8 たったひとつの願いごと
豪奢な銀細工で縁取られた拡大鏡をそっと置いて、男はほっと息を吐いた。
「……なんと、素晴らしい……」
口元には柔和な笑みを浮かべているが、目はまったく笑っていない。それどころかまるで飢えた獣のように、ぎらぎらとした光をたたえて手元の羽を見つめている。
「いや、これほどとは……これこそまさしく『失われたドラゴンの秘宝』ですね」
「確かにかけがえのないものではありますがの。もはやただの羽にすぎません」
「とんでもない。教主さま、これほど完全な形をしたものは、都でも滅多に見かけないのですよ?」
この一枚がどれほど貴重なものなのか、熱心に語っているのは都から来た商人だ。およそこの街には似つかわしくない豪華な衣装に優雅な物腰、穏やかな口調。いかにも「貴人」といった様相だが、その腹の内ではなにを考えていることやら。おおかた、この羽を手に入れいくら儲けるかを算段しているのだろう。
「もしご不便なことがおありでしたら、私どもになんなりとお申しつけ──いえ、出過ぎたことを申しました。お許しください」
男はうっすら笑っていたが、私がわずかに眉をひそめたのに気がついたようだった。頭を下げて謝罪すると、とりつくろうような笑顔をみせた。
「いやいや、お気になさらず。こちらこそ田舎ものゆえ、満足におもてなしもできませなんだ」
「とんでもない。このような宝を手に取る栄誉を与えていただき、教主さまにはお礼の言葉もございません。なにせ鑑定しようにも本物を知らないものですから」
「難しいことはわかりませんが、お役に立ててなによりです。またいつでもいらしてくだされ」
「は。では、今日のところは、これで」
男は立ち上がると礼をとり、そそくさと出て行った。最後に耳障りな音を立てて扉が閉じて、そこでやっと力が抜けた。腹の探り合いなど慣れないことをしたせいか、すっかり気疲れしてしまったようだ。
青い羽を箱にしまい、やれやれ、と腰を叩きながら立ち上がる。付き添っていた助手は、手のつけられなかった茶を片付けながら気遣わしげな目を向けてきた。
「教主さま、今後はお断りになってはいかがです?」
「なに、この羽を見せるだけで寄進が貰えるなんぞ、もう二度とあるまいて。いまが稼ぎ時じゃろ」
「ですが……お身体を悪くされては」
「心配せんでもこの騒ぎはじきに終わる。やっと屋根を修理できたところだ。ついでに外壁も治しておきたいの」
これが最後の仕事だろうからやらせておくれと微笑めば、助手は困ったように眉根を下げて黙り込む。こう言えば、金策にいつも苦労している助手は言葉をなくしてしまうのだ。
ここが街とはいっても辺境のこと、人々にさほど余裕はないから恵賜といっても微々たるものだ。そのうえ中央からの供与だけでは食べるだけで精一杯で、痛んだ建物の修理すらままならない。そして私は夏が終われば教主を辞する。あとを継ぐ助手はまだ若く、きっと苦労が絶えないだろう。だからせめて、目の前の憂いのひとつを取り除いておきたかった。
そんなときに降って沸いたのが「彼」の一連の騒動だ。
「彼」──小さなドラゴンは、この世のもうどこにもいない。そのため富める者はなんとしても彼の「遺品」を手に入れようと躍起になった。商人どもは西に東に奔走し、その値は天井知らずに跳ね上がる。そうなると「まがいもの」が出回るのが世の常だ。そこで真偽がわからないでは信用に関わるからと商人たちはわざわざ都からやってきて、私の持つ彼の羽をじっくりと検分する。そして「些少ですが」と心ばかりの寄進を置いてゆくのだ。少ないとは言ってもそれは貴族相手に商売する人間にとってのこと。我らにすれば大金で、何年もかけて貯める額にあっというまに達してしまった。
それに彼らにしても、ただ羽を見るためだけにこんな辺境まで足を運んでいるわけではない。あわよくば、と私の羽を狙っているのは明白で、言質を取ろうとそれとなく誘導するのだ。
「お孫さんに贈り物をされてはいかがでしょう? そうすれば、ご子息も教主さまを見直されるのではないでしょうか──」
私の事情などいったいどこで調べたものか、こんなことまで話題にされた。あのときもし、助手が止めなかったら私はきっと殴りかかっていただろう。
それ以来、商人どもの挑発に乗らないよう、どんな言葉を投げつけられても冷静たらんと努めていたが、同時にひどく消耗していた。
廊下に出ればじっとりとした空気がまとわりついて、カビと埃の臭いが鼻につく。それに夕べからの雨のせいで身体の節々が軋んでいた。手足も重く、だるかった。確かに少し休んだほうが良さそうだ。
「……そうさの、やはり疲れがたまっておるようだ。悪いが、今日はこれで部屋に戻ってもかまわんだろうか?」
「ええ! ぜひそうなさってください。後は私が引き受けますから」
「すまんのぉ」
「教主さまは働きすぎなのですよ」
休むと言うと助手は明るい笑顔を見せた。それにうなずき私室に向かおうとしたときだ。表のほうから助手の妻が小走りでやってきた。
「教主さま、お客さまがお見えですよ」
「こらおまえ、教主さまはお疲れなんだ。今日は帰っていただきなさい」
「でもね、わざわざ遠くの村から来てくれたのよ? ほんの少しだけでも……」
「しかしなあ……」
「大丈夫さね。都の商人ではないのだろ?」
ならば無駄に消耗することもあるまい。むしろ良い気分転換になるだろうと、つい最前までいた応接室に案内するよう言いつける。女は「はい」とうなずいて、思い出したように付け加えた。
「そうそう、お客さまはメリカ村の村長の息子さんだそうですよ」
「メリカ……村?」
一瞬であのときのことが胸の内に蘇る。
「彼」についての手がかりを持つ、たったひとりの人物に違いない。秋になったら訪ねていこうと思っていたが、いまここで会えるとは。
「……教主さま?」
「おお、おお! きっとあの子だ。ほら、春節祭のときの!」
「……ああ、確か……ドラゴンが好きだっていう?」
「そうさ! とすれば応接室は止めだ。茶は私の部屋にもってきてくれんかの?」
「はいはい。どうぞご存分に。でもあまり遅くならないようにお願いしますよ」
急に元気になった私の姿に助手は苦笑いを浮かべている。しかたがない、とまるで子供に対するような物言いに、文句のひとつもつけたくなったがそう思ったのも一瞬だった。早く早くと促す心そのままに、足は勝手に待合室に向かっていた。
羽つき帽を膝に置いてつばを強く握りしめ、青年は、どこか緊張した面持ちだ。
無理もない。たった一度会っただけの爺の私室に引っ張り込まれたのだ。これでくつろげと言われても、そんな余裕などないだろう。
だが余裕がないのは私も同じだ。「彼」について一刻も早く教えなければと、もうそれしか考えられなくなっていた。
「あの、俺……お爺さんが教主さまだって知らなくて。すみません……」
「ほ。そんなことはどうでもいいさ。ずっときみに会いたいと思っておってな。ほれ、このあいだの続きだが──」
「え、と。その……待ってください。今日うかがったのは、あの絵のことで。このあいだのは友達にあげてしまったから、もう一枚、頂けないかと思って……」
「なんと! 続きを聞きにきたのではなかったか?」
「あの……続きって、なんのお話ですか?」
青年は目を白黒させている。
そこでやっと気がついた。順を追って説明しろ──口を酸っぱくして助手に言い続けてきたことが、まったくできていなかった。
「……すまないのぉ。どうにも気が急いてしまったようだ」
「いえ。俺のほうこそ突然押し掛けてしまって」
落ち着け、と心の中で叱咤しながら茶を勧め、2人で口に含んでひといきついた。
それから実は、と切り出して、私は重大な事実に気がついた。
「そういえば、お互い名前も知らなんだの。私はこの教会の教主をしておるニコという爺さ」
「……あ。俺はメリカ村から来ました。アキと言います」
「そうか……アキくん。まずはこれを見てくれるか。これは私の爺さんから貰ったものでの──」
手にした箱の中から「彼」の羽を出してやる。青年は、それを見るなりぎくりとしたが、瞬く間に平静を装った。それで私は確信した。この子は「彼」に会っている。なら、もっと「彼」のことを知っておかねばならなかった。
小さなドラゴンがなぜいなくなってしまったのか、そしていま、彼らの「遺品」がどのように扱われているか。
話すにつれて、青年の顔からみるみる血の気が引いていった。そしてぎこちなく手が伸びて、羽つき帽の「羽の部分」をそっと胸に抱き込んだ。無言でうつむく姿に私の胸も痛んだが、止めるわけにはいかなかった。
「つい先ほどもな、都の商人がわざわざやって来ておったのさ。狙いはこの羽だ。まったく、私がこれを手放すわけはなかろうに」
「……教主さま。あの……なぜ、俺にこんな話しを……?」
不信と不安がないまぜになった目だ。
だがそれでいい。
そのぐらいの用心深さがなければ、きっと「彼」を守れない。
「夢だからさ。小さなドラゴンをこの目で見ること、それが子供のころからの、たったひとつの夢だから」
私は老いた。残された時間もそう長くはないだろう。だから可能性があるなら賭けてみたい。
そう告げると青年は、強く唇を噛みしめながらうつむいた。
◇ ◇
香茶を淹れて湯飲みを両手で包み込む。すると指の先からじわりと熱が伝わって、広がる香気がすっと頭の靄を振り払う。それからほっと息を吐きだして、窓の外に目を向けた。いつもは青々とした山々も、今日は白く煙って影の中に沈んでいる。このぶんだと日が暮れるまで、きっと雨は止まないだろう。
畑仕事も今日はお休み。だからこんな日にはトリーと一緒にいたかった。けれどいま、僕はひとりで居間にいて、トリーがやってくるのを待っている。
早く会いたいのになんだか怖い。そんな奇妙な気持ちだった。
きゅーうぅ……
目が覚めて、いつものように身体を伸ばして羽繕いを始めると、トリーはすぐに気がついた。大切な羽が欠けてしまって取り乱すかと思ったけれど、トリーは叫んだり、暴れたりはしなかった。ただ不揃いな翼をじっと見つめて小首をかしげ、それから欠けた場所をちゅくちゅくと舐めだしたんだ。それからは、そうしていれば新しい羽が生えてくるというように、ずっと翼の手入れを続けている。僕の声も聞こえないほど夢中になって、ただひたすらに舐めている。
きっとトリーもわかっている。
昨日の事故で風切り羽がなくなって、もう飛べなくなったこと。いくら舐めても羽は元に戻らないこと。
なのにそれでも羽繕いをやめられない、その姿が辛かった。僕は言葉もなく立ち尽くしていたけれど、トリーの背中が「少しのあいだ、ひとりにして」って、そう言っている気がしてそっと寝室を後にした。
たっ、たっ、たっ、たたっ、たっ
規則正しい雨の音を聞きながら、僕もじっと考える。そしてある覚悟を決めたときだ。
……ちゃ
かすかな爪音にはっとして、顔をあげると黒い瞳と目が合った。ドアの影から顔だけ出して、トリーがじっと僕を見つめている。いつもならすぐに抱っこをねだるのに、
今日は近づこうとさえしてこない。
「どうしたの? こっちへおいで。ひと休みしよう?」
……きゅー……
声をかければ耳が一瞬ぴんと立つ。けれどすぐにトリーはしゅんと項垂れ動こうとしなかった。
「トリー?」
……きゅう……
近づいて、目の前で膝をつくと縋るような目を向けてくる。両手を広げて差し出すと、トリーはわずかに腰を落として後じさり、それから恐る恐る首を伸ばすと僕の指をちょいと舐めた。そしてくるりと向きを変え、とぼとぼ寝室に向かって歩き出す。
悲しそうな黒い瞳につきんと胸に痛みが走り、同時に両手が伸びていた。
「ほら、捕まえた」
きゅーう
「ね、抱っこはイヤ?」
きゅう、きゅう
違うの。イヤじゃないの。
抱き上げ顔を近づけ尋ねれば、トリーは僕の腰に尻尾を巻きつけ頬をそっと寄せてくる。それから首を伸ばしてすんすん僕の腕の匂いを嗅ぐと、服の上から労るように舐めだした。
「僕が怪我してるから……だから?」
きゅー……
「トリー……ありがとう。でも大丈夫だよ。ちゃんとお薬塗ったからね」
きゃうーぅ
「もう痛くないよ。だから、抱っこさせて?」
そのままきゅ、と抱きしめるとトリーもいっそう強くしがみつく。心細くてたまらないのに僕の心配をしてくれる、そんなトリーがたまらなく愛しかった。
「トリーは優しいね」
昨日、溺れたトリーを助けたとき、トリーは僕の腕に無我夢中でしがみついた。そのとき鋭い爪が僕の腕に食い込んで、ずいぶん血が出てしまったんだ。トリーは僕を傷つけたって気に病んでいるけれど、でもああして掴まってくれなかったらどうなっていたかわからない。だから気にすることはないんだよって夕べ言い聞かせていたのだけれど、やっぱり不安なんだろう。
痛くない? 大丈夫?
僕の様子をうかがいながら、トリーは腕を舐めている。
トリーは誰よりも優しい。
溺れたことにしたって、元を正せば僕のせいだ。昨日は僕が疲れていたから、魚を獲ろうとしてくれたんだ。たくさん食べれば元気になる、トリーはそう思ったから、あんな無茶な狩りをした。
それが、こんなことになったんだ。
「たった1日で……ずいぶん抜けちゃったね」
きゅうぅ
頭を撫でて、鼻と鼻をくっつける。それから軽く耳の後ろを掻いてやると、トリーはうっとりと目を閉じた。そのまま首筋を撫で続けると、そこはいつもと違った感触になっている。
王冠のように広がっていた飾り羽があっというまになくなった。コッコちゃんにやられてちょっと不格好だったけど、それも全部抜けて残っているのは耳だけだ。飾り羽の後ろの短い羽は残っているけど、それにしたってどうなるかわからない。
まるで花が散るように、朝になってトリーの羽は次々に抜け落ちた。両の翼も風切り羽がほとんど抜けて、いつもの半分ほどの長さになってしまってなんだかとても痛々しい。
また、トリーは変わるのだろうか。
「この羽も全部抜けて……薄い膜が張るのかな?」
ツノが生えるとしたらどこだろう。いまのトリーには似合わないと思うけど、もっと大きくなったら厳めしい顔になるのだろうか。この可愛らしい面影は、なくなってしまうのか。
トリーはいつかアキの家で見たような、マスタードラゴンになっていってしまうのか。
そんなことを考えながらゆっくり青い翼を撫でていると、顎がぺろりと舐められた。
「そうだね。どんな姿になってもトリーはトリーだ。僕は、トリーが大好きだよ?」
……きゃう
嬉しそうに甘えるトリーを抱いて、腕の中に閉じ込めた。それから小さな顎を肩に乗せ、僕は静かに語りかける。
「トリーがもっともっと大きくなったら……そしたら、いっしょに旅をしよう」
僕は一度トリーを捨てた。
そしてあのとき、僕は生きていなかった。息をして、動いていたけど死んだも同然だったんだ。そんな僕を生き返らせた、トリーは命の恩人だ。その恩人と別れるということは、死ぬと同じことだろう。
だから僕は決めたんだ。
トリーが人と一緒に暮らせないなら、今度は僕が出て行こう。
「北に行こうね。そこでトリーの仲間に会えたらいいな」
その途中、もし食べるものがなくなったら。
そうなったら、トリーは僕を食べていい。
いや、むしろ僕はそうして欲しいと思っている。
だって、そうすれば僕はトリーとひとつになれる。
どこまでも、いつまでも、ずっといっしょにいられるんだ。
トリーと一緒に青い空を飛んでみたい。
そうできたらいいのにって、僕はずっと思っていた。




