〜 ミカとトリーと羽根枕・後編
「ただいま!」
最後の数歩は小走りになりながら、ミカは笑顔で家の中に飛び込んだ。するとトリーがきゅんきゅん鼻を鳴らしてミカに飛びついて──こなかった。
「あれ? いない」
「おかしいな……いつもだったら一目散に飛んでくるのに」
ミカは首をかしげて何度かトリーを呼んでみるが、やはり家の中はしんとして、物音ひとつしなかった。耳を澄ませてじっとしても俺とミカの息づかいしか聞こえない。玄関右手の居間からもその奥の台所からも、扉の閉まった左手の寝室からも生き物の気配は感じられず、家の中は不気味なほどに静まり返っている。
なんだか嫌な予感がする。
眉根を寄せれば同じように険しい顔をしていたミカが、ちらりと視線をよこして寝室の方についと顎をしゃくってみせた。顔を見合わせうなずいて、俺たちは寝室に向かってそっと足音を忍ばせる。
「ひっでぇ……なんだよ、これ」
寝室は見るも無惨な有様だった。
床にも寝台にも一面に白っぽい羽が散らばって、足の踏み場もないほどだ。
顔を強ばらせたミカが一歩足を進めるたびにふわりふわりと羽が舞い、足元に小さな渦を描きながら落ちてゆく。
やはりここにもトリーの姿はない。
まさか、この羽は。
最悪の結果が脳裏をよぎり、身体を強ばらせたその瞬間、ミカがぽつりと口を開いた。
「……これ、トリーだ」
「お、お、落ち着けミカ。トリーの羽は青いだろ? 内側の羽だって水色だ。だからこれはトリーじゃない。大丈夫、きっと無事だ」
まとわりつく不吉な影を振り払い、震える声を抑えながらしっかりしろと励ますと、ミカはきょとんと目を見開いた。
「アキ? なに言ってるのさ。これは雉の羽だよ。こんなふうにした犯人が、トリーだって」
「……へ?」
「まったく。イタズラばっかりするんだから」
ミカは口を尖らせながら、両手を腰に当ててぐるりと室内を見渡した。そしてある場所で目を留めると、手を口元に当ててそっとささやきかけてくる。
(アキ、あそこ、あのなかだ)
指差す先には作り付けの大きな箪笥がある。真ん中が飾り棚になっていて、その下側が引出し、そして上部が引き戸になっているなんの変哲もない箪笥だ。確かに引き戸の片側に小さな隙間があるけれど、まさかあそこにトリーが隠れているとでもいうのだろうか。
(なかって。引き戸だぞ? あんな隙間じゃ入れないだろ)
(たぶん内側のほうの戸を開けて……なかから押して閉めたんだと思う)
そういえばミカはトリーが引き戸を開けられるようになったと言っていた。それに戸は内側から背を押せば閉まるだろう。でもはたしてトリーがそこまでできるものだろうか。
ホントかよ、とささやき返すとミカは引き戸のすみをちょいと指差す。
(だってほら、あっちの隙間から羽がはみ出てる)
(うお! ホントだ。トリーってばすっげー!)
隙間とは反対側の引き戸と箪笥の間から、濃い青の風切り羽がちょっぴり顔を出していた。なるほどトリーはあそこでじっと様子をうかがっているわけだ。きっと背中をぐっと押しつけているのだろう。ときおり羽がぷるりと震えるのが微笑ましい。
最後の詰めが甘いけど、ちゃんと引き戸を閉めるだなんて凄過ぎる。やっぱりトリーは頭が良いとひっそり興奮していると、ミカが呆れたように釘を刺した。
(褒めないでよ? ……せっかく今晩から新しい枕にしようと思ってたのに)
計画がおじゃんになったとミカはすっかりおかんむりだ。わかりましたとひょいと肩をすくめてみせると、ミカはくるりと箪笥に向き直った。
「トリー? 出ておいで。出てこないと、もうだっこしてあげないよ?」
ぷっと吹き出しかけて、俺は慌てて口を塞ぐ。ミカはトリーを躾けようと一生懸命やっている。それを笑ったりするのは良くないけれど、悪さをした罰として「だっこしない」っていうのはなんとも可愛らしいじゃないか。ちなみに一番重い「お仕置き」は反省するまで「おしゃべりしない」ことだそうだ。
どんな「お仕置き」だって絶対一晩も続かないと俺は確信しているけれど、ミカは「ちゃんと叱るときは叱ってる」って譲らない。ミカはあんなにトリーに甘いのに、ホントに叱ることなんてできるだろうか。
トリーをどうやって躾けているのか、ずっと気になっていた。だからこれも良い機会だとミカの邪魔にならないよう、逸る心を抑えて俺は1歩後ろに下がる。ミカは声に出さずに「ごめん」って言ったけど、悪いことなんてあるものか。俺は楽しくてたまらないんだ。
そのまま息を潜めているとミカは箪笥の前に移動して、低い声でこれが最後だよ、とトリーに向かって呼びかける。すると引き戸からはみ出ていた青い羽がさっと引き込まれて見えなくなった。ついに観念して出てくるのかと俺とミカはじっと待ったけど、箪笥の中からはうんともすんともない。
「……出てこないつもり?」
まずい。ミカは本気で怒ってる。
(トリー、出てこいよ!)
俺は後ろで精一杯祈ったけれど、やっぱりトリーは出てこなかった。ひょっとしたら、引き戸の向こうでミカの本気を感じ取って動けなかったのかもしれない。
でもミカはトリーが出てこないとわかると実力行使にでた。
外側の引き戸に手をかけて、力一杯引いたのだ。
静まり返った室内に、乾いた大きな音が響く。
すぱん!
「こらっ!」
ぎゃっ!
ぎゃぎゃぎゃっ!
ぎゃっ ぎゃっ ぎゃぎゃっ ぎゃー!
この世の終わりが来たような、そんな叫びに俺は思わず仰け反った。ミカもわっと声をあげてぱっと後ろに飛び退る。あまりの大声に耳が痛くなったけど、でもこのときのトリーといったら見ものだった。目と口をまんまるにして飛び上がり、なかの棚にごっつんがっつん頭をぶつけ、それでも逃げようとしたのか奥に向かって潜り込んで暴れたんだ。おかげで棚に入っていた布は全部外に蹴りだされ、ぐちゃぐちゃの羽まみれになってしまった。
それからトリーは箪笥の中をぐるりと駆けて、ぽとりと転がり落ちてきた。床の上で一瞬きょとんとしたけれど、すぐにミカを見つけて慌てて駆け寄りミカの身体を駆け登り、びっくりした、ときゃうきゃう鼻を鳴らして訴える。そして最後に鼻先をミカのわきの下に突っ込んで、きゅう、としおらしく項垂れた。
その様子がおかしくて、俺は腹を抱えて笑ったけれどミカはいたって冷静だった。
「トリー? ダメだよ。僕は誤摩化されないからね」
俺もトリーもはっとして、恐る恐るミカを見た。ミカは笑っていたけれど、なぜだかとても怖かった。
◇ ◇
ミカは腕を組んで寝台に腰掛けて、むっと口を引き結んでトリーを冷ややかに見下ろしている。トリーは顎から腹までぺたりと床に押し付けて、尻尾も丸めて目だけでミカを見上げていた。身体を小さく丸くして、耳も頭の飾り羽もぴったり首に張りつけて、まるで萎れた葉っぱのようだ。
きゅーうるるるーぅ
「そんな顔したってダーメ!」
ぎゃるぎゅるるっ
「言い訳は聞かないよ」
ぎゃう、ぎゅるぎゅるぎゃー
「トリー? 僕が言ってるのはね、そういうことじゃないんだよ」
人差し指をぴっと立て、ミカは至極真面目な顔でトリーに向かって説教した。
「遊んでいて夢中になったんだろ? 間違えたり失敗することは、誰にだってあることなんだ。だから、僕はそれを怒ったりはしないよ?」
きゃう、きゅーうう
「だけどね? こんなふうにしてしまったら『ごめんなさい』しなくちゃいけないでしょう?」
ミカは寝室をぐるりと見渡し肩を落とす。
部屋中に雉の羽が飛び散って、おまけに箪笥の中身まですべて床に落っことされた。これでは寝られるように片付けるだけでもひと仕事だ。せっかく新しい羽枕が完成するところだったのに、これでしばらくお預けだ。
そんなミカの気落ちが伝わったのか、トリーもいっそうしゅんと小さくなる。
きゅー、きゅー、きゅんきゅんきゅーうぅ
お腹を床につけたまま、もそもそトリーは這ってくるとミカの足にほお擦りした。
まるで「ごめんなさい」と言っているようで、険しかったミカの目元も和らいでくる。
そっと足もとをのぞき込み、ミカは優しく声をかけた。
「トリー、ちゃんと反省した?」
きゃう
「じゃあ、『ごめんなさい』は?」
きゅるる、ゴメチャイ、ぴーるー、ゴメチャイ、るるるーう
「……うん、良くできたね」
ゴメチャイ……
「ほらトリー、おいでよ」
きゃるるっ
「よしよし、トリーは本当にいい子だね」
許しが出るなりトリーはミカの胸にしがみつき、必死に顔を舐めだした。ミカもトリーを優しく抱いて、首筋をゆっくりと撫でてやる。やがて落ち着いたのかトリーはミカの肩に顎を乗せ、翼を撫でられ気持ち良さそうにくるくる喉を鳴らして目を閉じる。
これが「お仕置き」か。
なんていうか。俺、のろけられてるんじゃないだろうか。
「……邪魔したな。帰るわ」
「ええ? 来たばっかじゃないか。お茶ぐらい飲んでってよ」
「いや。もーおまえら、勝手にやっててくれ」
「待ってよ。今すぐ片づけるからさ」
「いいよ。トリーに蹴られるからな。じゃ、また」
「アキ!」
やれやれ、蜜月ってやつか。
俺はもうすっかり当てられて、とても2人の間に入れなかった。
頭を振って寝室の扉を閉めようとしたその一瞬、くすりとトリーが笑った気がして俺は思わず目をみはる。
まさか。
けれど2人の姿はすでに扉の向こうに消えた後。
いまさら確かめる気にもなれず、新作オモチャをそっと居間のテーブルの上に載せ、俺は家に向かってとぼとぼと歩き出した。
あー、やってらんね。




