463 (子供の教育に悪そうな鳴き声)
その日から、イナリはサニーと共に「りはびり」に取り組むのが日課になった。
「お狐さん、がんばって!」
「はっ……はぅっ……ひぅぅ……」
純粋な応援の声に応えるのは、弱々しい喘ぎ声を上げながら生まれたての小鹿の物真似をしている狐――もとい、イナリである。
サニーが健気に応援してくれるのはありがたいのだが、神の威厳も何もない、こんなみっともない姿を幼女に見られている羞恥心もまた凄まじかった。
「ふふ、イナリさん。可愛いですよ。とっても、可愛いですよ……」
「も、もう、無理じゃぁ……」
それに、イナリの手を引いて先導するエリスもエリスだ。彼女はずっと、サニーとは違って「純粋」の対極にいるような笑みを浮かべているのだ。
そのせいか、最初は孤児院の表で「りはびり」に取り組んでいたのだが、孤児院担当の神官から、やんわりと「子供たちの教育に悪いから他所でやれ」と苦情を受けてしまった。
おかげで、今はガーディが管理している庭の一角を間借りしての「りはびり」が常である。草花の香りがイナリに活力を与えてくれるので、これはこれで悪くないが。
「車いすまであと少しです。イナリさんならできますよ!」
「うぅ、エリスは鬼じゃ……」
「オニって何ですか? ほら、あと数歩、頑張ってください!」
目に涙を浮かべながらよたよたと庭を歩いたイナリは、苦労の末に車いすまでたどり着き、倒れ込むように座った。
大した運動量でもないというのに、体中に汗が浮かんでいるし、尻尾も少し重く感じられる。外の寒い空気が、今は涼しいとすら思えた。
「ふぅ、はあぁ……疲れた、のじゃぁ……」
「お疲れ様でした。お体、お拭きしますね」
エリスにされるがまま、顔や首周りを拭いてもらっていると、サニーも傍に歩み寄ってくる。
「お狐さん、昨日よりもちゃんと歩けてたよ! すごい!」
「よ、よく、見ておるのう……そうじゃ。我は、着実に、回復しておるのじゃ……」
「イナリさん、立つだけなら自力でもできるようになりましたもんね」
イナリの回復は目覚ましい……とまで言えるかはわからないが、毎日、少しずつだが体を動かす力は戻ってきている。このまま順調にいけば、あと一週間程度で以前と同程度の体力は取り戻せそうだ、というのがイナリの見立てである。
ただ、それはイナリが神だから、というよりかは、イナリの体力的な基本性能が普通の人間を大幅に下回るから、相対的に回復が早い、という線が濃厚だ。とても、とても認めがたい事実だが。
「そういえば、イナリさんにプレゼントがあるんです」
「ぷれぜんととは何じゃ?」
「じゃじゃん、杖です」
エリスはおどけながら、腰に提げていた杖を差し出してきた。なるほど、「ぷれぜんと」とは贈り物のことを指す言葉のようだ。
杖の長さはイナリの身長の半分よりやや長いくらいで、頭の部分についた葉っぱのあしらいが、まるで木の枝を想起させるような意匠であった。
「そろそろ杖を使って移動することもできそうだと思いまして、ガーディさんにご用意して頂きました。先端に氷の矢を射出できるスクロールを仕込んであるので、護身にも使えます」
「ふむ……リズの車いすといい、この世界の住人はあらゆる物に魔術を仕込まないと気が済まないのかや?」
「リズさんのはちょっと異常ですが、こういう杖は割と一般的ですよ。魔術師が咄嗟に魔法を撃ちたい時に使えたりしますし」
「そ、そうなのじゃな」
なるほど、イナリにとって杖は姿勢を安定させるための道具だが、この世界の常識ではそれは二の次で、武器としての機能の方が強いらしい。異文化の感覚の違いを垣間見たイナリであった。
ともかく、イナリは杖を受け取り、地面に突き立てて慎重に立ち上がる。
「……ど、どうじゃろか」
「お狐さん、似合ってるよ!」
「長さもぴったりですね」
「うむ……」
イナリを褒める二人を前に、イナリは引き攣った笑みで返した。
これはまるで、己が年寄りにでもなったようではないか……いや、実際年齢的にはそれで間違いないのだが。
「……ま、今度から歩く練習の時にでも使うとするのじゃ。早く治さねば、サニーと遊ぶ約束も果たせぬし」
「うん! 今度、一緒にお散歩しよ!」
「ふふ、そうじゃの。愛い奴じゃ」
イナリはサニーの頭にぽんと手を置いた。またエリスが羨ましそうにしていたので、しゃがませて一緒に撫でてやった。
その日の夕方、自室でもちまると共に絵を描いていたところに、珍しい来客があった。
それは、しばらく手紙でのやり取りが続いていた相手――ランティスであった。
「ごきげんよう。お元気そうで何よりですわ」
「うむ、おかげさまでの。……随分と久方ぶりではないかの?」
「そうですわね。私は毎朝、貴方の寝顔を拝んでおりましたけれど」
ランティスは軽く皮肉るように頷いた。
「して、今日は何用じゃ? 我は相変わらず、死ぬ気配はないのじゃ」
「今日は別件ですわ。二人きりで話す必要があると言えば、お察し頂けるのではなくて?」
「というと……ふむ」
それはつまり、イナリの正体が絡む話――つまり、魔の森の調査に関する話ということだろう。
「内密に進めたいことですので、私が滞在しているゲストハウスに移動しましょう。ご安心を、世話役の皆様には既に承諾頂いておりますわ」
「ふむ。まあ、お主のことは信用するのじゃ」
厳密にはアルトに仕える聖女たるランティスを信じる、と言った方が正確だが。イナリにまつわる諸々の事情を知っている以上、害する意図は無いと見ていいだろう。
イナリが頷いて返すと、ランティスが唐突に手をぱんぱんと叩き、外から一名の聖騎士を呼び出した。
思わず警戒して尻尾を膨らませたイナリだったが、その目に敵意が無く、淡々と車いすをベッドに寄せたのを見て、少し緊張を解いた。
「……少々気遣いに欠けておりましたね。聖騎士ではなく、他の神官に手伝ってもらうべきでしたわ」
「んや、問題ないのじゃ……もちまるは連れて行っても構わぬか?」
「そのスライムの従魔ですわね? ええ、構いませんわ」
ランティスが頷くと、もちまるはするするとイナリの頭上に移動する。続けて聖騎士がイナリの身体を抱き上げようと手を伸ばしてきたので、イナリはそれを手で制す。
「我一人でも動けるのじゃ」
必要以上に弱い存在と思われたくないのもあったし、それを抜きにしても、聖騎士に触れられるのは何だか嫌だった。
イナリはゆっくりとベッドから身を起こし、危なっかしい動作で車いすに座った。
「では、参りましょうか」
ランティスが歩き始めると、イナリを乗せた車いすがゆっくりと動き始めた。




