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さんばん



 気が付けば、彼女と出会ったあの石畳の上を歩いていた。可笑しなことに、僕の下駄が石畳とぶつかってカラコロ、と音をたてるまで僕はそのことにとんと気付かなかった。


「いつの、まに?」


 困惑が先に出た。どうして、僕がここにいるのだろうかと不思議でならなかった。このお山のことは、誰よりも知っているという自負がある。眉を寄せてきょろりと周りを見渡しても、石畳沿いにずらりと並んだ桜があるだけで、奇妙な静寂(しじま)が裾を広げている。


 奇妙?


 自分の感想に疑問が沸いて、初めて気付いた。そうだ、こんな昼のさなかに人がいないなど、可笑しなことではないか。それにこんなに、こんなに静かなどあり得ないことだ。虫の音も微かな音すら、自分の出す音以外何も聞こえないという事実が、何よりも恐ろしかった。


 ぽつ、


 俯いた視線の先の地面が、変色した。ぱちりと一つ瞬きをすると、その隙に染みが増えていた。呆気にとられている間にどんどんと染みが増えていって、最初に見た染みがどれかわからなくなったところで空を見上げた。


「雨……」


 黒い雨雲が天を支配していた。我が物顔で地上にばけつの中身をひっくり返していく。ふと自分を見下ろすと、どこも濡れていなかった。雨足は強く早く、樹の根元にいるわけではないのに濡れた形跡一つない。いよいよ、奇妙な心持ちだった。


 まるで、色眼鏡を通して別の世界を見ているようだ。そう考えた僕の視界で、闇が躍った。はっとして目を凝らすと、徐々にそれは形を成していく。それは随分と精彩を欠いた目をした、少女だった。


「鈴音」


 声をかけても、反応がない。全身を雨に晒しているせいか、顔色がひどく悪い。少女は歩みを止めることなく、ふらふらと覚束ない足取りで僕の目の前まで来て、そこでようやく立ち止まった。彼女の白いワンピースは、雨に濡れて軽やかさを失っている。艶やかに光を弾いていた長い黒髪も、重く垂れて力がなかった。


「すずね」


 しん、とした静寂がひどく耳に痛かった。僕の声が届かない。それがどうしようもなく苦しかった。


 鈴音の青白い顔が曇天の空に上向く。伏せられた長い睫毛にじわりと雫が滲んで、頬に流れてゆく。ただの偶然かもしれないその雫が、僕の胸に深く突き刺さった。


 彼女の頬を次々と伝ってゆく雫を拭ってやりたくて、手を伸ばした。けれど僕と彼女の間にはまるで見えない膜のようなものが張られているかのようで、頬に触れるか触れられないかのところで止まってしまう。ぐっと唇を噛むと、舌に鉄錆の味が広がった。


 音のない世界、鈴音に触れることのできない世界、僕に干渉できない世界。全ての要素に、一つだけ思い当たるものがあった。このまま、このまま時をやり過ごせば僕はまたお山に籠って世俗的なものとは縁のない生活を送ることもできるのだろう。


 けれども僕は、それを選ぶことができなかった。


 触れられない事を承知で、鈴音に腕を伸ばす。両腕に閉じ込めた瞬間、このままこの娘を連れ去ってしまいたいと望んだ。


 鈴音の宵の髪に手を這わして、ふっと力を抜く。僕の耳が、ぴしりと何かに亀裂が走った音を拾う。目を閉じてよく耳を澄ますと、なにかが軋むような音が何度か響いて、硝子が割れるような高く澄んだ音が大きく響いた。腕の中の存在に意識を凝らすと、僕は震えたように細く息を吐きだして瞼を閉じた。





 葉が擦れる音が聞こえる。暗闇にちかりと瞬く光を見つけたかと思うと、僕の全身を覆っていたどろりとしたものが身体の表面から剥がれてゆくような奇妙な感触のあと、瞼を閉じていたはずなのに僕の視界は開けていた。視界を塞ぐ桜の花びらを巻きこんで、優しげな風が立ち竦む僕の頬を柔らかく撫でてゆく。甘くかぐわしい香りが、肺を満たした。


 両腕を見下ろしても、少女の姿はどこにもなかった。ぽかりと空いた両腕の空間を眺めていると、どうしてか心地よい温もりをもった暖かなものを恋しく思った。


 両腕を下ろして、僕はじっと動かなかった。くるりくるりと回る桜の花は地に降りたつ前にふっと消える。どこを見渡しても此処には桜しかない。光源のわからない穏やかな光が花びらの間を木漏れ日のように差し込んで、桜色で溢れる世界を淡くぼかしてゆく。命は決して芽吹かない、幻想的で無機質な異界。


 僕の、世界。


「お桜さま」


 花びらが揺れた。


「教えていただきたいことが、あります」


 僕の声に応えるように風が吹いて、桜の幻が姿を消した。





 お山の神樹には、望む者に過去を見せてくれるという伝承がある。神気の宿った神聖なる大樹に触れ、語りかけるように願うのだ。けれども伝承通りに過去を見た者は、数千年に及ぶ歴史の中でほんの一握りの者だけである。何故なら神樹は――……。



「……お久しぶりでございます、お桜さま」


 悠然とした佇まいで、大樹が根を張っていた。大の男が十人がかりで腕を伸ばしても届かぬほどに幹は太く、頂点を見上げると首が痛くなるほどに高い。どこからか吹く風がさわさわと梢を揺らして、先の先まで花開いた花弁を惜しげもなく地に落とす。


「見せて、いえ、確かめなければならないことがあるのです」


 大樹は沈黙を破ることはなかったが、僕はそっと近づいて神樹に触れた。


「お願いです、お桜さま。()は知らなければならないのです。あの子の、ことを」


 (ごう)、と耳の奥で風が鳴いた。



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