第26話 決意
腹の底に溜まるぐちゃぐちゃは無くなった訳ではないが、これ以上村雨を待たせるわけにはいかない。喉元まで迫り上がってきたそれが胸くらいに留まっているのを感じながら、個室の扉を開けた。
手を洗うと、水が冷たい。まだまだ暑さが残る秋だが、熱っぽい身体にはちょうど良かった。水でヒタヒタのままの手で首に触れると、どこか冷静になれる気がする。
手を拭い、首についた水がぬるくなったのを拭き取り、鏡を見て一息つく。無意識のうちに髪をかきむしったのか、髪が荒れている。
自分では、自分はこんなのがお似合いだと思っている。しかし、この歳にもなれば最低限は恰好に気を使わないといけないらしい。
やばい顔をした鏡の自分の髪を整え、無理やり笑顔を作る。真顔と笑顔を数回繰り返して、それなりに無難な笑みを作れるのを確認して
(上手くやれよ)
と鏡の目の前の男に唱えた。
「ごめん、お待たせ」
僕が村雨に後ろからそういうと、村雨は肩を跳ねさせた。自分でも思いのほか低い声が出て、失敗したと思う。普段の僕なら、この時なんて言うのだろう。
ふざけた事でも言いそうなものだが、どうにもそう言う気分ではなかった。頭も重い。
「いこっか」
「……えぇ」
喉の奥から漏れる声はまたも低く、覇気がない。最悪だと思いながら、改めることもせずダラダラと思考だけが垂れ流されている。
視点は定まらず、浮かれた雰囲気の装飾を眺め、場違いだと思った。
「占いって教室どこだっけ?」
「わかんないや」
僕はぼんやりする視点を手元に戻し、パンフレットを開く。占いに行きたいと村雨が言うが、何一つ記憶にない。1ページずつ捲りながら占いの文字を探した。
「2-1だって」
「ねぇ」
村雨が少しだけ大きな声を出した、気がした。実際に大きかったのか分からないが、彼女の声が浮いて聞こえたのだ。
「無理してない?」
それは彼女の声に、この場の雰囲気と反対の、心配とか悲しみとか怒りとか、いろんな感情が含まれているからだと他人事のように思った。
「……大丈夫」
自分で言ってて、大丈夫な人の台詞ではない。
「無理してるなら言ってほしい。私なにか嫌なことしちゃった?」
不機嫌なことを隠そうともしない自分の態度を客観的に考えると、やっぱり最悪だと思う。だが、最悪であることの方が今の僕には心地よかった。
「村雨は悪くない。ただ……」
それより先の言葉は出てこない。言葉にならないし、するべきではない。この感情は彼女だけには伝えてはいけない。
「人に揉まれて疲れただけ」
「……」
「大丈夫だから」
「……」
「……」
「……」
言い訳する言葉も出なくて言葉に詰まる。何も言わない村雨の方を見ると、笑ったような諦めたような顔をしていた。
「わかった。保健室に行こ。体調が良くなったらまた回ろう。ね?」
「そうしよう。また今度一緒に」
その場を凌ぐための言葉がスルスルと出てきたことに驚きを覚える。
「絶対に」
村雨の目を見てそんなことを言った。この期に及んで、嫌われたくないと保身に走ろうとする自分の邪悪さを心の中で嗤う。
沈黙のまま村雨に保健室に連れられ、ベッドに横になる。そのまま今日という文化祭は終わった。
。……。。……。。……。
「ねぇ」
私は松村くんの目を見る。
「無理してない?」
言うべきかどうか、迷った。松村くんが調子を崩しているのは明らかだった。
「……大丈夫」
かろうじて絞り出したような松村くんの声は、私の知らない苦しみが滲んでいた。私は松村くんが何に苦しんでいるのか知りたい。
いや違う。
「無理してるなら言ってほしい。私なにか嫌なことしちゃった?」
松村くんのことを知りたいのも本当。だけど、それ以上に私が彼の負担になっているとしたら、とても怖かった。
「村雨は悪くない。ただ……」
否定の言葉はすぐに出てきた。いつもは村雨さんと呼ぶのに、今は村雨と呼んだ。私はその言葉を聞いて少しだけホッとする。それから、松村くんは下をじっと見つめて、言葉を選んでいるようだった。
「人に揉まれて疲れただけ」
「……」
松村くんは顔を歪めていた。きっと松村くんが思っているより、彼は表情豊かだ。笑う時はコロコロ笑って、本当に楽しそうに微笑む。だからこそ、違和感がある。
「大丈夫だから」
「……」
私は、松村くんの本当を知りたい。
「……」
「……」
そして、松村くんは恐る恐る顔を上げた。やっと目が合った気がする。その顔色は、はっきり言って酷かった。
「わかった。保健室に行こ。体調が良くなったらまた回ろう。ね?」
「そうしよう。また今度一緒に」
お互いに言い訳の余地を残している――。
「絶対に」
――そんなことを思った自分を恥じた。きっとそれは松村くんなりの優しさなのだろう。
なら、私もそうしたい。そう思った。




