は思わず数正の兄ちゃんを見る。
数正は「やれやれ」と肩をすくめた。
「若君。氏真さまは……。その……吉法師姫のことを、少し……」
「少し?」
「……いえ、かなり気にしておられます」
「えぇええええっ!?」
俺の声が廊下に響いた。
氏真姫は真っ赤になり、扇子で顔を隠す。
「ち、違いますわ! わたくしはただ……尾張の姫が、人質殿と仲が良かったという噂を……その……」
声がどんどん小さくなる。
「……気にしてなど、いませんわ……」
最後の言葉は、ほとんど聞こえないほど弱かった。
その姿は、悪役令嬢ではなく──
ただの、恋する少女だった。
◆恋と陰謀の渦へ
氏真姫の嫉妬……
数正の兄ちゃんの溜息……
俺の動揺……
その全部が、《《あの時》》の今川館の空気を変えていく。
人質生活は、ただの政治の駆け引きではなく──
恋と陰謀が渦巻く舞台へと変わり始めていた。
氏真姫はツンと顔を背けながら、俺にだけ聞こえる声で呟いた。
「……次は、避けなさいませ。人質殿」
その声音は、甘くて、刺々しくて、少しだけ震えていた。
俺は頬を押さえながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
──駿府の悪役令嬢は、俺にだけ素顔を見せる。
そしてその素顔は、尾張の吉法師姫の影を、確かに揺らしていた。
◇◇◇




