最終話 卑屈な僕が、好きと言えるまで
ぐるぐる。頭が回る。それは思考が循環しているのもあるし、若干の酩酊感のせいでもある。
僕という人間は、松村陸のことをよく知っている。なにが好きで、なにが嫌いか。僕は楽しいことが好きだ。僕に限らず、みんな好きなはずだ。でも、この楽しいことという認識は人によって様々だと思う。
他の人が楽しい事と言って想像するのは、アニメ、ゲーム、小説、スポーツ、音楽、園芸、とにかく様々だろう。そのどれもを僕は心から好きと言えなかった。
その理由は環境。幼少期から厳格な母親のもとで管理されて育った。幼少期の僕が身につけた、友達をつくるための道具としての好きはひどく表層的で、すぐに話題についていけなくなった。
だからだろうか、大きくなった今でも失望されるのが怖い。それを嫌いな人に嫌いと言われるのは構わない。ただ、僕以上に好きな人が、僕とそれを話題にした時に、僕の好きがファッションだと思われるのが嫌だった。静かにフェードアウトしていく感覚は、幼い頃に感じた疎外感に似ていた。
あるいは、そうやって何かのせいにしないと潰れてしまいそうだった。
でも僕は、裏表の反対で、誰かと繋がる感覚が好きだった。なんでもないちょっとした事を共有して、それを笑えたらそれで良かった。
僕が好きなものは人との関係で、関係が好きという言葉は、その人が好きという感情に変化する。
人は変わる。
僕がその人を好きでいたとして、その人が僕のことを好きじゃなかったら。なんて独りよがりで醜い感情だろう。
人を好きになることはすぐに痛みに変わる。嫌われてしまうかもしれないという妄想も、それが馬鹿げていると理解している自分も、そらでも妄想を止められないことも全部嫌いだった。
ずっと、ずっとグルグルグルグル回り続ける。
このサイクルを止めるために、好きになることをやめることにした。
心を許すから醜い感情が吹き出すのなら、心を許さなければ良い。表面だけの付き合いで済ませれば、表層的な楽しみは得られていざという時の傷も浅く済む。楽しみが失われるから痛いなら、最初から持たなければ良い。
そうやって現実と整合性を取ろうとした結果、歪に積み上がった今の僕がある。
『お前のそういうところが嫌いだ』
同感だ。僕も僕のこういうところが嫌いなんだよ。全部わかってんだよ。
自分を守るために作り上げた自分の像が、自分を縛り付けている。その場凌ぎで作り上げた自分の像がさらに自分を縛り付けて、どうしたら良いか分かんないんだよ。
『だけど俺はカスだよ』
『知らん』
だろうね。なるべく茶化して、軽くして、それでも少し滲ませたいのは理解してほしいから。諦めたふりして強欲な自分が嫌いだ。
『私は、松村くんが何を考えてるのか知りたい』
ずっと。ずっと考えないでいた。あり得ないと切り捨てていたこと、そうならないように努めていたことが起きてしまった。踏み込もうとする人がいて、踏み込まれるのが僕の望むはずなのに、他人に心を傾けそうになるのが怖い。
『人ってのはそんなもんだろ』
あっけらかんと言ったマツコの言葉。人はそんなものなのだろうか。どこかに暗い気持ちを抱えながら、喜ばしい結果を得るために、刹那的な幸福のためにリスクを抱けるのだろうか。
僕のように明確に言語化しようとする人は少ないのかもしれない。だけど、漠然と不安を感じながら各々が生きているなら。
僕のことを好きだと言った、村雨の表情を思い出す。
――顔を赤らめて、真剣な面持ちだった。
村雨は、この時、何を思っていたのだろうか。この時だけではない。ずっと、僕と過ごしていた中で何を思っていたのだろうか。
目を細めて笑った村雨を強く覚えている。その時間を楽しく思うと同時に、心を許しそうになっている自分を嫌悪していた。
でも、村雨の表情は嘘だったのだろうか。
ずっと懐疑的に判断してきた。でも好意的に判断するなら、好意的に判断することを許されるなら、そうすることで感じる罪悪感とあり得ないと断じる僕を宥められたら。
ぐるぐる。グルグルグルグル。頭が回る。
回る回る回る。
回る回る回る回る回る回る。
回る回る回る回る。
回る回る回る回る回る。
気持ち悪い。
「――」
なにか気配を感じて正面に意識を向けると、佐々木が頬杖を付きながら僕の顔を見ていた。
「やっと戻ってきた。5分くらいずっといたのに気づかないもんか?」
責めるような口調ではなく、僕を茶化すような面白がるような様子だった。
「ごめんボーッとしてた」
「だろうな」
それ以外無いだろ、とか、松村だし、みたいな事を言われて、僕は納得する。
「聞きたいことがあるんだけどさ」
気づけばそんな事を言っていた。
「なにか迷っていることがあった時って、どうやって選んでる?」
「それはどういう意味で?」
「人生の決断みたいな。一つは自分はこうしたいけど失敗したら困る、もう一つは少しの不満はあれど失敗することはない。みたいな。あれだね。入試でレベル高いところを志望するか、無難なところで割り切るかみたいな」
自分でも何を言っているのか分からないが、その言葉はスラスラと出てきた。ある種の言い訳のようでもあった。
「んーーー。そうだなぁ。俺はあんま難しいこと考えてないけど、やりたいならやった方がいいんじゃない? ミスったらそん時はそん時よ。何したってミスる時はミスるんだし、それなら楽しいことしたいな」
佐々木が真面目に答えるのを聞いて、頭を垂れながらその意味を咀嚼する。
「なんも考えてないだけだけどね。俺バカだから」
佐々木が笑う。
「ありがとう」
頭が回る。
。……。。……。。……。
佐々木はバカだが、馬鹿ではない。いや、テストの点数はお世辞にも良くないが、そういうことではない。
佐々木の言葉は正しい。分からないものは分からないのだから、自分に分かる範囲でできるだけ良い選択をする。
きっと僕は、佐々木のようにはなれない。そういう選択をすることを避けてきた。選ばなくて済むように、選択肢を潰すような選択を取り続けた。
でも、これだけはやらないといけない。
休み時間、僕はスマホを取り出して、勢いに身を任せて入力する。
『今日の放課後、話がしたい』
送った相手は村雨だ。すぐに既読がついて返ってきた。
『教室残ってれば良い?』
『ありがとうそれでお願いします』
可愛らしいスタンプが送られてきて会話は終わった。
。……。。……。。……。
村雨は僕を好きだと言い、付き合ってくださいと言った。
一方、僕は村雨を好きだと言いながら、付き合うことはできないと言った。
村雨は、いろいろなことを考えて、僕に嫌われるかもしれないのに踏み込んだ、のかもしれない。分からない。でも、そうであったのなら、これほど嬉しいことはない。
そしてそれを断った僕は歪んでいる。不誠実だ。
全部、ぐちゃぐちゃになりながら、ずっと渦を巻いている。
「松村くん」
村雨が呼んだ。
「話ってなに?」
「ここで話すのもなんだから、こないだのカフェに行かない?」
「いいよ」
会話が途切れ途切れになりながらも、歩く。店内に入り、二人には少し大きなテーブルに通された。
「話なんだけどさ」
深呼吸をする。
「村雨さんは、こないだ僕のことを好きだと言ってくれたと思う。すごく嬉しかった」
店内に掛かるジャズの軽やかな音は僕には千鳥足の酔っ払いのように感じた。
「僕は村雨さんのことが好きだと思う。でも、僕は僕が好きじゃないんだよ」
今にも転びそうな体勢で、足を出さねば転んでしまう。
「僕は村雨さんが思うよりも卑屈で優しくない」
一歩踏み出しても、またすぐに転びそうになる。
「それでも良いなら僕と仲良くしてほしい」
でもそれは確かに一歩だ。
「それは付き合うってこと?」
村雨が口を開く。
「待っててほしい」
僕は村雨の目を見る。
「僕が、僕を好きと言えるまで。そしたらちゃんと村雨さんに好きって言いたい。付き合ってくださいって言いたい」
もう言葉は出ない。これ以上足は踏み出せない。
それは一般的には告白未満だったが、僕にとっては確かに告白だった。
村雨から視線を手元に落としそうになるが、それでも僕は目を逸らさない。
村雨は目を伏せ、顔も少し俯きがちだった。唇がかすかに動いていて、その様子は言葉を選んでいるように見えた。店内のジャズはその曲を終え、少しの沈黙があった。村雨は何かを決めて僕の目を見る。
スッと、息を吸う音が聞こえた。
了




