ごばん
言葉に、ならなかった。
あの子があんな刻限に桜の根本で一人眠っていた理由も、あんなにもあどけなく純真であった貴い(たっとい)眼が柔らかな光を失くしていた理由も、己の事を妖だと嗤った理由もなにもかもを理解してしまう。狂おしいほどの激情が胸を荒らし、灼熱の業火をもってこの身を焼いてゆく。
人間の心の醜さなどとうに分かっていた。だから、あの子がそんなものに晒されて傷つくことの無きよう、幸せで在れるように祝福を与えたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
美しい心だった、幼さ故の無邪気さと純潔さは頑なな扉の奥で成長することなく眠りについている。僕は、私は、一体どこで間違え、願いはこんなにも捩れてしまったのだろう。
「お前は莫迦だ」
低い声が聞こえた。
「だから何度も教えただろう、人に干渉してはならない、容易に加護を与えてはならないと。ましてやお前は……」
ああ、土と葉の匂いにほんの僅かに混じった、腐った匂いが甘くかぐわしい香りに混じっている。
「サトリなのだから」
私は嗤った。
「……大天狗様」
あの人をこんな風に呼ぶのは何百年振りだろう。相変わらずの出で立ちで私の前に立っている。恐らくはお桜さまの神秘を覗きこんだのであろう彼の背には、雄大な鷹の羽根が広がっていた。
「お前は、我らとは違う。元々は人であった者が魔に魅入られ生まれたのが我らだが、お前は人の畏れから生まれた化生の者。人心を解するのは容易いことではないが、その特異な能力から解するには至らずとも化生でありながら人に近かった。わかるか、愚かなサトリよ。お前は生き過ぎたのだ。妖でありながら人に近い中途な存在のまま徒に時を重ねた。結果お前は人しか持ちえないものを宿らせ、それがお前を突き動かし、己がナニであるかを忘れ加護を与えるなどと愚を犯し、あの娘の天命を定めた」
いつになく饒舌な彼の言葉が容赦なく胸を穿つ。聞きたくない、と耳を塞いで目を瞑ってしまえば私は楽になれただろう。誰も私に干渉することの出来ないあの無機質な異界に逃げ込んでもいい。それらは造作もないことなのに、私の身体はぴくりとも動かなかった。
「だが実に、面白い」
彼の気配が醜く歪んで、禍々しいものを孕んだ濃厚な空気が意志をもったように全身に絡みついてきても、私は彼を見据え続けた。
「我は久方振りに心震えているぞ。実に面白いではないか。知りたがりの天狗の血が騒ぎたてておる。一体何故、お前だけにそのような変化が起きたのかを。何故娘にあのような強力な神秘が宿ったのかなどどうでもよい。暑さも寒さも知らず、涙を流すことも、笑みを浮かべることすら知らなかった筈だ。何故、化生の者であるお前だけが愛を知った?」
「そんなはずは、ありません」
そんな高尚なものが、私に宿るはずがない。恐怖からなのか動揺からなのか、擦れた耳障りな声で否定した私に、彼ははっきりと嘲りの色を浮かべた声音で言う。
「でなければ、加護を授けるはずがない。まさか自覚がないのか? そうであるならますます面白いな。無自覚な拙い愛がお前を動かし、招いた結果がこれか。滑稽というよりほかにない」
彼の言葉は毒のように身体を蝕み、臓腑をただらせ腐らせる。否定の言葉を繰り返す間もなく、彼は続けた。
「愛、哀、アイ。お前を放り出して数百年か? 最後に見えた(まみえた)ころより五十年経っていない。お前にとっても僅かな時間に過ぎぬその間に、一体なにがあった? 事象には必ず理由があるものだ。私はそれを求めている」
もしも、五十年という月日が私に変化を齎したというのであれば、理由は一つだけだ。様々な事を与えてくれた、心を交わすことの意味を教えてくれた、非力な人間。
「……もしも、貴方のいう通りに私に愛が芽生えているとするなら、きっとそれを与えてくれたのは……」
彼の醜悪な気配が、匂いが、ぐっと近くなった。
「それは?」
「私の、友だ」
突然、突風のように風が逆巻いた。桜の花びらが視界を掠め、甘くかぐわしい香りが胸を覆い尽くす。ちかりと瞬く光を見つけて、目の前の光景に戻った瞬間私はその場から飛び退いた。剣呑な舌打ちが張り詰めた空気に響く。
「邪魔しやがって」
忌々しそうに彼はお桜さまを仰ぐ。彼の爪は異形の者そのままに長く鋭く伸びていた。それが何を意味するか、首に手を当て確かめずとも分かる。
「あともう少しで、おまえを喰えたのによう」
至極残念そうな声に、怒りは湧かない。
「腕が鈍ったのではありませんか?」
「言うじゃねえか」
彼は愉しそうに笑い声を上げ、その場にどかりと腰を落とした。
「これだから、永く生きるのは止められんのだ」
私は姿勢を正すと、お桜さまに感謝の念を込めて深く礼をした。さわさわと梢が揺れる音が聞こえて、私は微笑みを浮かべる。
「ありがとう、ございました」
ゆっくりと頭を上げ、暫くの間この荘厳なる神樹を見上げていた。此方を見ていた彼に視線を動かし、けれど結局何も言わずに背中を向けた。
「……いくのか」
彼らしくなく、苦みを帯びた声だった。
「ええ。私は莫迦ですから、ずっと気付かずにいました。けれど、皮肉にも貴方の言葉が気付かせてくれた。感謝していますよ、大天狗様」
彼がどんな顔をしているのか、薄絹の下を想像してみても私にはわからなかった。