17 メリカ村へ
夜明け前、耳が痛くなるほど静まり返ったそのときを、私はゆっくり噛み締めた。
いよいよだ。
もうすぐ「彼」と「あの子」に会える。
2人が「親子」だったとは、なんという偶然だろう。
本当に、神のなさりように無駄なことなどひとつもない。
「道中、お気をつけて」
「近くにいらしたら……お顔を見せてくださいませね」
「ありがとう。世話になったの。……頼んだよ」
元助手である新米教主と握手を交わし、教会を後にする。生まれ育った街ではあるが、もう二度と戻ることもないだろう。だがなぜか、それを辛いと感じなかった。「彼ら」に会える、その喜びのほうが勝っていた。
それよりも、早く早くと想いがざわめき彼方の山へと飛んでゆく。年甲斐もなく沸き立つ心に身を任せ、私は街を後にした。
空が白む前に街を出て、西の橋を渡ったところで右に折れて小径に入る。獣道と見紛うばかりのその道は、川に沿って細く山へと伸びていた。
足元すら覚束ない暗がりを、霧をかき分けひたすら歩く。初めて通る道ではあったが、同行するのは冬支度をいっぱいに積んだ荷車だ。ついていくのに労はない。私はただ、ごとごと揺れる荷台を見ながら足を進めるだけだった。
どれだけ歩いたことだろう。ふと、霧の向こうに影が見えた。気づけばいつのまにか夜が明けて、切り立った山が眼前に迫っていた。息をのんで見上げれば、朝日に輝く青い空に届かんばかりの濃い緑。徐々に視線を下に移すと、ときおり混じった赤や黄色が裾野近くで一気に広がり山の色を逆転させる。神の御業としか言いようのないこの光景に、私は言葉を失った。
圧倒され、立ちすくむ私の頬を冷たい風が撫でてゆく。引かれるように振り向くと、遠くできらりとなにかが光った。樹々の向こう、豆粒ほどになってしまった街の中でもひときわ高い、あれは教会の尖塔だ。
気づいた瞬間、つき、と胸に痛みが走る。
これまで生を捧げたあの場所に、私の居場所はなくなったのだ。
覚悟は決めたはずだった。けれど漠然とした不安が波となって押し寄せる。本当にこれでいいのかと身体の底から声がする。引き返せ、と風が囁き袖を引き、背負った荷物が足をその場に縫いつけた。
私はとっさに目を閉じた。
これはいっときの感傷だ。時間とともに薄まって、やがて消えてなくなるものだ。だから胸の痛みに蓋をして、私はふたたび前を向く。
「あの子」に伝えることがある。そして時間の檻から解き放たねば。これこそ私の最後のつとめ、神の思し召しに違いない。「彼」はそのためにやってきた、神の遣いなのだから。
そこは、とても深い山だった。街から伸びる細い細い道沿いに、ぽつりぽつりと家が建つ。ほんのわずかな平らな土地に、張りつくように畑が広がりわずかな家畜が草を食む。隣家さえも遠く離れ、日が暮れてしまえばすべてが深い闇の中。
生きるには厳しい土地だ。街で育った私など、とても暮らしていけぬだろう。けれど村人たちは、笑いながらこう言った。
曰く、この山は実りが多く、食べるには困らない。確かに人は少ないが、そのぶん結束は固いのだ──
誇らしげな彼らだったが「あの子」の話はまた別だった。どの村人も顔を曇らせ沈痛な面持ちで、縋るような目を向けてくる。
「ミカを、どうかよろしくお願いします……」
大人の都合を押しつけて、あの子の気持ちを考えていなかった。善かれと思ってしたことが、却ってあの子を傷つけた。どうか我々を許して欲しい。そして自由に、思う通りに生きて欲しい。村人たちは、そう願っているようだ。
「ミカは誰も恨んでいないんです。でもみんなは信じられないって顔をするし、ミカは一人前じゃないから認めてもらえないんだって、ますます畑にのめりこむし……」
青年は呟くと、口を引き結んでうつむいた。自分がまだ半人前だから、あの子もそう思われるのだと思い悩んでいるようだ。
けれど、それはきっと正しくない。村人たちは総じてそう若くなく、対して2人は若木のような伸び盛り。彼らにとって、2人は我が子も同然なのだ。だから可愛い「子」のためなにかと世話を焼きたがるのだが、2人はそれを「半人前扱いされている」と感じてしまう。
笑い話にもならないような、ほんの些細なすれ違い。
けれどその小さな棘が、村人たちを苦しめる。抜かねばならぬとわかっていても、棘に触れれば「あの」痛みを否が応でも思い出す。それゆえ彼らは近づけない。相手を傷つけまいと願うあまり、互いに一歩が踏み出せないのだ。
やりきれなかった。なぜもっと早く来なかったのかと、胸が痛んでたまらなかった。なんとかしたい、心からそう思ったが、私に資格があるだろうか。こんな願いはおこがましいことかもしれない。だが許されるなら、彼らに刺さった見えない棘を取り除いてやりたかった。優しいメリカ村の人々が、心の底から笑えるような、そんな日々を取り戻してやりたかった。
「足もと、気をつけてくださいね」
街を出てから1日半。村の最奥、村長宅で息つく間もなく「あの子」の家へと足を運ぶ。日も暮れかけた、訪ねるには少々遅い時刻だったが「あの子」が私を待っていると聞いてしまえば行かないわけにはいかなかった。
村長の息子、アキに先導されて山の中に分け入った。わずかに土が見える緩やかなこの坂は、てっきり雨の跡だと思ったが、これがあの子の家への道だという。聞いて私は悲しくなった。足が枯れ葉に沈むたび、せり出した枝を払うたび、ここを通るのは本当にこの子だけなのだと、あの子の孤独を思い知る。
「あ、見えてきた。あそこです」
「……おお……」
葉を落とした枝の向こうに現れたのは尖った屋根。煙突からは細く煙が立ちのぼり、窓から明かりがもれている。外にかかったランプがひとつ、あそこがきっと玄関だ。
色を増した空の下、浮かび上がる家の姿にほっとした。人気のない山奥で、あの子は世を捨てひっそり暮らしていると思っていた。ところがどうだ。遠くから眺めるだけでもあの家からは温もりが伝わってくる。庭も綺麗に刈り込まれ、きちんと手入れがなされている。うらぶれた気配どころか賑やかな鶏の声まで響いている。
コココッ、コッケー!
鋭い声に足が止まった。鶏同士の諍いかと思ったが、これは違う。急を告げる鳴き声だ。
ぴんと空気が張りつめた。駆け出そうとアキの身体がわずかに沈む。こうしてはいられない、私も慌てて飛び出しかけたそのときだ。
──ぎゃんっ!
ッケコーオォー!
「トリー!」
悲鳴と、雄叫びと、そして明確な人の声。
家の前を小さななにかが駆け抜けて、それを人影が全速力で追ってゆく。
あれは、もしや──
「うあー……ここでかよー……」
がく、と音がしそうな勢いで、アキがその場に膝をつく。そのまま頭を抱えて悶える彼に、恐る恐る問いかけた。
「……アキくん。いまのは」
「ええと、あれは……ですね」
大きなため息をつきながら、アキは膝を払って立ち上がった。そしてしばし口籠り、顎をなんどか指でこすると意を決したように口を開いた。
「たぶん……トリーがコッコちゃんと喧嘩して、負けたんだと……思います」
「…………ほ?」
「あ、コッコちゃんっていうのはミカが飼ってる鶏で」
話がまったく理解できない。
問い返し、もういちど言葉の意味を噛み締める。「鶏」「喧嘩」そして「負けた」。それがどうしてもドラゴンたる「彼」の姿と繋がらず、主語が間違っているのでは、とそんなことを考え始めたときだった。羽ばたきと、そして恐らく勝鬨だろう雄叫びが、あたり一帯に響き渡った。
コォーッケ、コォー オォーーー!
「……いかんの。鶏を小屋に入れてやらねば」
「そ、そうですよね! もう暗くなるから危ないですよね!」
まるきり現実逃避だ。けれどアキは、ほっとした顔で庭に向かって駆けてゆく。少し遅れて後を追い、私も彼を手伝った。「コッコちゃん」はかなり興奮して暴れたし、扉も壊れていたようだったから、小屋に収めるには苦労した。けれど2人で扉の応急処置をしているあいだ、ずっと思い描いたドラゴン像が、私の中で少しずつ変わっていたのに気がついた。
◇ ◇
そこは、隅々まで清潔に整えられた、けれどよそよそしさは感じない、なんとも暖かな家だった。玄関先で足を洗う奇妙な習慣には驚かされたが、それも理由を聞けば納得だ。トリーという名のドラゴンを、あの子は家族として扱っている。この「決めごと」も、2人で暮らすためには必要だったのだろう。
「しかし……アキくん、やはり勝手に入るのは」
「いいんです。ミカはずっとこの日を楽しみに待っていたし、教主──じゃなかった、ニコさんを外で待たせたりしたら、あとで俺が叱られる」
「では、せめてここにいると知らせないと」
「あの……それが問題なんです」
アキの話はこうだ。「彼」──トリーはとても繊細で、以前喧嘩に負けたとき、酷く落ち込み元気をなくしてしまったという。幼いころの出来事が原因とはいえ、負けたのはこれで2回目。きっと深く傷ついているだろうから「コッコちゃん」の話題は厳禁、なにもなかった、見なかったことにして欲しいということだった。
「かまわんが……彼にそこまでわかるものなのか、の?」
「ええ、凄いんですよ、トリーは!」
誇らしげな笑顔を浮かべ、アキは彼について語りだした。これまでずっと、父親にすら秘密にしていた彼にまつわる話の数々。ここなら誰の耳も気にすることなく思う存分口にできる。私もずっと聞きたいと思っていたから、年甲斐もなくあっという間に夢中になった。
たいした時間でなかったはずだが気づけば外は真っ暗で、アキは慌てて足湯を外に持って行った。ならばと私も手伝いを申し出たが、食事の準備はほとんどできているようだからと無理矢理椅子に座らされ、香りの良い茶を押しつけられた。手持ち無沙汰になってしまい、私は茶を啜りながらぼんやり部屋を眺めていた。
ふと、暖炉近くの飾り棚に目が止まる。そこには私の描いた絵があった。その両脇には使い込まれた小刀と、なにかをくるんだ布細工。大事そうに置かれたそれは、きっと両親の形見だろう。
ちり、と胸の奥に痛みが走った。
あの子は私が「教主」だったと知っている。この絵を描いたと知っている。なのに形見と一緒に飾ってくれるということは、許してくれるということだろうか。用意されていた手作りの布履き、そしてずっと腹を刺激している旨そうな料理の匂い。ひょっとして、歓迎されているのだろうかと甘い考えに流されかけて、私はひっそり自嘲した。
まずはあの子に話さなければ。その結果がどうなろうとあの子の気持ちを受け止めて、すべてはそれから考えよう。
ああ、でも。
彼がいてくれて本当に良かった。
彼のおかげであの子が真に孤独ではなかったのだと、私は神に感謝した。
「──帰って来た」
つぶやきに、現実に引き戻された。澄んだ動物の声がして、アキが駆けつけ扉を開ける。するとそこには、一人の少年が立っていた。
「なん、で──?」
「今日来るって言ってたろ?」
「……でも、僕……」
背中を押され、少年が恐る恐る入ってきた。抱いているのは美しい青い鳥。いや、頭と翼に羽毛があるが、身体を覆っているのは煌めくウロコ。長い尻尾が少年の腰に巻きついて、両の手足でしっかり胸にしがみついて──
ああ、彼はこんなにも美しいのか。そしてこの子。私の中ではまだ小さな子供だったが、こんなに大きくなっていたとは。
まるで夢の中に居るようだ。気持ちがふわふわ軽くなり、引かれるように自然に身体が吸い寄せられた。足もとの覚束ないまま一歩、二歩とゆっくり2人に近づくと、2対の瞳と2つの口が同時に丸くなっていった。
「…………!」
このときの2人の様子といったら!
一人は人間、もう一方はドラゴンなのに、まったく同じ表情だった。彼らは姿形も大きささえも違っていて、共通点はまったくない。なのにどういうわけか、目を見開くタイミング、顎を落とす角度や大きさ、なにもかもが「そっくりいっしょ」だったのだ。
血が繋がっていなくとも、それどころか種族が違っていても、確かに彼らは親子なのだと私はすっかり嬉しくなった。
「勝手に上がり込んですまなんだ。私は──」
「こっ、こんにちは! トリーを、ありがとうございました!」
ぎゃっ!
突然ミカが勢いつけて頭を深く下げたので、トリーは慌てて胸から背中に移動した。そしてミカの頭に前足をかけ、首を伸ばしてしきりにこちらの匂いを嗅いでいる。
「ほら、トリーもお礼を言って!」
ミカは頭を下げたまま、背に手を回してしきりにトリーを促した。しかしトリーは初めて出会った私に興味があるのか、黒い瞳をくりくり動かし、じっとこちらを見つめている。
キミはだれ?
まるでそう問いかけられているようだ。
艶やかな飾り羽も煌めく深い青のウロコも美しい。でもそれよりも、鼻の穴をひくひく動かし好奇心でいっぱいになった彼の様子が愛らしく、私はつい、教わったばかりの「挨拶」を試そうと、腰を屈めて顔をトリーに近づけた。
「はじめまして。私はの、ニコという爺さね」
きゃう!
突然トリーの顔が近づいて、とっさに目を閉じると同時、ちょん、と鼻をつつかれた。もしやこれが、と目を開けたときにはトリーはひらりとミカの上から飛び降りて、私の足にするりと身を寄せそのままとことこ歩いていった。ぴんと伸びた尻尾の先を目で追うと、彼はかまどの前で立ち止まり、大きな声で鳴き出した。
きゃうるるるっ!
ゴハンハンハン るるりるりるりー
きゃるりるりるりっ、きゃるりるりっ!
「〜〜〜っ、トリー!!」
振り向けば、ミカが顔を真っ赤に染めて、あえぎながら震えていた。そのすぐ隣では、アキが両手で口を押さえてうずくまり、肩を震わせ必死になって笑いだすのをこらえている。
どうやらトリーは私よりも、鍋から漂うスープの匂いが気になっていたようだ。
……きゃーう
きゃぁーう、ぁあーう
きゅーうぅぅ
ボク、飢え死にしちゃうよう。はやくご飯をちょうだいよう。
すぐに食べられそうにないとわかると、トリーはさも切なげに、きゅんきゅん鼻を鳴らしてその場でぐるぐる回りだす。その姿があまりにもおかしくて、私の我慢も限界だった。こらえきれずにぷっと吹き出してしまったとたん、皆が笑いの発作に襲われた。
「もうっ、トリー! ちゃんと挨拶してよ!」
「ひ、ひひっ! と、トリーらしい……っ」
「くくくっ、そう、そうか。腹が……くくっ……」
いちど声をあげてしまうとあとはもう、止めることなど不可能だ。私とアキにミカもつられて笑いだし、やがてトリーが歌いだす。家の中が一気に笑いに包まれて、あれこれ思い悩んでいたことが、いつの間にかどこかに吹き飛んでしまっていた。
◇ ◇
食事は、言葉にならないほど美味かった。
具沢山のカブスープ、香草タレに漬けて焼いた雉肉、色鮮やかな芋餅に、アキが持参したパンの薄切り。スープの味つけは塩だけだということだが、野菜も豆もどれもこれもがほっくり甘く味も濃厚、骨から取った出汁とよく合っていた。焼いた肉にはネギが添えられぴりりとした辛味があって、芋餅と交互に口にすると際限なく食べられる。料理は山と盛られていたはずなのに、あっというまに空になり、最後はパンでさらって残ったタレもすべて腹の中に収まった。
「ああ、すっかり腹がくちくなった。ご馳走をありがとう」
「いえ……お口に合ったら、よかったです」
「お世辞じゃないって。こんな美味いの、俺、初めて食べた」
きゃるりっ、るりっ
「そうかな……」
「アキくんの言う通りさね。ほんに……絶品だった」
きゃるるる、るるるーう
「はいはい、トリーも美味しかった?」
くるくるるーう、きゅるきゅる
話していると、トリーが合間にさえずってくる。鳥に似た心地よいこの声は、どうやら私たちといっしょになって、おしゃべりしているつもりらしい。
幼いころからずっと夢見てやっと出会えた小さなドラゴン。思ったとおり、彼はなにもかもが美しく、まさに「生きた宝石」そのものだ。そんな彼が強欲な商人どもに見つかってしまったらと、想像だけでもぞっとする。きっと奴等はわかるまい。彼の本当の価値、それは「生きている」ことなのだ。動く彼を前にして、都で見たあの皮や、私の持つ羽などあっという間に霞んでしまう。そんな彼がいる奇蹟、これを決して失うまい。
きゅー、きゃ
「ほっ? おお……」
すぐ目の前にあった顔が、すっと遠のきミカの胸に納まった。考えごとをしている間に、トリーが私をのぞき込んでいたようだ。挨拶は済ませたものの、彼にすれば所詮私は見知らぬ人間。気を許すのはまだまだ先だが、興味はあるといったところか。
いっぽう私は彼を抱きたくてたまらなかった。見るだけで満足だと思っていたが、会えばどんどん欲求が深くなる。彼ともっと仲良くなって、甘えて欲しいと願ってしまう。そこで私は彼の気を引くために、ことさら優しく話しかけた。
「キジ肉はトリーが獲ってくれたそうだね? 美味しかったよ。ありがとう」
きゅー……
ゴザマータ!
「……ほ?」
「こ、こら! トリー!」
アリガトー、ゴザマータ!
きゃるっ
どこか自慢げにトリーが鳴いた。まるで「こう言うんだよ」と手本を示しているようだ。それだけでも頬が緩んでたまらないのに、念押しなのか「ね?」と小首をかしげて見つめられて、私はすっかり参ってしまった。
「そのとおりさの。──トリー、ありがとうございました」
「俺も。美味しいお肉を、ありがとうございました」
「やめて。お礼なんていらないって」
きゃるりっ
アリガトー、ゴザマータ!
アリガトー、ゴザマータ!
「ほ。これでおあいこだの」
笑いに包まれ夜は更ける。楽しい時間はあっという間に過ぎ去って、名残惜しくも暇を告げる時分となった。そろそろ村長宅に戻らねば。
私たちはまだ出会ったばかり。でもこの短い間に私はすっかり2人を好きになっていた。だから、「また明日」そう約束できたことが、なによりも嬉しかった。




