静寂は破られる
いつもありがとうございます。
「……厄介なことになったな」
白蛇は、神域の岩陰に身を横たえながら、霧の向こうで起こる変化を見つめていた。
風は乱れ、空気は澱み、語られぬ“ざわめき”が山の外から忍び寄ってくる。
彼にはわかっていた。これが“物語の転換点”であることを。
*
その頃、山のふもとの獣道に、数人の男たちが息を荒げながら歩いていた。
「……あれが“怪異”だ。異形の村の番人……神を気取る化け物だ」
そう囁きながら、彼らはテンの姿を木陰に見つける。
白蛇の加護により進化を遂げたその身体——
瞳に光を宿し、爪が獣を裂く力を持ち、皮膚に鱗の片鱗が浮かぶその姿は、まさに“人ならざる者”だった。
「やっぱり……あれは人じゃねえ……!」
一人が叫び、次の瞬間には誰かが石を投げていた。
それが合図のように、他の者たちも、棒を、罵声を、憎しみを放り投げた。
テンは初めはただ立っていた。
その瞳は困惑し、戸惑い、だが何より悲しみに満ちていた。
「どうして……?」
テンの問いかけに、答える者は誰もいない。
ただ、異形への恐怖と怒りが、男たちを暴徒へと変えていた。
*
トウゲの部下の一人が必死に止めようとした。
「ま、待て! 俺たちは話し合いに来たんだ! これは……!」
だが、彼の声は暴力の奔流の中にかき消された。
テンは殴られ、蹴られ、倒れ、それでも反撃はしなかった。
どこかで、自分が“異質であること”を自覚していたからかもしれない。
もしくは、白蛇さまから授かった力が、無闇に振るうべきでないと理解していたからか。
血の匂いが土に混じり、薄曇りの空に痛みが滲む。
*
そこへ、駆け込んできた三つの影があった。
「テン!!」
カズハの叫びが、怒りに満ちた空気を裂いた。
続いて、ユウイチが駆け寄り、テンの前に立ちはだかる。
「やめろ! テンは、そんなやつじゃない!」
そして、最後にシラハが鈴を鳴らす。
その音は、怒声を静かに押し返すように、山の空気に広がった。
「この子は、ただ“語られただけ”の存在……
お前たちの憎しみで語られたのではない」
しかし、その言葉に反応したのは、人間たちではなかった。
——ゴォォ……。
森の奥から、重く低い唸り声が響いた。
空気が震える。
鳥が飛び去り、獣が息を潜める。
そこに現れたのは、歪んだ影。
“語られぬままに”存在し続けてきた、形なき異形。
それは伝承にも記されず、物語にも登場せず、
ただ“誰にも語られなかった”がゆえに、
何の制限も受けず、ただ混沌として現れた存在。
「……なんだ、あれは……」
ユウイチが震える声で呟いた。
テンは、立ち上がる。
傷だらけの身体で、それでも目の奥には、光が宿っていた。
「白蛇さま……カズハ……僕は、もう逃げない」
彼の背に、語りが灯る。
新たな戦いが、静かに始まろうとしていた。




