帰還と空色の髪飾り
南へ向かう帰路は、行きに比べれば驚くほどあっけなかった。
山を下り、チビキのギルドへ立ち寄って討伐完了のサインをもらい、チャーターした定期馬車でヴェイン家の領地へと直行する。
小高い丘の上に聳え立つ黒石の屋敷が見えた時、俺は深いため息を吐き出した。
家を離れてからほんの数週間しか経っていないというのに、何年も放浪していたような錯覚を覚える。背中の荷物の重みにもすっかり慣れ、四肢を巡る身体強化の魔力は滑らかに循環し、腰の小刀はすっかり体の一部のように馴染んでいた。七歳の肉体は、確実に強靭さを増していた。
砂利の敷かれた前庭で馬車を降りる。
訓練場では、ジェローム卿が私兵たちの剣術訓練を検分しているところだった。車輪の音に気づいて振り返り、汗を拭いながら豪快な笑みを浮かべて大股で近づいてくる。
「北の険しい山も、お前たちを呑み込むことはできなかったようだな。無事の帰還を歓迎するぞ、ヴェラ、テオ!」
「蠍の巣穴掃除は骨が折れたがね。報酬分以上の働きはしてきたよ」 ヴェラは大剣と荷物を地面に下ろし、俺の肩をポンと叩いた。
「この坊やも、一度たりとも泣き言を垂れなかったよ。一人前の戦士として合格点さ」
ジェローム卿は俺の目の前に屈み込み、その鋭い鳶色の瞳で俺の全身をじっくりと観察した。
引き締まった足腰、下顎の古傷、そして長旅の砂埃をまとった佇まい。彼は深く、満足そうに頷いた。
「瞳の色が変わったな、テオ。死線を潜り抜け、恐怖から逃げなかった男の顔だ。実に見事な初陣だったな」
「ありがとうございます、ジェローム卿」 俺は丁寧に一礼を返した。
百戦錬磨の武人に認められるのは素直に誇らしかった。 だが……俺の視線は、無意識のうちに屋敷の裏手や窓際へと彷徨っていた。
あいつは、どこだ?
卿への報告をヴェラに任せ、俺は足早に屋敷の奥へと向かった。 石造りのアーチを抜け、午後の日差しが差し込む中庭の洗濯場へと足を向ける。
――いた。
背を向け、洗い立てのシーツが詰まった籠を抱えて立つ小さな後ろ姿。 擦り切れたいつものエプロンに、今にも千切れそうな細い麻紐で雑にまとめられた淡い色の髪。
「ただいま、リンネ」
声をかけた瞬間、籠が手から滑り落ちそうになった。
少女が弾かれたように振り返る。
いつも力なく垂れ下がっていた長い尖り耳が、アンテナのようにピクリと跳ね上がった。大きな灰色の瞳が見開かれ、信じられないものを見るように俺を凝視する。
「テ、テオ……坊ちゃん……!?」
彼女は小走りで二、三歩駆け寄り、ドレスの裾を踏みそうになって慌てて立ち止まった。 震える小さな両手でエプロンを握りしめ、その瞳にみるみる大粒の涙が溜まっていく。
「ご無事で……! 本当に、ご無事で帰られたのですね……!? 腕がもがれたり、毒に侵されたりはしていませんか……!?」
「ピンピンしてるよ」 俺は両手を広げて、その場でクルリと一回転して見せた。
「ほら、無傷だ。出発前にもらったあのハーブ袋、洞窟の異臭を消すのにすごく役に立ったよ。ありがとう」
リンネは胸を撫で下ろし、へなへなと肩の力を抜いた。 いつもの怯え切った表情が消え去り、子供らしい純粋な安堵がその顔に広がっていく。
俺はジャケットの内ポケットに手を差し入れた。
「……それとさ。チビキの市場で、お土産を買ってきたんだ」
麻布で丁寧に包まれた小さな小包を取り出し、彼女の前へと差し出す。
リンネは完全にフリーズした。 差し出された小包と俺の顔を交互に見つめ、激しく狼狽している。
「わ、私に……ですか……? で、ですが、私はただの下働きで……貴族の方から贈り物をいただくなど……」
「くだらない身分なんて関係ないよ」 俺は彼女の強張った小さな手を取り、分厚いタコのある手のひらの上に包みを乗せてやった。
「これは貴族から使用人への施しじゃない。友達から友達への、ただのお土産だ。ほら、開けてみなよ」
震える指先で、リンネはゆっくりと紐を解いた。
包みが開かれた瞬間――午後の木漏れ日を浴びて、空色の布で作られた髪飾りが鮮やかに輝いた。木の葉を模した木製の留め具が、素朴だが品のある光沢を放っている。
彼女の唇が、小さく「あ」と開いた。 壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、おそるおそるその布地に触れる。
「……綺麗……。こんなに綺麗なもの、生まれて初めて見ました……。でも、どうして私に……?」
「その綺麗な髪に、千切れそうな麻紐は似合わないと思ったからさ」 少し照れくさくなって、俺はポリポリと頬を掻いた。
「似合うと思って選んだんだ。使ってくれたら嬉しいな」
リンネは古い麻紐を解いた。 サラリと、淡い銀の濡れ髪が華奢な肩へと零れ落ちる。彼女は震える手つきで空色のリボンを通し、木の葉の留め具をパチンと留めた。
透明感のある銀髪に、鮮やかな空色が映える。
尖ったエルフの耳と相まって、その姿は息を呑むほど可憐だった。三十一歳の童貞(中身)の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
……うわ、ヤバい。こいつ、将来とんでもない絶世の美女になるぞ。
リンネはそっと髪飾りに触れ、俺を見つめ――そして、大粒の涙をボロボロと零し始めた。
おいおい、マジか!?
「ちょ、気に入らなかった!? 嫌なら別のを買い直すけど――」
言い終わるより早く、リンネが小さな体を投げ出すように俺の胸へと飛び込んできた。
ぎゅっ、と抱きしめられる。
華奢な見た目からは想像もつかないほど強い力だったが、そこにあるのは暴力ではなく、暗闇の海でようやく見つけた浮き木に縋りつくような、切実な温もりだった。彼女は七歳の俺の肩に顔を埋め、しゃくり声を上げて泣きじゃくった。
「だ、誰も……生まれてから一度だって、私に何かをくれた人なんていませんでした……っ! 嬉しいです……っ! ありがとうございます、テオ坊ちゃん……っ!」
両手を浮かせたまま、俺は途方に暮れた。 だがすぐに苦笑し、彼女の小さな背中を優しくトントンと叩いてやった。
元奴隷として、どれほどの地獄を耐えてきたのか。その凍りついた孤独を、今は全部吐き出させてやりたかった。
もう泣かなくていい。お前の暗闇は、ここで終わりだ。
その日の夕暮れ。 山並みの向こうに沈む夕日が、空を紫と茜色のグラデーションに染め上げていた。
少し頭を冷やすため、厩舎の裏手の空き地を通りかかった時のことだ。
ドスゥンッ! バギィッ! ドスゥンッ!
鈍い重低音が響いてきた。 板塀の隙間から覗き込む。
空き地の真ん中で、あの空色のリボンを風になびかせながら――リンネがシャドーを行っていた。
先ほど俺の胸で泣いていた少女の面影は微塵もない。低く落とされた重心、岩のように大地を掴む足腰。魔力など一切纏っていないというのに、彼女の拳や肘が空を裂くたびに、鋭い衝撃波が風を切り裂いている。
鉄板で補強された極太のオーク材の丸太に向かって、彼女の踏み込みが炸裂した。
ズドォォォォンッッ!!
丸太が根元から激しく揺れ、乾いた破砕音と共に縦に亀裂が走った。
骨格の回転と体重移動だけで生み出された、純粋な破壊の力。歴戦の格闘技の達人すら舌を巻くレベルの拳撃だ。
俺の背筋に、冷たい汗が流れた。
……おいおいおい、マジかよ。 あんなの腹に直撃したら、俺の内臓が背中から吹き飛ぶぞ。
背後の本館のテラスに視線をやると、ヴェラとジェローム卿が欄干に肘をついてその光景を見下ろしていた。
ヴェラは黒ビールの入ったジョッキを傾け、丸太を粉砕する少女を一瞥すると、獰猛な笑みを浮かべて卿に言った。
「ねえ、ジェローム。あの娘をいつまでも屋敷の雑用係にしておくのは、そろそろ限界なんじゃないのかい?」
ジェローム卿は短く低く笑い、力強く頷いた。
「同感だ。……次に貴様たちが街道へ出る時は、リンネも連れて行け」
中庭で、丸太を真っ二つに叩き割ったリンネが、頭の上の空色のリボンをそっと撫でながら誇らしげに微笑んでいた。
うん。 どうやら俺たちの傭兵チームは、予想の遥か上をいくバイオレンスな集団へと進化するらしい。




