13 別れ
蓋付きの、目の詰まった籠にトリーを入れてそれを背負い、アキと一緒にまる一昼夜、山を北に向かって歩き続けた。
トリーは頭が良いから外を見せれば道を覚えてしまうかもしれない。それを警戒して、昼間は一切籠から外に出さなかった。トリーもなにか感じているのか、ずっと籠の中で大人しくしていてくれた。
夜が明けて、僕らは少し開けた草地をみつけることができた。大きな樹が朽ちて枯れたその場所は、森の中でぽっかりと穴があき、透き通った青空が顔をのぞかせている。
周りをぐるりと見回して、僕とアキは顔を見合わせ頷いた。
「……ここは、どう?」
「そうだな。ここなら見晴らしもそこそこ良いし、薮もすぐそばにある。なにかあっても逃げ込めるだろうな」
籠を降ろして僕は大きく深呼吸をした。
いつもどおりにしなければ。
声が震えないように。
涙がこぼれないように。
「……トリー、出ておいで」
蓋を開けると、トリーはまず首だけを外に出した。
きょろきょろ周りを見回して、ここはどこだと僕を見上げ、答えを待つようにつぶらな瞳を瞬かせる。
「ずっと籠の中で退屈だったろ? ……出ておいでよ」
微笑みかければトリーはきゅるる、と喉を鳴らす。
いいの? と首を傾げるその仕草に、僕は優しくうなずき返した。
籠に手をかけぶるりと身体を震わせて、うぅーん、と羽音を立ててトリーは空に舞い上がる。見知らぬ場所を警戒してか、しばらく草地の回りを旋回し、そして僕の肩に降りようと近づいてきた。
落ちていた太い木の枝を拾い、僕はトリーを待ち受ける。
ぶん
手にした枝を、力一杯振り回す。
狙ったわけではなかったから、枝は当然空を切った。
最初、トリーはこれをなにかの遊びだと思ったようだ。僕から少し距離をとり、きゅるきゅる楽しそうに喉を鳴らすとまたすぐ僕の近くに戻ってくる。僕はそのたびに、トリーを力一杯振り払った。
何度も何度も枝を振って近づくトリーを追い払う。そうして僕の息が上がってきたころ、枝の先がトリーの足をかすってしまった。トリーはぐらりとバランスを崩したけれど、ぎゃ、と抗議するだけでまた飛んでくる。
トリーは僕にぶたれるなんて、有り得ないと思っている。
ずっと飛んで疲れているはずなのに、それでも僕のそばに戻ろうとしているんだ。
息をとめ、僕は力を込めてトリーをぶった。枝の太い部分が翼に当たり、トリーは悲鳴をあげて地に落ちる。
ぎゃうるるるー、ぎゃぎゃっ
どうして? なにをするの?
耳を伏せ、身体を低くして、それでも近づいてくるトリーを僕は力一杯なぎ払う。
トリーは賢いから。
僕が本気じゃなかったら、きっと見抜いてしまうだろう。
だから胸の痛みに蓋をして、僕はトリーを本気でぶった。すると振り切った枝が脇腹を直撃して、トリーはもんどりうって転がった。
ぎゃん!
耳の後ろの羽がぺたりとしぼみ、トリーは身体を丸めて小さくなった。その瞳に恐怖が宿り、尻尾が小刻みに震えている。
じゃ、じゃー……
鼻の頭に皺を寄せて牙を剥き、頭を低くするとトリーは一歩後じさった。
もうやめて、って言っている。
でも、やめなかった。ここでやめることはできなかった。
大股で近づいて、僕はさらにトリーをぶつ。これ以上僕のそばに寄るんじゃないと震える腕を叱咤して、力を込めてトリーに枝を振り下ろす。
トリーのほうも、必死になって枝を避けた。
それでも幾度か身体に当たり、そのたびにトリーは小さく悲鳴を上げる。
わけもわからず攻撃されて、なぜって思ってるはずなのに、トリーは一度も反撃しようとしなかった。
怒っていいのに。
思いっきり噛みつかれたって、僕はかまわないのに。
何度ぶったことだろう。ついにトリーは逃げ出した。
森の方へと走って逃げて、そして後足で立ち上がって振り返る。
あんなにぶたれて痛くて辛くて苦しいだろうに、トリーはそれでも僕を気遣うような目を向ける。
僕はぶった方なのに、身体中が痛かった。息をするのも苦しかった。
それでも最後の気力を振り絞り、僕はトリーを追いかけた。意味もなく叫びながら木の枝を振り回し、そしてトリーの身体を激しくぶつ。トリーはついに、全速力で逃げ出した。
4本の足を使って走って逃げて、そしてよろめきながら森の奥へと飛び立った。
不思議な羽音が、きらきら輝く空の青が樹々の向こうに隠れてしまう。
最後に目にしっかりと焼き付けておきたかったのに、トリーの姿はもう見えない。
聞こえてくるのは僕の激しい息づかい。
そしてぎりぎりと刺すように痛む胸。
苦しくて、膝に手を当て喘いでいるとアキが背中をさすってくれた。
「……行こう」
「…………」
アキに荷物を持ってもらい、僕らはそっと草地を後にした。たとえトリーが戻ってきてもどこに行ったかわからないよう、なるべく音を立てずに移動する。
細心の注意を払って気配を消して、けれど精一杯の速度でもって山を下る。早くこの場を去りたくて、急いで急いでやがて小走りになったころ、遠くから叫び声が聞こえてきた。
きゃーう、きゃーうぅ
どこ? どこにいるの?
はっとした。
トリーが呼んでいる。僕を捜しているんだ。
きゃーう、きゃーう、きゃーう……
ずきんと、また胸の痛みが強くなった。
きっとトリーはあの草地を飛び回り、僕とアキの姿を捜している。
どこ? どこ?
悲鳴のような鳴き声が、ずっと遠くから響いていた。
やがて僕らがどこにもいないと気がついたのか、叫び声は言葉になって聞こえてきた。
ボクハトリー、メリカムラデウマレマシタ、オトーサンハ、ミカデス!
迷子になっても困らないように、僕がトリーに教えた人の言葉。
いつの間にか、ちゃんと言えるようになっていたんだ。
なのに、良くできたねって褒めてあげることは、もうできない。
耳の後ろを掻いてあげることも、抱きあげることも、触れることすらできないんだ。
そう思ったら、突然目の前がにじんで見えなくなった。
目を閉じれば冷たい感触が次から次へと頬を伝って落ちてゆく。
もう嗚咽が止まらなかった。
ボクハトリー、メリカムラデウマレマシタ、オトーサンハ、ミカデス……
声は、何度も何度も聞こえてきた。そしてそのたびに木霊が返り、ずっと遠くまで響きわたる。トリーはああやって僕を呼び、僕が戻ってくるのを待っている。
ごめん、トリー。
僕は君を裏切った。
とても許されることじゃない。
君は僕を憎んでいい。
でもこれだけは本当なんだ。
君に幸せになって欲しいと願うこの心。
この想いだけは真実で、たったひとつの望みなんだ。
もう、二度と逢うことはないだろう。
それでも僕は、願わずにはいられない。
──トリー、どうか幸せになって。
◇ ◇
家の中はしんと静まり返っていた。
僕以外には、本当に誰もいない。
じっと耳を澄ましても、なんの音も聞こえなかった。
この家は、こんなに広かっただろうか。こんなに寒々しかっただろうか。
「トリー……」
ふらふら寝室に向かってみるけれど、やっぱりそこには誰もいない。
足もとにまとわりつく影も、軽やかな爪の音も、不思議な羽音もなにもない。
耳をくすぐる息づかい、頭をまさぐる小さな手。腕に巻き付く長い尻尾。肩の上の、あの重み。
目を閉じればまざまざと蘇る、僕の可愛い青いトリー。
固い卵を暖めて、そして生まれたふわふわの水色毛玉。
立ち上がろうとして失敗して、動けなくてぴゃーぴゃー泣いたヒナのトリー。
産毛が抜けてすっかり禿げてしまったころ、はじめて言葉をしゃべって驚かせてくれたよね。手が生えたときもクチバシがとれたときも、トリーには本当に驚かされることばかりだった。
全部、覚えているんだ。
さわれば少しひんやりして、でも滑らかな青いウロコ。翼の内側の、ふんわりとした柔かさ。くるくる楽しそうな鳴き声も、大きな寝言も僕の身体に染み付いて、僕の一部と言っていい。
引き寄せられるように寝室に向かい、乱暴に寝台に腰掛けると、ふわとなにかが宙を舞う。
ふわふわするそれをつまんで手のひらに乗せてみると、それは水色の羽毛だった。
これはトリーの翼の内側に生えていた、産毛に良く似た柔らかい羽。
僕の、まんまるの水色毛玉。
「──トリーっ!」
この枕を使って、ずっと二人一緒に寝ていたんだ。
大きさの違う2つのくぼみ。小さい方が僕の頭で大きい方がトリーの身体。
でももう、このくぼみの主はいない。
僕が──追い出した。
僕は枕を抱きしめ顔を埋める。
ここにまだトリーの気配が残っているような気がしたから。
トリーのあの温もりを、少しだけでも感じたかった。




