第一話 第二の人生
俺の人生は、いったいいつからこんなに狂い始めたんだろう。
一応、プログラマーとして働いている。立派な仕事かと聞かれれば微妙だが、少なくとも人生の大半を底辺でもがいてきた俺にとっては、悪くない職だった。
ところが最近、人工知能の進歩がとんでもないことになっている。この調子では、俺が会社からお払い箱にされる日もそう遠くないだろう。
なんとも皮肉な話だ。
自分の手で、自分を滅ぼすものを作る。
これほど身に染みる言葉も、なかなかない。
仮に明日、会社をクビになったとしよう。俺には何が残る? 貯金か? ない。持ち家か? それもない。困ったときに助けてくれる友人? ははっ、笑わせるな。
ここ何年も、俺がやってきたことといえば、働いて、請求書を払って、また働く。それだけだ。毎日毎日、同じことの繰り返し。考えてみれば、どうしてあんな惨めな生活を必死になって守ってきたのか、自分でもよく分からない。
そして今度こそ、終わりというわけか。
少し冷静に考えてみよう。
善人には良いことが起こり、悪人には不幸が訪れる。世の中というのは、本来そうあるべきだろう? 良いことをすれば報われる。悪いことをすれば罰が当たる。単純明快、公平そのものだ。
だったら、どうして俺はこんな状況で仕事の心配なんかしているんだ?
ついさっき、制御を失ったバスが歩道に突っ込んできて、俺をはね飛ばした。
衝撃で壁に叩きつけられた俺は、そのまま車体と壁の間に挟まれている。骨が何本折れたのかなんて分からない。ただ、これだけ血が流れているところを見ると、身体の中身が無事で済んでいるとは到底思えなかった。
痛い。
くそっ、なんだよ、この痛みは。
息を吸おうとしても、胸が言うことを聞かない。肺のどこかがおかしくなっているらしい。呼吸するたびに激痛が走り、いっそ息をするのをやめたくなる。口の中には鉄臭い味が広がり、さっきまで灰色だったシャツは、すっかり赤く染まっていた。
それでも、首だけは少し動かせた。
そこでようやく気づいた。
俺の目の前には、大勢の人間が集まっていたのだ。
おっ、あそこにいる男。小学校の同級生じゃないか。名前は忘れたが、あの顔には見覚えがある。あっちの女も、確かインターンのときに世話になった人だった気がする。
よく見れば、知らない顔に混じって、知っている顔がいくつもある。
ずいぶんな偶然だな。
よりにもよって俺が死にかけているときに、人生で出会った人間の半分くらいが見物に来ているらしい。
さて、ここで問題だ。
こいつらの共通点は何でしょう?
正解は――全員、スマホを持っていることだ。
写真を撮る奴、動画を回す奴。わざわざ近づいてきて、俺がどれだけひどい状態になっているのか確認すると、満足したように立ち去る奴までいる。
一人の男なんか、わざわざ腰を落として撮影角度を調整していた。
俺の顔がちゃんと映るか確認しているのかもしれない。
おい、そこのクソ野郎。
俺、まだ生きてるんだけど。
壁に挟まれているのが見えないのか? いい感じの撮影角度を探している暇があったら、少しは何かしてくれよ。救急車を呼ぶとか、周りの連中をどかすとか、なんでもいいだろうが!
もっとも、俺の考えていることなんて誰にも聞こえない。
当然だ。
こんなときだけ世界が俺の願いを聞いてくれるなんて、都合が良すぎる。
一人の女が口元を押さえ、恐ろしいものでも見たような顔をした。
おっ、もしかして助けてくれるのか?
そう思ったのも束の間、女は首を横に振って何かを呟くと、そのまま撮影を続けた。
ああ、もう。
ふざけんなよ。
こいつらが嫌いだ。この街が嫌いだ。こんな世界、大嫌いだ。
善人は幸せになれるんじゃなかったのか?
だったら、どうして俺がこんな目に遭わなきゃならない?
家族の借金を背負ったのは俺だぞ!
あの年寄り二人の面倒を直接見たくなかったから、代わりに金を払うことにした。それは認める。だが、だからなんだ? 金が空から降ってくるわけじゃない。誰かが働かなきゃならなかったし、その役目を押しつけられたのが俺だったんだ。
それなのに、兄弟たちはどうだ?
何か問題が起こるたびに、あいつらは都合のいい言い訳を見つけて逃げていった。
あのクソどもは俺と同じくらい性格が悪い。いや、俺よりずっとひどい!
それなのに、どうして俺だけがこんなところで野良犬みたいに死ななきゃならない?
あいつらは今頃、家でのんびりテレビでも見ているんだろう。
なんでだよ。
親のそばにいる代わりに、金を払うことを選んだからか? 何年も働いてきたことには、何の意味もなかったっていうのか?
仕事も、自分の生活も、全部捨てて、あの年寄り二人に尽くしていれば、俺は立派な息子だったとでも?
冗談じゃない。
はぁ……疲れた。
視界の端から、じわじわと暗くなっていく。
もう一度息を吸おうとした瞬間、喉の奥から何かが込み上げてきた。激しく咳き込み、口から溢れた血がシャツの上にぼたぼたと落ちる。
やっと収まったと思ったら、また咳が出た。
さらに血が流れる。
くそっ。これは本当にまずい。
いったい、どれくらい経ったんだ?
五分か? 十分か? もっとかもしれない。
相変わらず人だかりはできているが、飽きて帰った奴もいるらしい。
人が死ぬところを見るのも、思ったより時間がかかると退屈なんだろうな。
笑える話だ。
今までずっと、誰も俺に関心なんか持ってくれないと愚痴っていたのに、今ではこれだけの観客が集まっている。
まさか注目を浴びるために、バスにはねられる必要があったとは。
神様がいるなら、一度くらい助けてくれたっていいじゃないか。
そうだ。一度でいい。
俺が望んでいるのは、それだけなんだ。
もっとまともな家庭に生まれていれば、俺の人生だってきっと違っていた。
金の心配をせずに勉強できて、好きな仕事を選べて、まともな人間たちと知り合えたはずだ。
もしかしたら、俺を愛してくれる女だって見つかったかもしれない。
そんなに贅沢な願いか?
ただ、問題から問題へと這いずり回るだけじゃない人生を、一度くらい送ってみたかっただけなのに。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
ようやくか。
随分と待たされた気がする。もう三十分くらい、このままだったんじゃないか?
人垣が割れ、制服姿の男が二人近づいてくるのが見えた。
一人が俺に向かって何かを叫んでいる。口は忙しなく動いているのに、何を言っているのかさっぱり分からない。
返事をしようとしても、喉から漏れたのは掠れた音だけだった。
くそっ。
遅すぎるんだよ。
身体が冷たい。
足の感覚がない。
それどころか、さっきまで全身を襲っていた痛みまで、少しずつ消え始めていた。
楽になったはずなのに、なぜか嫌な予感しかしない。
周囲の声が耳障りな雑音に変わり、人々の顔がぼやけていく。
そして、とうとう何も見えなくなった。
真っ暗だ。
どれくらい、その暗闇の中にいたのだろう。
数秒かもしれないし、永遠だったのかもしれない。何も分からないまま、ただ意識だけが漂っていた。
やがて、どこからか妙な声が聞こえてきた。
「…………」
ん?
なんだ、この言葉は?
ちょっと待て。
俺はさっき、バスに潰されたんじゃなかったか?
じゃあ、ここはどこだ? 病院か? まさか外国の病院に運ばれたのか?
なんとか目を開ける。
視界が妙にぼやけているが、目の前に男がいることは分かった。
白い髪に、整った顔立ち。香水のCMにでも出てきそうな、なかなかの美男子だ。
ただし、その男は泣いていた。
それも、ものすごい勢いで。
おいおい、そんなイケメンが女の子みたいに泣くなよ。
誰か死んだのか?
いや、俺の置かれていた状況を考えると、その誰かが俺じゃないことを祈るばかりなんだが。
「…………!」
男が涙声で何かを言った。
どこにいるのか尋ねようとしたが、俺の口から出てきたのは、情けない唸り声だけだった。
「あぅ……うぅ?」
……は?
なんだ、今の声。
もう一度試してみるが、結果は同じだった。
舌がまるで言うことを聞かない。それどころか、腕も重くて持ち上がらない。
もしかして、事故で脳に障害でも残ったのか?
冗談じゃないぞ。あんな事故から生き延びた挙げ句、一生まともに喋れなくなるなんて、笑えないにもほどがある。
必死に状況を整理していると、もう一人、誰かが近づいてきた。
そして――。
おおっ!
なんだ、この美人は!
白い髪に黒いメッシュが混じっていて、肌は透き通るように白い。顔立ちも繊細で、視界がぼやけていても、とんでもない美人だということだけは分かる。
こんな女、今まで間近で見たことがないぞ。
もしこれが死にかけた脳の見せている幻覚なら、最後の最後でずいぶん気の利いた配役をしてくれたものだ。
それにしても、白髪か。
日本で、こんなに真っ白な髪の人間なんて、そうそう見かけない。
もしかしてヨーロッパか?
事故のあと、外国人の家族にでも助けられたのだろうか。
「…………」
「…………」
女が何かを言い、男が涙声で答える。
それにしても、妙な言語だ。聞き覚えのある単語が一つもない。
すると、女が両腕を伸ばし、俺を抱き上げた。
おおっと、奥さん。
これはこれは……。
近くで見ると、身体つきまでなかなかのものじゃないか。
胸は、俺がラテン系の女と聞いて想像するほど巨大ではない。となると、やっぱりここはヨーロッパなのかもしれないな。
偏見だなんて言わないでくれよ。
ラテン系の女は巨乳だろ?
少なくとも、俺の頭の中ではそういうことになっている。
それはともかく、この女の胸は実にいい具合だった。
大きすぎず、小さすぎず、丸みのある綺麗な形。まさに天然の芸術品だ。道ですれ違ったら、思わず振り返る男も少なくないだろう。
こんな女と普通に知り合えていたら、どれだけよかったことか。
できれば、バスにはねられるなんて面倒な手順を踏まずにな。
へへへ……。
いやあ、俺も捨てたもんじゃないな。
ただ、一つだけ問題がある。
よだれが垂れているのだ。
くそっ。
いつから俺は、自分の口すらまともに制御できなくなったんだ?
喋れないうえに、よだれまで垂らすなんて、まるで馬鹿じゃないか。
やっぱり事故で脳がやられたのか?
女は俺の表情がおかしかったのか、くすっと笑った。
そして抱き直すと、優しい声で何かを話しかけてくる。
美人で、優しくて、おまけに俺を心配してくれているらしい。
いやあ、素晴らしい待遇だ。
だが、胸のことばかり考えている場合じゃない。
いい加減、ここがどこなのか確かめなければ。
まず目についたのは、木でできた天井だった。
壁も木製で、家具もほとんどが木造らしい。電灯もコンセントも、電子機器らしいものも見当たらない。部屋を飾っている布まで、なんだか手織りに見える。
なんだ、この病院は?
ここではまだセメントが発明されていないのか?
ははっ、まさかな。
どうせ昔の暮らしに憧れている変わり者だろう。金持ちというのは、本当に妙な趣味を持つものだ。
中世の生活を再現するために大金を払うくせに、使用人には水道もない家でバケツを運ばせる。
そんな連中がいても不思議じゃない。
もっとも、それでは俺がここにいる理由を説明できないんだが。
周囲をもう少し観察しようとしていると、扉が開き、二人の人間が入ってきた。
メイド服らしい格好をした女と、執事にしか見えない男だ。
……。
おいおい、冗談だろ。
執事までいるのか?
メイドは小さな、きらきらと光る物を手にしていた。
鏡だろうか。
ここからでは、よく見えない。
「…………」
「…………?」
「…………」
また例の意味不明な言葉だ。
白髪の男が何か答えると、俺を抱いている女が嬉しそうに笑った。
なんなんだ、こいつら。
どうしてそんなに嬉しそうなんだ?
さっきから、やたらと俺の顔を覗き込んでくるし。
事故から生還した人間を見るのが、そんなに珍しいのか?
……待てよ。
何かがおかしい。
白髪の男が、やけに大きく見える。
女もそうだ。
俺の身体なんて、女の両腕の中にすっぽり収まっている。
それに、さっきからまともに喋れない。腕も自由に動かせないし、頭なんて首で支えるだけでも一苦労だ。
いや。
まさか。
そんなはずは……。
メイドが近づいてきて、鏡をこちらに向けた。
少しぼやけてはいるものの、そこに映っているものは十分に見えた。
丸っこい顔。
白い産毛のような髪。
雪みたいに白い、ぷにぷにした頬。
赤ん坊だ。
鏡の中に、赤ん坊がいる。
なぜか俺が首を動かすと、その赤ん坊も動いた。
口を開けてみる。
赤ん坊も、まったく同じ動きをした。
……。
は?
ちょっと待て。
この赤ん坊って……。
俺なのか!?
***
自分が赤ん坊に転生したと気づいてから、一か月が経った。
そう、転生だ。
どうしてこんなことになったのか、さっぱり分からない。だが、ほかに説明のしようがないのだから仕方がない。
ここは病院でもなければ、俺が怪しげな人体実験によって赤ん坊にされたわけでもない。
ましてや、手の込んだドッキリ番組の撮影でもなさそうだ。
俺はもう一度、生まれたのだ。
それが今のところ、唯一の結論だった。
しかし、なぜだ?
死ぬ直前に願ったことを、神様が聞き届けてくれたのだろうか。
あまりにも惨めな俺の人生を見かねて、どこかの神様が二度目のチャンスを与えてくれたとか?
あるいは、俺が何か特別な使命を背負った選ばれし者だったりしてな。
ここまでとんでもないことが起きているんだ。それくらいの可能性があっても、おかしくないだろう。
へへへ。
選ばれし者、か。
なかなかいい響きじゃないか。
もっとも、本当に俺を選んだ神様がいるのなら、そろそろ仕事の説明くらいしてくれてもいいと思う。
こういう話では、たいてい綺麗な女神様が真っ白な空間に現れて、新しい世界の仕組みを教えてくれるものだろう?
お詫びに特別な能力の一つや二つ、くれたっていいはずだ。
ところが、現実は違った。
女神様は現れない。
説明もない。
今のところ、特別な能力だって確認できていない。
ただ赤ん坊として目を覚まし、あとは全部、自力で調べろというわけだ。
ずいぶん不親切な転生サービスだな。
まあ、文句ばかり言うつもりもない。
何しろ、生きている。
その一点だけでも、前の状況と比べれば大きな進歩だ。
おまけに、この一か月、周囲を観察しているうちに、どうやら俺はかなり運がよかったらしいことも分かってきた。
まず、今の家は金持ちだ。
それも、かなりの金持ちらしい。
屋敷は広い。前世で住んでいたアパートの十倍くらいはありそうだ。使用人が何人も働いているし、家具も立派で、少なくとも誰かが買い物のたびに小銭を数えているようには見えない。
執事までいるんだぞ!
はははっ!
長年、借金の返済に追われていた俺が、今度は他人に金を払って家事を任せられる家に生まれたわけだ。
これを人生の大逆転と言わずして、なんと言う!
それに、今の両親は俺のことをずいぶん可愛がってくれているようだ。
白髪の女――おそらく母親だろう――は、一日の大半を俺を抱いて過ごしている。
男のほうも、俺の顔を見るたびに変な顔をして笑わせようとしてくる。
なかなか奇妙な経験だった。
前世では、誰かから何かを求められることなく、これほど構ってもらった記憶がほとんどない。
ところが今は、腕をちょっと動かしただけで、大人が嬉しそうに褒めてくれる。
赤ん坊というのも、案外悪くない。
もちろん、欠点もある。
食事なんて、その最たるものだ。
三十一歳の男としての記憶が残っている俺にとって、この身体の食生活はかなり不便というか、色々と思うところがある。
排泄の問題に至っては、もう考えたくもない。
俺に残されたわずかな尊厳を守るためにも、詳しく語るのはやめておこう。
それはさておき、この家の食事についても、いくつか気づいたことがある。
食卓に並ぶ料理は、どうやら新鮮な食材ばかりを使っているらしい。肉、野菜、それに前世では見たこともない植物まで出てくる。
缶詰もなければ、工場で作られたような食品も見当たらない。
正直、あまり美味そうに見えない肉もある。
もっとも、生後一か月の俺には食べられないので、実際の味については何とも言えないんだが。
しかし、それ以上に奇妙なのは、この屋敷に現代的な技術がまったく見当たらないことだ。
テレビもない。
冷蔵庫もない。
電灯もコンセントも、一度たりとも見かけていない。
調理にガスを使っている様子もなかった。
何もかも薪や蝋燭、その他の古臭い方法でどうにかしているらしい。
最初は、両親が昔の生活に憧れる変わり者なのだと思った。
ほら、いるだろう?
わざわざ無人島を買ったり、インターネットのない場所で休暇を過ごすために大金を払ったりする金持ちが。
だったら、現代文明を捨てて生活する一家がいても、不思議ではない。
ところが、観察を続けるうちに、その説明も怪しくなってきた。
文明を使わないと決めるのと、文明の痕跡がまったく存在しないのとでは、話が違う。
使用人たちですら、この生活に何の疑問も抱いていないように見える。
まるで、それ以外の暮らし方を知らないかのように。
もしかして、とんでもなく発展の遅れた国に生まれたのか?
いやいや、待ってくれよ。
せっかく金持ちの家に生まれたのに、電気すら発明されていない土地だったら、あまりにも運が悪すぎるだろ!
もちろん、今の俺に贅沢を言う資格がないのは分かっている。
前世のアパートなんて、ここに比べれば犬小屋みたいなものだった。
それでも、せめてテレビくらい欲しいじゃないか。
そんな疑問に対する答えが、今日、ようやくやってきた。
しかも、あまりにも突拍子のない形で。
母親が俺を抱いたまま、台所へ向かったときのことだ。
これまでにも何度か台所には来ていたが、たいてい料理が出来上がったあとだった。
ところが今日は、ちょうど火を起こすところを見ることができた。
母親は薪の前に立つと、片手を軽く持ち上げ、あの不思議な言語で何かを呟いた。
「…………」
そこまでは別におかしくない。
祈りの言葉かもしれないし、ただの独り言かもしれない。俺だって、機械が思うように動かないときは、よく物に向かって文句を言っていた。
だが、次の瞬間だった。
母親の指先に、小さな火の玉が現れた。
……。
は?
その炎は、しばらく宙に浮かんだまま、母親の顔を淡く照らしていた。
そして彼女が何気なく手を動かすと、火の玉は薪に向かって飛んでいき、ぱっと火をつけた。
……待て。
待て待て待て待て!
なんだ今の!?
火の玉!?
今、何もないところから火の玉を出したよな!?
もっとよく見ようと身を乗り出そうとするが、この役立たずの身体は自分の頭すらまともに支えられない。
そんな俺の動きに気づいた母親が、こちらを見て微笑んだ。
「…………?」
何かを優しく問いかけてくる。
驚いちゃったの? とでも言っているのだろうか。
それとも、どうしてそんな馬鹿みたいな顔で竈を見つめているのか、不思議に思っているのかもしれない。
いやいやいや!
あんた、今、手から火を出したんだぞ!
普通じゃないだろ、それ!
まともな人間は、マッチかライター、あるいは点火装置を使うものだ。意味不明な言葉を呟いたら、目の前に火の玉が出てくるなんてことはない!
少なくとも、日本ではな!
何かの手品か?
隠された機械でもあるのか?
もしかすると、俺の知らない超高度な技術が存在するのかもしれない。
だが、それならどうして電気すらないんだ?
いや、そんな説明のほうがよほど無理がある。
となれば、考えられる可能性は一つしかない。
魔法。
本物の魔法だ。
ははっ……。
嘘だろ。
俺、本当に魔法のある世界に来ちまったのか!?
そう考えた途端、今までの疑問が一気に繋がり始めた。
木造の屋敷。使用人たち。奇妙な服装。電化製品が一つもない生活。
もしかすると、この家の人間は変わり者でもなければ、発展の遅れた国に住んでいるわけでもないのかもしれない。
そもそも、ここは地球ですらないのでは?
まったく別の法則で成り立つ世界。
人間が、たった一言と手の動きだけで火を生み出せる場所。
考えてみれば、俺は何年もパソコンの前に座りながら、こんなファンタジー世界で暮らせたらどれだけいいだろうと妄想していた。
物語の主人公たちは、死んだと思ったら異世界で目覚め、特別な能力を手に入れて、あっという間に誰もが驚くような存在になっていく。
昔は、ずいぶん都合のいい話だと思っていたものだ。
だが、今なら……。
俺にも魔法が使えるんじゃないか?
母親が火を生み出せるなら、ほかの魔法だって存在するはずだ。
水、風、土、雷。
もしかすると、空を飛んだり、傷を治したり、想像もつかないようなことまでできるのかもしれない。
へへへ……。
面白くなってきたじゃないか。
いや、本当に面白くなってきたぞ!
母親は俺の反応を気に入ったのか、嬉しそうに話しかけ続けている。
残念ながら、何を言っているのかは一つも分からない。
この世界の言語は日本語とはまるで違う。音の並びも、言葉の調子も、注意して聞いていてさえ、すぐに混ざってしまう。
覚えるまでには、かなり苦労しそうだ。
普通の赤ん坊が言葉を理解するまでにどれくらいかかるのかは知らないが、前世の記憶があるぶん、多少は有利だと信じたい。
何しろ、俺には三十一年分の人生経験があるのだ。
まあ、その三十一年間で身につけたものといえば、失敗することと、請求書を払うことと、人生に文句を言うことくらいなんだが。
履歴書に書けるような立派な経験ではない。
それでも、何かの役には立つだろう。
そのあとは、特に変わったこともなく時間が過ぎていった。
家族が夕食を取っている間も、俺はいつも以上に真剣に周囲を観察していた。彼らの会話、屋敷の中の道具、何気ない仕草。そのすべてが、今までとはまったく違って見える。
夜になると、両親は俺を寝かしつけるために、何かの物語を聞かせ始めた。
当然ながら、内容はさっぱり分からなかった。
というより、俺の頭の中は、さっき見た火の玉でいっぱいだった。
魔法……か。
なるほどな。
三十一年間、働いては借金を払い、自分の不運を呪い続けてきた俺が、今ではこんなところにいる。
金持ちの家に生まれ、俺を可愛がってくれる両親がいて、目の前では不可能だと思っていたことが平然と起こる。
もしかすると、神様は本当に俺の願いを聞いてくれたのかもしれない。
あるいは、単なる幸運だったのか。
どちらでもいい。
少なくとも、今度ばかりは文句を言うつもりはなかった。
もっと知りたいことが山ほどある。
両親はいったい何者なのか。この世界の魔法はどういう仕組みなのか。そして、幼い頃から魔法を学び始めたら、俺はどこまで強くなれるのだろう。
久しぶりだった。
これほど多くの可能性が目の前に広がっていて、何から手をつければいいのか分からなくなるなんて。
しかも、何が一番素晴らしいかって?
明日は仕事に行かなくていいのだ!
はははっ!
そう考えるだけで、幸せな気分になってくる。
残念ながら、生後一か月の身体は、俺の興奮なんて知ったことではないらしい。
まだまだ考えたいことがあるのに、まぶたが重くなってきた。必死に目を開けていようとしても、頭の中が少しずつぼんやりしていく。
くそっ。
まだ寝たくない。
せっかく魔法があると分かったのに。
これから何をするか、もっと考えて……。
……。
結局、俺は睡魔に負けた。
そのまま、ぐっすり眠ってしまったのである。
【読者の皆様へ】
この作品は、私自身が心から描きたいと思っている物語です。
異世界転生というジャンルが好きだからこそ、「もっとこういう物語が読みたい」と感じることがありました。それなら、自分で書いてみよう。そんな思いから始まった作品です。
現在、物語をより丁寧に描くため、初期のエピソードから少しずつ加筆・修正を進めています。そのため、改稿の途中では、話数によって一部の描写や設定に食い違いが生じる場合があります。
ただし、物語の根幹や、私が描きたいものが変わるわけではありません。
これからも、自分自身が納得できる物語を目指して書き続けていきたいと思っています。
どうか温かく見守っていただければ幸いです。
※現在、序盤のエピソードを順次加筆・修正しています。改稿中は、一部の描写や設定に食い違いが生じる場合があります。




