第12話 尾張の悪役令嬢様との思い出(1)
朝霧が尾張の織田家の館をしっとり包み込み、障子越しの光が畳に淡い模様を描いていた。
六歳の俺──竹千代は、岡崎から遠く離れたこの尾張の地で、人質として新しい生活を始めていた。
胸の奥は不安と期待でいっぱいだったが、それ以上に俺の心をざわつかせる存在がいた。
織田信秀の娘、吉法師姫(織田信長)……
年上で、気性が荒くて、でも春霞みたいに儚く美しい──尾張の悪役令嬢さま……
その横には、忠実な家臣・前田利家──犬千代、池田恒興、佐々成政、森可成──鬼武蔵が控えている。
まるで、クソ生意気な犬千代たちは──本当に番犬のように、吉法師姫の後ろをぴったり守っていた。
俺は人質という立場にもかかわらず、なぜか彼女の周りをちょろちょろ動き回る「子狸」扱いされていた。
ある朝、俺は思い切って吉法師姫に声をかけた。
「吉姉さま!」
俺は勢い余って飛びつき、頬に軽く触れるようなキスをしてしまった。
「ちょっ……竹千代!? な、なにしてるのよっ!」
吉法師姫は真っ赤になりながら後ずさる。
怒っているのに、どこか照れているようにも見える。
その頬だけでなく、耳までほんのり赤く染まっていた。
その反応が嬉しくて、俺はつい調子に乗った。
「ひひひ、よいではないか、吉姉さま~!」
「よくないわよっ! ばかっ、子狸っ!」
吉法師姫は障子の向こうへ逃げるように走り出す。
俺はカエル跳びで追いかける。
「待て~! 吉姉さま~!」
「いや~ん! 追いかけるなって言ってるでしょ!」
犬千代が慌てて止めに入るが、俺はひょいっとかわして吉法師姫を追い続けた。
尾張の館に、朝から子供たちの追いかけっこが響き渡る。
やがて吉法師姫はくるりと振り返り、ぷるぷる震えながら叫んだ。
「竹千代! 調子に乗ると……しばくわよっ!」
その言葉に俺は思わず足を止める。
吉法師姫は怒っている。
でも、その頬はほんのり赤くて、目は潤んでいて──
まるで怒りと照れがごちゃ混ぜになった【悪役令嬢のツンデレ顔】だった。
「ご、ごめん……吉姉さま」
謝る俺を見て、吉法師姫はふっと肩の力を抜いた。
「……まったく。あんたって、本当に手のかかる子狸ね」
その声は怒っているようで、どこか優しい。
そしてその瞬間、吉法師姫はほんの一瞬だけ《《素の表情》》を見せた。
怒りの仮面がふっと外れ、まるで春の陽だまりみたいに柔らかい目で俺を見つめたのだ。
「……でも、まあ……その……元気なのは、いいことよ」
小さく呟いたその言葉は、あいつらにも聞こえないほどの小声だった。
俺にだけ届く、秘密の《《デレ》》だった。
俺はその瞬間、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
尾張の悪役令嬢さまは、怖くて、強くて、荒々しい。
でも──その奥には、誰よりも繊細で、誰よりも優しい心がある。
俺はその心に触れたくて、《《あの頃は毎日》》のように、彼女を追いかけてしまうのだ。
◇◇◇




