7 喪失
その日は朝から暑かった。なのに風はほとんど吹かず、思うように飛べないトリーは早々に涼しい木陰に入り込み、ふて寝を決め込んだようだった。
こんな日は、なにもしないでのんびりしたい。
僕もそんな誘惑に駆られたけれど、ここで怠けてしまうと畑の収穫が減ってしまう。だから午後から休むことにして、最低限のことだけ大急ぎで終わらせることにした。けれど今年の畑は育ちが良くて、肥料をあげたり摘心したり、やることは山ほどある。ひといきついたころにはもう昼で、頭から水を被って汗を流すとすっかりくたくたになっていた。
「あー…… 雨、降るのかな」
木陰でごろりと横になり、ぼんやり空を見上げていると風もないのに雲がゆっくり流れていく。
こんなときは次の日あたりに雨になると父さんから教わったっけ。ここのところずっと晴れ続きだったから、ちょうど良いお湿りになりそうだ。でもせっかくモロコシが伸びてきたところだから、風に倒されなければいいけれど。
そんなことをつらつら考えだすと自然にまぶたが重くなる。僕はどうやら少しのあいだ、うとうとしていたようだった。けれど突然頭が冴えて、なんだろうって思ったときだ。
ふんふんふん、ふん
かすかな息が頬にかかってむず痒い。そのまま眠ったふりをしていると、胸に前足が乗せられた。トリーはどうやら僕をのぞき込んでいるようだ。
……きゅー……
「眠っているの?」って囁くような声がする。それに答えず目を閉じたまま深く息をしていると、トリーは遠慮がちに僕の口をちょんと舐めた。
起きてほしいけど、どうしよう。
そんな戸惑いが可愛くて、僕は我慢できなくなってしまった。
「わっ!」
ぎゃっ!
ぎゃぎゃぎゃっ……
……きゅるぴー、きゅるぴー、くるるるるー
ボク、起きてたの知ってたもん。
そう言いたげにトリーは身体をすり寄せ甘えてくる。でも抱き寄せたトリーの胸がどきどきしているのが伝わって、飛び上がるほどびっくりしたことはバレバレだ。誤摩化しかたが上手になったと感心しながら、驚かせてごめんねってトリーを抱きしめ身体をたくさん撫でてやる。トリーはきゅうきゅう気持ち良さそうに喉を鳴らしていたけれど、満足したのかひらりと僕のうえから飛び降りた。
「どうしたの?」
きゃるる、きゃる、きゃる、きゃるりるりっ
そう言って少し歩くと振り返り、トリーはじっと僕を見つめている。向かう先に気がついて、僕はすぐさま賛成した。
「暑いから、川に行こう」ってトリーは誘ってくれたんだ。
「やっぱりここは涼しいね」
川のほとりはわずかに風が流れて空気もどこか冷えていた。河原に降りるとトリーはさっそく浅瀬に向かい、水の流れと戯れだす。
右前足を恐る恐る水に向かって差し出して、触れると同時にぱっと後ろに飛び跳ねる。それから頭を低くしたままそろそろと近づいて、ぱしゃりと両手で叩いて横に飛ぶ。そうやって、水を獲物に見立ててトリーは真剣に遊んでいる。そんな姿は見ているだけでも可愛くて、僕はいつも時間を忘れて見入ってしまう。だけど今日は確かめることがあったから、誘惑を振り切ってひとまずトリーに背を向けた。
トリーの透明な羽がなくなってしまったとき、僕は不安でたまらなかった。
僕は釣りがへたくそだから、魚を獲るのはトリーに頼り切りなんだ。だからトリーが飛べなくなったら魚が食べられなくなってしまう。もちろん僕は我慢できるけど、トリーにはそんなことさせたくない。ならどうするかって考えて、僕は仕掛けを使うことにした。
目の荒いスノコを使い、浅瀬の少し急な流れの先を生け簀の中に落とし込む。生け簀には蓋と「返し」がついているから、魚が入ったら逃げられないって寸法だ。これは昔アキから聞いた方法だけど、うろ覚えだから上手くいくかはわからない。
アキが街に行っていなければ、もっとちゃんとできたのに。そんなことを考えながら、生け簀の蓋をどかしにかかる。そしてなかをのぞいてびっくりした。
「うわっ……イナだ!」
一昨日仕掛けたばかりだから、まだ魚はいないだろうって思っていた。だから今日は流れに負けて壊れたところがないかどうか、それを確かめるつもりだったんだ。それがのぞいてみれば4匹も魚がいる。しかもそのなかの1匹はイナだ。
イナは釣るのが難しく、僕の腕では逆立ちしたって釣れやしない。それにトリーが獲るのもハヤが多くて別の魚といったら大物のアマゴになる。美味しいけれど滅多に釣れない魚がかかって、僕はもう嬉しくてたまらなかった。
「トリー、トリー! こっちに来て!」
きゃるるっ
浅瀬をちゃぱちゃぱ水を蹴散らし駆けてきて、トリーは「なあに」って小首を傾げてじっと僕を見上げている。僕はそれを背中側から抱き上げて、生け簀の中を見せてやった。
「ほらトリー、凄いだろ、これ。これがイナだよ。トリーは初めてだよね。すっごく美味しいんだよ?」
きゅーう
「夕飯にするからね。楽しみにしててね」
生け簀の中をくるくる泳ぎ回る魚たちを、トリーは興味深そうに目で追っていた。あとで網ですくうから大丈夫だよって教えてあげると、首を反らせながら後ろを向いて「きゃう」と僕の頬を舐めてくれる。まるで「すごいね」って褒められているようで、嬉しくなってトリーをぎゅっと抱きしめた。
「うんうん。これでいつでも魚が食べられるね。」
きゅんきゅんきゅーう
よかったね。よかったね。
トリーも喜んでくれている。それに魚という心配ごとがひとつ減って、僕はとても満足だった。
でもただひとつだけ、素直に喜べないことがある。
釣り針からエサだけをとってみたり、釣り糸を切ったりするほどここの魚は頭が良い。なのにこんな簡単な仕掛けに引っかかるなんてマヌケすぎやしないだろうか。それがとても不思議だったし、ほんの少し悔しかった。
◇ ◇
昼前にさんざん寝ていたせいか、トリーは元気いっぱいだ。あれから一緒に水辺で遊んで僕は疲れ切ってしまったけれど、トリーはまだ遊び足りないようだった。僕が「少し休ませて」って木陰に座って休んでいるとそばにきて、心配そうに優しく声をかけてくれる。
きゃるきゃ、きゅるきゃ、るりるるるー
「うん。急に暑くなったから……身体がまだ慣れてないんだろうね」
きゅーう
「ありがとう。トリーは優しいね。でも大丈夫だよ」
耳の後ろをこちょこちょとくすぐって、顔を寄せて鼻と鼻とを軽くちょんと触れ合わせる。するとトリーはきゅうきゅう嬉しそうに喉を鳴らすと僕に頭をすりつけて、そしてなにかを訴えた。
きゃるるるりるるるきゃるりるりっ
きゃうるるきゅるるる
きゅるきゅるきゅ!
じゃあボク、向こうで遊んできてもいい?
つぶらな黒い瞳をきらきらと輝かせ、期待に満ちた眼差しで見つめられてどうして断ることができるだろう。
朝よりいまのほうが暑いのに、羨ましくなるほど元気だな、って僕はそう思いながらトリーの頭を撫でてやった。
「いいよ、行っておいで」
きゃるっ
言うなりトリーはぱっと身をひるがえし、川岸の大きな樹へと走っていった。そしてあっという間に幹を登り、川にせり出た枝の上に移動する。
あそこはよく魚を獲るとき使う場所だ。
まさか、と目をみはって立ち上がりかけたその瞬間、トリーが枝を蹴って空中に飛び出した。
「待って、トリー! もうあの羽は……」
僕の声は届かなかった。トリーはそのまま川上に向かって滑空し、やがてゆっくり高度を落とす。そして水面すれすれを旋回しながら後足を前に出し、あっというまに大きな魚を捕まえた。そしてその勢いのまま戻ろうとしたときだ。
びちっ
魚が跳ねて、トリーが不自然に傾いた。
しぶきが上がり、同時に「ぎゃ」と声がした。
長い尻尾が水を叩き、その向こうでトリーがもがきながら水の中に沈んでゆく。そしてその姿はあっというまに見えなくなった。
「ぁ──」
川はなにもなかったように流れている。
怖かった。
どくりと心臓が音を立て、冷たい汗が噴き出した。
喉がひゅうと鳴ったきり、身体は息をするのを忘れたようだ。だけどすぐに足が全速力で動きだし、まっすぐ川に向かって駆け出した。
「トリー! トリー!」
迷わず飛び込んでみたものの、川の中では思うように動けなかった。冷たい水が肌を刺し、尖った岩が僕の行く手の邪魔をする。川底の石はぐらぐら動いて転ばないよう歩くのが精一杯。だけどそんなの気にしてなんかいられない。なぜならここから先は流れが早く、もっともっと急になる。深さも僕の背丈を超えるから、なにがあってもここでトリーを助けなければならなかった。
大岩の手前、川がくの字に曲がる場所。流された木はいったんここをぐるりと回って川下へと落ちてゆく。だからトリーも必ずここに流されてくるはずだ。
(どこだ……?)
絶対に見逃すまいと水面に目を凝らす。
けれど水は僕の身体を押し流そうと、重くねっとり絡みつく。胸の下まで水に浸って立っているのがやっとだけれど、負けてなんていられない。水の中で両手を広げて必死になって踏ん張ると、前方でなにかが跳ねる音がした。
ぎゃぶ!
トリーだ。浮き沈みを繰り返しながら、必死になってもがいている。
けれど小さな身体はまるで木の葉のようにくるくる回り、流れに翻弄されていた。
「トリー! ──ぶはっ!」
近づこうと踏み出したとたんに足が滑って転びかけた。危ういところで体制を立て直し、トリーに向かって手を伸ばす。
(もう少し……っ)
伸ばした指にトリーが触れた。しかしするりと遠ざかる。
流れに逆らい追いかけた。二度、三度とトリーを捕まえようとしたけれど、まるでなにかに引かれるようにトリーは僕から離れていった。
(ああっ、くそ! 大岩が、もうそこに──)
その瞬間、身体が勝手に動いていた。
力を込めて川底を蹴り、もがくトリーに追いすがる。
ふわと足が浮いて流された。周りの景色がぐるぐる回って前も後ろもわからない。だけどトリーだけはしっかり目で捕えていた。
(──トリーっ!)
掴んだ、と思ったそのとたん、背中にがつんと衝撃が走る。
痛みのあまり息が詰まり、足を取られてまた頭まで沈んだけれど僕はトリーを離さなかった。沈む間際に片手でトリーを引き上げて、もう片方の手で岩のくぼみをしっかり掴んで体勢を立て直す。
「えほっ! ──げほっ」
げっ、げっ、げっ、げふっ
……ぎゅーうぅう……
打った部分ががじんじん痺れ、胸が苦しくてたまらない。手も足も、身体全部がぎしぎし悲鳴を上げている。だけど僕は涙が出るほど嬉しかった。
腕に巻き付けられた長い尻尾。咽せてぶるぶる震えているけど、トリーを無事に助け出せた。
腕にかかるこの重さ。
それがたまらなく愛しかった。
◇ ◇
昼間はあんなに暑かったのに、日が落ちると急に寒くなってきた。風もだんだん強くなり、窓をがたがた揺らしている。家の中にも湿気が染み込んできたようで、冷え冷えとしたなか暖炉の温もりが心地よかった。
明日はきっと雨になる。そしたら畑仕事はできなくなるからずっとトリーのそばにいよう。きっと不安で心細いはずだから、僕が支えてあげなくちゃ。
柔らかい布に包まれて、膝のうえで眠るトリーを見守りながら僕はそう決心した。
日中は暑くなっても川の水はまだ冷たい。
そこに浸って僕もトリーもすっかり冷えきってしまっていた。そのためずっと震えが止まらずに、家に帰ることすら苦労した。
2人で身体を温めて、怪我がないかも確かめた。そしてご飯を食べてほっとしたのがついさっき。安心したのかトリーはすんなり眠ってくれた。
耳を澄ませば小さな寝息が聞こえてくる。
いつもなら僕もつられて眠くなる、トリーの優しい子守唄。だけど僕は眠れなかった。身体はすっかり疲れはて、腕を上げることすらおっくうだ。なのに頭の中は冴え渡り、まぶたを閉じてもすぐにまた開いてしまう。
(……トリーは気づいているだろうか)
風切り羽がなくなって、もう飛べなくなったこと。
風に乗ることはできたのに、それすらできなくなったこと。
トリーに怪我はなかったけれど、左の翼の風切り羽が欠けてしまった。
それをどうやって知らせたらいいんだろう。




