影を喰らうもの
第二章クライマックスです
その存在は、明らかに“語られてはならなかった”。
けれど、そこに現れた。
その影は、語りを知らず、名を持たず、形も曖昧なまま——それでも、確かな“飢え”だけは、異様なほど濃く漂わせていた。
「……な、なんだ……この、気色悪い……」
カズハが眉をひそめ、霧の中から漂う気配に目を細める。
「これは……“語られていない”のに……感じる。空気が汚れていく……」
テンは震える拳を握りしめながら、立ち上がっていた。
その視線の先、黒くゆらめく影が、地に伏した男のひとりに触れた。
——ズズッ……。
触れた瞬間、男の身体が“解けて”いくようにして影に吸い込まれた。
悲鳴をあげる間もなく、肉体も、声も、記憶もすべて——ただ“語り”という因果に変換され、影の一部へと組み込まれていく。
「や、やめろ……うわああああっ……!」
逃げようとした別の排斥者も、影の裾に触れた途端、霧の中に沈んだ。
そして影は、彼らの“語られた物語”を取り込み、形を変えた。
——黒い人の形をした“何か”が、霧の中から立ち上がる。
「……あれ、は……!」
ユウイチが息を呑む。
それは、さっきまで村を蔑み、信仰を嘲り、暴力を振るっていた“人間たち”の姿を写し取ったかのような存在だった。
「語られぬ物が……語りを吸って変わった……?」
カズハが震える声で呟く。
その正体を、彼女たちはまだ知らない。
だが、あれは“物語を喰らう”——そして、“物語を装って人を殺す”。
「ユウイチ、シラハ様、下がってください!」
カズハが叫び、テンが二人を庇うように前へ出る。
「俺が、時間を稼ぐ!」
そう叫ぶテンの背に、わずかに光が灯る。
だが、敵の数は多すぎた。
黒い人型の異形たちは、静かに、音もなく、迫ってくる。
「——撤退します!」
カズハの判断は早かった。
ユウイチとシラハを抱えるようにして、三人は霧の山道を下る。
テンは殿を務め、鋭く振り返るたび、歯を食いしばって後退した。
*
白蛇村では、村の者たちが異様な気配にざわめいていた。
村の一角では、トウゲが村の様子を見下ろしながら、ひとりニヤニヤと笑っていた。
「……ふん、暴れた連中を抑えてやれば、恩も売れるし、見返りも引き出せる。これで白蛇村の力を借りた代償として——いや、取り分として……」
だが次の瞬間、彼の表情が凍りついた。
山の霧が裂け、その奥から“黒い人影”たちがにじり出てきたのだ。
「な、なんだ……あれは……!? あれはもう……人じゃない……っ!」
声にならぬ声で呟きながら、トウゲは後退する。
その目には、明らかな“恐怖”が宿っていた。
その瞬間——
「神域——展開する」
白蛇の静かな声が社を震わせる。
霧が渦を巻き、空気が変わる。
神域の輪郭が広がり、村を包み込むように、力が地を走る。
村人たちは息を飲み、狼狽える。
「な、なんだ!? この空気……胸が締めつけられるような……」
「でも、なぜか……安心するような気も……」
そんな混乱の中、村へたどり着いたカズハが声を上げた。
「落ち着いてください! これは白蛇さまの力です! この神域が、村を守っています!」
その声に、村人たちの視線がカズハに集中する。
「敵はすぐそこです! 交戦準備! 村の周囲を包囲し、女性と子供たちは社の奥へ!」
カズハが指示を飛ばし、村人たちが動き始めたその瞬間だった。
——ズッ。
何かが“歪んで”現れる音。
次の瞬間、黒い異形の一体が、まるで“語り”に反応したかのように、カズハの背後へ瞬間移動する。
「——危ない!!」
テンの声と共に、彼の身体がカズハに飛び込む。
刹那、黒い爪がカズハを貫こうと迫った——が、
テンがその身で受け止め、地面に倒れ込んだ。
「……テン!!」
ユウイチとシラハが駆け寄る中、カズハは息を呑む。
テンの背から血が滲み、地に赤が広がっていた。
「……カズハ様……無事で、よかった……」
テンの微笑に、カズハは拳を握りしめる。
その瞳の奥、炎が燃え始めていた。
そして空より白き閃光。
白蛇が、最初に現れた異形めがけて、空を裂くごとく突撃していた。
神域が輝きを増し、戦の幕が、いま静かに、だが確実に開いた。




